明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 3

216.『心』志賀直哉の場合――時任謙作の呪い


 話は脇道へ逸れるが、朝日の新聞小説キャンセル事件について、志賀直哉自身が「創作餘談」で触れているのでそれを紹介したい。そのついでに志賀直哉の文章をいくつか見てみることにする。漱石の人となりを知るのに決して無益ではないと信じるからである。
 ちなみに志賀直哉は(学習院の)中学高等学校時代でさえ、教室の中でじっとしていることが出来なくて、学業はトップクラスであったにもかかわらず、操行点が最低で、そのため成績はいつもクラスの中位に甘んじていたという。幼い頃手の付けられない腕白坊主だったとも言われる。これは(漱石と同じく)生みの母親と引き離されたせいであると誰もが思う。我が国の文豪の必要条件を、(芥川龍之介太宰治三島由紀夫やその他大勢と同じく)志賀直哉もまた充分に満たしているのである。(本項の引用は昭和49年岩波書店版『志賀直哉全集』第7巻「随筆」、第8巻「随筆・雑纂」による。)

 私は作品によって、楽に出来る事もあるが、時々随分手古摺る事がある。「暗夜行路」は中でも手古摺った物と云えるが、本統に手古摺ったのは「暗夜行路」の前身である「時任謙作」という所謂私小説の時だった。大正元年の秋、尾の道にいた頃から書き出し、三年の夏までかかって、どうしても物にならなかった。夏目さんから手紙で、東京朝日新聞に出すように勧められ、その気で書いていたが、新聞の読物故豆腐のぶつ切れは困るから、その心算で書くようにというような夏目さんからの注意があり、これには困った。夏目さんには敬意を持っていたし、自分の仕事を認めて呉れた事ではあり、なるべく、豆腐のぶつ切れにならぬよう書くつもりでも、それまでが白樺の同人雑誌で何の拘束もなしに書いて来た癖で、一回毎に多少の山とか謎とかを持たせるような書き方は中々出来なかった。夏目さんはその年、春頃から、「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終ったところで直ぐ連載される筈で、私は松江に行ってそれを書いていた。一緒に行っていた里見と昼は舟遊び水泳などをしてよく遊んだが、夜は明方まで、それにかかっていた。「心」には其頃「先生の遺書」という傍題があり、こういうものが尚幾つか集まって、「心」という長篇になるものとばかり考えていたが、「心」の方は一日々々進んでいるのに、私の長篇はどうしても思うように捗らない。私は段々不安になって来た。若し断るなら切羽詰らぬ内と考え、到頭、その為め上京して、牛込の夏目さんを訪ね、お断りした。ところが、「心」は「先生の遺書」で終るもので、私が切羽詰らぬ内と考えていたのはあて違いだった。夏目さんは考え直すよう、そして若しその小説が書けないなら、書けない気持を小説に書けないものかと云われた。私は其時考えて見ましょうとは答えたが、書けそうな気はしなかった。
 翌日早速断りの手紙を出した。そうしたら夏目さんから、書けた時には必ず朝日新聞に出すようにという大変懇篤なる手紙が来た。ありがたく思った。
 私の出すべき長篇小説の空地はその頃の私位の若い連中の中篇小説幾篇かで埋める事になったが、義理堅い夏目さんにそんな事で迷惑をかけたのは大変済まない事に感じ、何時かいい物を書いて、朝日新聞に出そうと思ったのが、他にも理由はあったが、それから四年程何も作品を発表出来なかった原因の一つであった。それが出来るまでは別の短篇を書いても他の雑誌へ出す事は遠慮しようと思っていたのだ。ところが其間に夏目さんは亡くなられた。新聞社からの直接交渉は一度もなかったので、夏目さんが亡くなられた事で、私の此気持は自然解放されたが、その後初めて発表した「佐々木の場合」という小説を亡き夏目先生にデディケートして僅かに自分の止むを得なかった不義理を謝した。
「暗夜行路」の前身「時任謙作」は永年の父との不和を材料としたもので、私情を超越する事の困難が、若しかしたら、書けなかった原因であったかも知れない。然し間もなく私は「和解」という小説に書いたような経緯で、大変気持のいい結果で父と和解をした。・・・(志賀直哉「続創作餘談」/『改造』昭和13年6月号)

 志賀直哉は『暗夜行路』のプロトタイプを(たぶん面倒なので)「時任謙作」に統一しているが、大正3年に50回分くらい書いていたらしい下書きは、「時任信行」というタイトルであったと思われる。新聞小説は「豆腐のぶつ切れ」ではいけない、つまりいつも同じ調子ではなく、1回ごとに小さな山を作ったり、次に興味をつなぐような書き方をしたり、と漱石から言われて、自分のスタイルに合わないことを悟った志賀直哉は閉口して逃げ出したのだろう。

 ちょっと話が志賀直哉の方へ逸れてしまうが、志賀直哉の創作態度とは次のようなものである。「創作餘談」と共に有名な「革文函」「リズム」から抜粋引用する。

 雑談で済む話は雑談で済ませるがよい。雑談では現せないものがあって初めてそれは創作になるのだ。雑談で尽せる話をそのまま書いて創作顔をしているのはよくない。
 頭ですっかり出来上った話は書いて面白くない。流れるのではなく、強引でものにするからだ。
 創作家の経験は普通、経験が多いと云って、ほこっている人間のような経験の仕方では仕方がない。経験そのものが稀有な事だったと云う事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に芸術品である」というような文句があるが、そんな事を自分で思っているから、尚芸術品にならないのだ。
 材料を征服する気でかからねば駄目だ。材料をかついで、よろけて居ては仕方がない。よろけながら悲鳴をあげても、その悲鳴が芸術にはならない。(志賀直哉「革文函」/『文藝春秋』大正15年1月号)

 (すぐ)れた人間の仕事――する事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志をはっきり(或は漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
 芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。
 此リズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉らそうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱――問題はそれだけだ。
 マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返していれば段々「うまく」なるから、いい筈だが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなって了うからだ。「うまい」が「つまらない」と云う芸術品は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。(志賀直哉「リズム」/『読売新聞』昭和6年1月13日)

 だから鷗外はつまらないと志賀直哉は言う。志賀直哉漱石に惹かれた理由が分かる気がする。そして晩年の漱石から離れた理由も。
 志賀直哉は我が国の小説家にあって例外的に通俗のものばかり読んで大家になった人である。それだけ台()が優れていたと言うべきか。その意味で漱石に似ていると言えなくもない。漱石も小説を書くために小説を読む人ではなかった。漱石志賀直哉も、彼らの読書傾向を探ったからといって、彼らの作品を理解するのに何の役にも立たないところが共通している。つまりいくら勉強しても彼らのような作品は書けないということである。代作者の存在しえない2大作家。それが漱石志賀直哉であるともいえる。