明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 41

208.『塵労』1日1回(10)――Hさんの手紙(つづき)


第10章 鎌倉(6月29日)

第46回 鎌倉1 裏後出しジャンケンとは~Hさんが一郎を敬愛する理由~凡庸な人間に対し頭を下げて涙を流すほど正しい人(6/29土)
第47回 別荘から高い崖の松を見上げる~三度の食事は近所の宿屋から運ばせる~ススキの根を這う蟹を見る(6/29土)
第48回 蟹事件つづき~「忘我」「絶対」「所有」とは~一郎の心を奪うようなものがあればいいが(6/29土)

 そんな偏屈な漱石でも、俗物だが素朴なHさんのように、善意に取ってくれる人がいれば、ありがたくこの世を送ることが出来る。ところが現実にはそんな人はいないのであるから、漱石の胃には穴があくばかりである。いくら小説で味方を創っても、現世の利益には結びつかない。漱石が宗教に走らなかったといって、漱石は小説を書く(別の現世を創造する)ことで宗教世界にたっぷり浸かっていると言えなくもない。

第11章 鎌倉最後の夜(6月29日~7月1日)

第49回 一昨日の晩の浜散歩~周囲はアベックばかり~お貞さんの結婚の話~西洋人の別荘~ピアノの音(6/29土)
第50回 香厳撃竹の公案(一撃に所知を失う)~一郎は知恵知識思想すべての重荷をおろして楽になりたい(6/29土)
第51回 鎌倉2 昨日朝食時Hさんは一郎の茶碗にご飯をよそう~お貞さんは幸福か~結婚したお貞さんは幸福か~結婚は女をスポイルする~一郎はてこ盛の飯をむしゃむしゃ食う(6/30日)
第52回 鎌倉3「私は旅行に出てから今日に至る迄の兄さんを出来る丈委しく書いた積です」「過去十日間のうち、此手紙に洩れた兄さんは一日もありません」「兄さんが此眠から永久覚めなかったら嘸幸福だろうという気が何処かでします。同時にもし此眠から永久覚めなかったら嘸悲しいだろうという気も何処かでします」(7/1月)

 私が兄さんからお貞さんという人の話を聞いたのは其時の事でした。①お貞さんは近頃大阪の方へ御嫁に行ったんだそうですから、兄さんは其宵に出逢った幾組かの若い男や女から、お貞さんの花嫁姿を連想でもしたのでしょう。
 兄さんは②お貞さんを宅中で一番慾の寡ない善良な人間だと云うのです。ああ云うのが幸福に生れて来た人間だと云って羨ましがるのです。自分もああなりたいと云うのです。お貞さんを知らない私は、何とも評しようがありませんから、只そうかそうかと答えておきました。すると兄さんが「③お貞さんは君を女にした様なものだ」と云って砂の上へ立ち留りました。私も立ち留りました。(『塵労』49回)

 お貞さんは半年前に結婚している。①の「近頃」というのは、まさに本来の物語の終わりであった筈の春のお彼岸から見て、ぴったりという感じである。半年ではちょっと範囲を超えかけているようにも思える。『明暗』の津田は半年前にお延と結婚していたが、「嬉しいところなんか始めからないんですから」と醒めたような発言をする反面、微妙に新婚の雰囲気を漂わせている様子も伺える。何とも言えないが、お貞さんの場合は「近頃」よりふさわしい言葉が外にあるような気がする。もとより漱石が失念していた可能性も否定しきれない。
 一郎の②のような発言は、発言の内容自体はごく自然であるが、一郎(漱石)みたいな人間は、身内の者にことさら辛く当たるようなところがある。血が繋がっているがゆえによけい我慢できないのか、暴力等が向かう先も、自分や自分の家族がターゲットになる。そのぶん他人には紳士的に振る舞うのである。したがって③のような言い方は、お貞さんやHさんの性質の美点を強調するのでなく、単に自分たちと縁なき衆生であると宣言しているに等しい。一郎は自分に愛想尽かししているのだから、間接的に敬っていることに違いはないのだが。

 話を戻して、Hさんの手紙は49回から話法が変わる。Hさんの今現在は7月1日である。「一昨日」「昨日」と、暦の記述は俄かに具体性を帯びてくる。ここから最後までの4回分を7月1日に書いたと、漱石は言いたいのだろうか。すると30回から48回までの19回分を、6月29日・6月30日の2日間でまとめて書いたことになる。ちょっとバランスが悪いようである。
 それともHさんの手紙はあくまでも7月1日を基準に書かれており、だんだん基準日に近づくにつれて、記憶が明確になってくるであろうという想定に基づいて、それで急に一昨日昨日と書くようになったのか。

 読者はここで『彼岸過迄』の連載最後の3回分、市蔵が旅先から松本に宛てた手紙を思い出さずにはいられない。市蔵は毎日手紙を出した。ほとんどが絵葉書だったので内容は紹介されなかったが、直近の3日間、急に長文の手紙に変わって、その手紙の1回分が連載の1回分としてそのまま掲載された。最後の1回は書いた時刻を括弧書きに付記して、4分割にするという丁寧さを見せた。
 漱石は趣向を変えてHさんの手紙を1本だけにした。最後の3日間は書き方を変えたが、最も肝要の「当日」については、市蔵の手紙の例もあって混乱しそうになったのだろう、前述のように放棄してしまった。
 ところがHさんの主観では、そうではないようである。

 私は旅行に出てから今日に至る迄の兄さんを、是で出来る丈委しく書いた積です。東京を立ったのはつい昨日のようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信を宛にして待って居られる貴方や御年寄には、此十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。然しこの手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、此処へ来て落ち付く迄は、殆ど筆を執る余裕がなかったので、已むを得ず遅れました。其代り過去十日間のうち、此手紙に洩れた兄さんは一日もありません。私は念を入れて其日其日の兄さんを悉く此一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、此手紙を書き終るのですから。(『塵労』52回冒頭)

 しかし前項でも述べたように、6月25日の午後から翌6月26日の晩まで、修善寺2日目の昼食後から2泊目の宿泊を経て、翌日の小田原での晩方まで、丸1日以上の記述が空白である。それと6月30日朝食を食い終わってから、翌7月1日夜手紙を書き始めるまでのほぼ1日半、Hさんの手紙には何も書かれていない。とても上記引用の強調部分のような主張は通用しないようである。どうしてこんなことになったのか。Hさんはほぼ自画自賛していて気が付く気配がない。10日間で2日半の空白。7割5分、75点である。これで合格点だといえるのか。

 それはまあそれとして、結びの言葉だけは当初の意図通りに書かれたようである。楽天家のHさんらしい、(生でも死でも)一郎を肯定する言葉でしっかり結ばれた。悲劇はかろうじて最後の最後に踏みとどまって、一縷の光を(次作のために)残したのである。そしてその光は繋がれたように見えて、次作『心』の半ばで断ち切られる。

《 漱石「最後の挨拶」行人篇 畢 》