明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 1

214.『心』消印の秘密――起筆日は大正3年4月15日


 前作『行人/塵労』全52回の連載が終って半年、『心――先生の遺書』全110回は大正3年4月20日から8月11日まで連載された。起筆は4月15日か16日、擱筆は8月1日であろう。延べて109日か108日。1日1回のペースが保たれているのはめでたいが、それを(僅かとはいえ)超えているらしいのが心強い。漱石はいつ1日2回書いたのだろうか。いつも通り書き出しに愚図ついていたので、書き始めたときは頭の中に1回分くらいストックかあったのだろうか。いやいや、書きながら考える漱石としてその可能性は低い。ずっと先へ進んで、房州旅行のくだりだろうか。若い頃の記憶はいくつになっても鮮明で、書いていて筆が停滞するということがない。あるいはもっと先の、遺書が佳境に入った頃であろうか。(太宰治が『斜陽』で直治の遺書を書いたときのように)自分の書いている遺書にぐんぐん引き込まれて、つい運筆の速度が(僅かでも)上がったのだろうか。漱石に限ってそんなことは有り得ないような気がするが、漱石といえども遺書は始めて書くのであろうから、勝手に否定し切れるものでもない。
 起筆日の根拠は例によって漱石の書簡である。想定される4月15、6日前後の、日付の連続する3通の書簡を見てみよう。(岩波書店版定本漱石全集第24巻「書簡下」より引用。省略部分は・・・で示す。読みやすいよう句読点を付加した箇所がある。)

 ・・・小説も書かねばならぬ羽目に臨みながら日一日となまけ、未だに着手不仕候。是も神経衰弱の結果かも知れず厄介に候。・・・(大正3年4月14日消印午前10-11時寺田寅彦宛)

 拝啓御手紙ありがとう。小説はとうから取掛るべきではありますが横着の為ついつい延びまして、其結果編輯上御心配をかけまことに申訳がありません。可成(なるべく)早く書いて御催促を受けないで済むようにしますテニエルの切抜もありがとう。読んで見ました。九十四迄生きた人はあんまりないようですね。一平さんの漫画はまだ出版になりませんか。・・・(大正3年4月15日消印午後5-6時朝日新聞鎌田敬四郎宛)

 ・・・モーパサンの傑作集を御恵贈下さいましてありがとう存じます。不取敢手紙で御礼を申上ます。ああいうものにはあなたの署名が欲しいと思います。夫は私ばかりでなく書物を贈られたものはみんなそう思やしませんか。私ももとは気がつかずに其儘差出しましたが近頃は一々私の名先方の名を書く事に致しました。御礼の序に失礼な事を申上まして済みません。以上(大正3年4月17日消印午後8-9時馬場孤蝶宛)

 体調がひどく悪くない限り、漱石は手紙は自分で出しに行く習慣であったが、書簡から4月14日朝には、小説はまだ書き始められていなかったことが分かる。思い直してその日の内に原稿用紙に向かった可能性はなくはないが、漱石はそんな器用な男ではあるまい。4月14日スタート説だと110日で110回書いたことになり、規則正しい漱石にとって(どうでもいいことだが)大変都合がいいが、『明暗』の頃と違って、この時期の漱石としては出来過ぎの話になる。
 書簡を素直に読むと、4月15日時点でもまだ書き始めていないようにも思えるが、その日に1回分書いてしまって、それで別に惚けるつもりもなく自戒半分安心半分で、以後頑張ると大人の対応をしたともとれる。たしかに文面は「なるべく早く書いて(迷惑かけないようにしたい)」とあるが、「なるべく早く書き始めて」とはなっていない。4月15日の可能性は大いにある。
 続く書簡ではたまたま漱石の教師臭が伺えて微笑ましいが、孤蝶は歳もそんなに違わないので、ふつうならこんなことは書かない筈である。漱石は少しだけハイになっていたのではないか。あるいは余裕が生じたのではないか。4月20日に新聞連載が始まっていることを併せ考えても、少なくとも4月17日の日中の時点では、『心』は何らかの形になっていたと思われる。
 まあ書簡集にない4月16日と見るのが無難であろうが、むしろ4月15日付の朝日の鎌田敬四郎への書簡をよすがにして、ここでは4月15日説を採っておく。漱石は109日間で110回書いたのである。

 擱筆の方は8月1日(消印午後1-2時)朝日の山本笑月宛書簡に、今日届ける分でおしまいであると明言してあるので、まず間違いのないところ。漱石は(漱石に限らないが)7月31日夜に書き上げたのなら8月1日朝一番に投函するので、消印は午後にはならない。

 念のために起筆前後の書簡を確認すると、

 ・・・私は四月十日頃から又小説を書く筈です。私は馬鹿に生れたせいか世の中の人間がみんないやに見えます。夫から下らない不愉快な事があると夫が五日も六日も不愉快で押して行きます。丸で梅雨の天気が晴れないのと同じ事です。自分でも厭な性分だと思います・・・(大正3年3月29日消印午後10-12時津田青楓宛)

 拝啓御教示の趣承知致しました、今度は短篇をいくつか書いて見たいと思います、その一つ一つには違った名をつけて行く積ですが予告の必要上全体の題が御入用かとも存じます故それを「心」と致して置きます。此他に予告の文章は要らぬ事と思います。敬具(大正3年3月30日消印午後3-4時山本笑月宛)

 書簡を読むと、4月14日の寺田寅彦宛書簡で「日一日となまけ」というのは、正直切羽詰まっていたことが分かる。書けない理由は神経衰弱のせいだというのである。
 そして書簡は、あの『心――先生の遺書』というタイトル(サブタイトル)で書き始められた小説が、実は短篇小説として準備されていたという、漱石ファンとしては驚愕の事実を示している。

 あの心という小説のなかにある先生、、)という人はもう死んでしまいました。名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です。あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね。あれは小供がよんでためになるものじゃありませんからおよしなさい。あなたは私の住所をだれに聞きましたか。(大正3年4月24日消印午後2-3時兵庫県松尾寛一宛)

 この未知の読者に宛てた丁寧な書簡は、次に掲げる『心』の本文(傍線部分の②)とも同期しており、先生の死が当該短篇小説の前提になっていたことが分かる。

 私は何故先生に対して丈斯んな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。(『心/先生と私』4回――大正3年4月23日新聞掲載)

 『心』の第1の短篇が、『先生の遺書』という題で毎日掲載され続けていたのが、つい長くなってしまった。(『先生と私』というのは後から本にするとき付け変えたのである。『両親と私』も同じ。最後の遺書本体の部分は『先生遺書』と微妙に変えられた。)その短篇なるものは、当初どのくらいの長さのものが想定されていたか。「今度は」というからには、少なくとも直近の『塵労』52回よりは短いという意味であろうか。(30回か40回くらいのつもりだったのか。)
 『彼岸過迄』6篇では、『風呂の後』12回、『停留所』36回、『報告』14回、『雨の降る日』8回、『須永の話』35回、『松本の話』12回である。『行人』4篇は、『友達』33回、『兄』44回、『帰ってから』38回、そして『塵労』52回。
 これらの各篇は漱石の中では(正鵠にも)短篇ではないという位置付けだったのか。漱石は明らかに『行人』と趣きを変えようとしていたのであるから、分量はともかく相互に同じ設定でない、同じ人物の登場しない、真に独立した短篇を考えていたのであろう。

 ところで上記津田青楓宛書簡の、

 下らない不愉快な事があると夫が五日も六日も不愉快で押して行きます。

 というくだりには、別の意味で驚かされる。
 普通の人は5分も6分も不愉快が続けば、いい加減いやになるところである。それが5時間も6時間も続くとなると、これはもう病気ではないかと本気に悩む。それが何と「5日も6日も」である。いつも本音で応対できる、年の若い気安い友人の(画家の)津田青楓に対してであるから、つい剥き出しの表現になってしまったのであろうが、これはあまりに異常ではないか。周囲も大変だがこれでは本人の身体が持つまい。
 まあこんな状態で漱石は『行人』『心』『道草』と書き継いだのであるから、読者としてはただ首を垂れるしかないのであるが。