明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 2

215.『心』消印の秘密(承前)――短篇がいつのまにか長篇へ


 ここで当然にも読者は次の疑問にぶち当たる。第1作が先生の死(自死)であるというからには、2作目3作目はどんなものが予定されていたというのか。登場人物がリセットされるにしても、『心』という総題が与えられているからには、先生の死と愛に、附かず離れずの話が1つでも2つでも用意されていたというのか。
 恋の鞘当てと友人の死、おそらくそのための自死(遺書)という重すぎる短篇の後に来る物語とは、一体どんなものであろうか。人生の意義の発見(覚醒)・養家への裏切り・生家への復籍・経済上の絶縁、といった漱石の身につまされるような篇が書かれただろうか。どうせ漱石が一度は書いておかねばならなかった話である。これは長篇化した『先生の遺書』の中で、Kの身上としてもさらりと使われてしまった。そして次回作『道草』でも一方の大きなテーマとなった。
 そしてまた、『明暗』の通奏低音たる津田と清子の「結婚未遂事件」のような逸話が予定されていたのか。漱石は心ならずも『心』を現行の形で収束させてしまったが、そのとき(リューマチと本人が信じた)痺れる手から零れ落ちた筆は、その一部が『道草』と『明暗』の材料になったことだけは疑いないと思われる。
 先走ったことを言うようだが、このとき(『心』として)構想されていた津田と清子の具体的な交際の経緯は、2年後『明暗』を書き始めたとき、漱石の中ではもう陳腐化していたのだろう。もったいないことに(あるいは妥当にも)それを省略して、その次のフェーズから『明暗』は開始された。

 それはともかく、ここでは『心』に立ち返って、『先生の遺書』という短篇がなぜそれだけで(長篇になって)完結してしまったかという謎については、やはり漱石の書簡によるのが一番手っ取り早い。
 本ブログ(「行人篇」)でもちょっと触れたことがあるが、漱石志賀直哉の『時任謙作(時任信行、大津順吉)』(『暗夜行路』のプロトタイプ)を朝日に紹介して、結局志賀直哉が断った事件について、その弁明の手紙に自作『心』の連載のことが(ついでのように)書かれている。(前項同様岩波書店版定本漱石全集第24巻「書簡下」より引用。読みやすいよう一部句読点を付加した。)

 ・・・両三日前志賀直哉君(当時雲州松江に仮寓、小説の件をかねて上京)見え、実は引きうけた小説の材料が引き受けた時と違った気分になって、もとの通りの意気込でかけなくなったから甚だ勝手だがゆるして貰いたいというのです。段々事情を聞いて見ると①先生の人生観というようなものが其後変化したため其問題を取り扱う態度が何うしてもうまく行かなくなったのです。違約は勿論不都合ですが、同君の名声のため朝日のためにも、気の入らない変なものを書く位なら約束を履行しない方が双方の便宜とも思いましたが、多少私の責任もありますし、又残念という好意もあったので再考を煩わしたのです。所が今朝口約の通り返事がきて、好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る訳には行かないというのです。それで②私の小説も短篇が意外の長篇になって、あれ丈でもう御免を蒙る間際になっている際ですから、あとを至急さがす必要があるのですが御心当りはありますまいか。・・・(大正3年7月13日消印午後1-2時山本笑月宛「編輯用急」と付記)

 7月13日といえば『心』はすでに90回(89回)も書いて、あと20回というところである。先生の「遺書」も佳境に入って、Kの告白(御嬢さんへの想い)が書かれる辺であるから、小説はもう「終わる間際」まで来ているというのである。この②のくだりは、担当者と互いに了解し合っていることを、重ねて丁寧に述べたに過ぎまい。
 ところで①の「先生の人生観のようなもの」の「先生」という記述であるが、文章としては志賀直哉を指すか、作品の主人公たる時任某を指すかのどちらかであろう(あるいは主人公の父とか祖父とか)。志賀直哉漱石の講義を聴いたこともある年少者(17年下)であり、ご愛嬌で先生と呼ぶほど親しくもない。『暗夜行路』の登場人物にも先生はいない。思うに漱石は「主人公」とか「人物」とか、あるいは「彼」「同君」とでも書くべきところを、つい自分が今書いている「先生の遺書」に引き摺られてしまったということだろうか。

 朝日の文芸欄に責任のある漱石は続けて、短篇のつもりが長くなってしまった理由についても、ちゃんと述べている。同じ山本笑月宛書簡で、(志賀直哉の小説があてに出来なくなったので)『心』のあとの小説を探すのに苦労する担当者をねぎらう気持ちで、

 ・・・可成(なるべく)「先生の遺書」を長く引張りますが今の考えではそうそうはつづきそうもありません、まあ百回位なものだろうと思います。実は私は小説を書くと丸で先の見えない盲目と同じ事で何の位で済むか見当がつかないのです。夫で短篇をいくつも書くといった広告が長篇になったような次第です。「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添えて読者に詫びる積で居ります。斯うして考えていると至極簡単なものが、原稿紙へ向かうといやにごたごた長くなるのですから、其辺は御容赦を願います
 つぎのひとに就ては別段どんな若手という希望をもった人も差当りありません。志賀の断り方は道徳上不都合で小生も面喰いましたが芸術上の立場からいうと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になったのを強いて愛したふりで交際をしろと傍からいうのは少々残酷にも思われます。・・・(大正3年7月15日消印午後3-4時山本笑月宛)

 まるで『明暗』が際限なく続く言い訳を先取りしているかのような手紙であるが、これを読むと『道草』が百回ほどで終わったのが奇跡のようにも思える。よほど鏡子のことは書くのが厭だったのか。
 それは冗談だが、では短篇として連載の始まった『心――先生の遺書』は、いつごろ方針変更されたのだろうか。考察するには連載回を順に追って行くしかないのであるが、先生と私が散歩の途中にふらふらと植木屋の広い敷地に迷い込むという、例によって挿入された意味のよく分からない冗長なエピソードの書かれた26回~29回のあたりであろうか。それとも父親の加減が悪くて急に帰省することになったという21回~23回のあたりだろうか。詳細は後述するとして、今は仮にそれを第11回とだけ言っておく。

 ところで本ブログ行人篇(第33項)
漱石「最後の挨拶」行人篇 33 - 明石吟平の漱石ブログ

漱石志賀直哉に関する談話(と志賀直哉の日記)を引用したが、ここで漱石志賀直哉宛書簡全4通を掲げておく。志賀直哉(や樋口一葉)のような転居癖のある作家の場合は、住所地も重要な要素であるから、特に付記する。引用元は上記と同じ。月日、夏目金之助、そして志賀直哉様とあるのは通例なので略す。
 何回かの授業は別としても、朝日、武者小路実篤、『留女』、そして時任謙作(時任信行)を介して水のような交わりに終わった2人の文豪だが、志賀直哉漱石に私淑していたのは事実であり、志賀直哉の方が芥川龍之介よりも漱石の影響を受けていた(創作家として)と言えるのではないか。

 御手紙拝見しましたから御返事を差上ますが、それを御覧になる時は正月ですから御目出度も一所に申上て置きます。武者小路君を通して御依頼した事につき御承諾の意を御洩し被下まして難有存じます。夫に就てわざわざ会見の日取を御問合せになりましたが、私の方は今いつが空いているという程多忙の身体でもありませんから、あなたの方で極めて一寸御通知を願いたいと思います。若し私の方で都合が悪ければ其時申上ますから。御宅と私の家とは大変かけ隔っていて御気の毒です。電車は江戸川終点か若松町行の柳町という停留所で御降りになるのです。是も序に申上ます。以上(大正2年12月31日消印午後10-12時、麻布三河台町 志賀直哉宛)

 細かいことを言うようだが、上記傍線部分「それを」は、ふつうは「これを(是を・此を)」であろう。漱石は書きながら「この」手紙を相手が見ることを想定し、相手が手にした手紙をイメジして「それ」と書いたのである。この独特の時空の認識は漱石の小説にも顕著に見られる。

 拝啓両三日前社へ行ってあなたの小説の事をしっかり極めて来ました。今のが三月一ぱい続くそうです。私が四月から其後をかきます。あなたのは私のあとへ出す事に致します。私のは何回になるのだかまだ何を書くあてもないから分りませんが、まあ順序丈はそういう筈にしましたから一寸御知らせして置きます。どうぞ御積でいて下さい。一寸行こうと思うが大井ときくと遠方のような気がして無精の私にはまだ足が向きません。以上(大正3年2月2日消印午後0-1時、府下大井町 志賀直哉宛)

 御手紙を拝見しました。又関西へ御出のよし承知しました。小説は私があらかじめ拝見する必要はないだろうと思います。夫から漢字のかなは訓読音読どちらにしていいか他のものに分らない事が多いからつけて下さい。夫でないと却ってあなたの神経にさわる事が出来ます。尤も社にはルビ付の活字があるから、ワウオフだとか普通の人に区別の出来にくいものは、いい加減につけて置くと活版が天然に直してくれます。
 あなたに用の出来た時は仰せの通り麻布三河台へ手紙を上げる事に致します。以上(大正3年4月29日消印午後3-4時、麻布三河台町 志賀直哉宛)

 御書拝見どうしても書けないとの仰せ残念ですが已むを得ない事と思います。③社の方へはそう云ってやりました。あとは極りませんが何うかなるでしょう御心配には及びません。他あなたの得意なものが出来たら其代り外へやらずに此方へ下さい。先は右迄。匆々(大正3年7月13日消印午後1-2時、麻布三河台町 志賀直哉宛「親展」)

 書簡は同じ7月13日付、同じ消印でも、先に引用した山本笑月の書簡より後に書かれたであろうことが、③の記述で分かる。穴埋めの作品のあれこれについて、朝日と志賀本人に対しては当然書き方のニュアンスは異なるし、将来でもいつでも、作物が出来たらまず朝日へ廻せというのも、立場上尤もであるが、ちゃんと親展にしているのは漱石らしい律儀さである。手紙が転送されるかも知れないということも想定していたのだろう。