明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 40

207.『塵労』1日1回(9)――Hさんの手紙


第7章 沼津(6月29日・6月22日~23日)(以下人物は一郎とHさんのみ)

第28回 鎌倉着 手紙の書き出し~旅行に出て1週間、だんだん手紙を書く必要性を感じるようになった~一緒に旅行する相手のことをこっそり手紙に書いて報告する反倫理より、手紙を書くべきという感情の方が上回るようになった(6/29土)
第29回 二三日前からこの紅が谷に来ている~知人の小別荘だが、宿屋と違って部屋数があるので自由度が増した~手紙を書き始めた(6/29土)
第30回 沼津1 新橋を出る前の突然の行き先変更~沼津到着~囲碁事件(6/22土)
第31回 囲碁事件つづき~やるも地獄やらぬも地獄~進んでも止まっても怖くて怖くて溜まらない(6/22土)
第32回「人間の不安は科学の発展から来る」~心臓の脈打つ恐ろしさ~「人間全体の不安を自分1人に集めて、そのまた不安を一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさ」(6/22土)
第33回 沼津2「善悪も損得もない、天然のままの心を天然のまま顔に出す、その刹那人間は尊い」~一郎は早晩宗教へ行くべき人間か(6/23日)
第34回 下賎でも犯罪者でも天然居士が尊い~であれば他にどんな神が要るのか~僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ(6/23日)

 一郎の恐怖は人間存在の恐怖のことであろう。つまり死の恐怖である。生物の本能として死を忌避するというのではなく、人間として死を懼れるというのは、結局この現行の宇宙が分からないという恐怖のことであろう。その疑問を煎じ詰めれば、自分がなぜ自分に生まれて来たか(自分がなぜ自分になっているか)ということに尽きよう。サンマでもイワシでもなく、鳥でも獣でもなく、1億年前でも後でもなく、百年前でも百年後でもなく、この地球のここら辺の土地に(以下略す)、なぜ(ワタシが)生まれたのだろうかという謎である。
 しかしこの疑問は、日常自分の周囲を見回すと、疑問でも何でもないように思える。人は無数に存在する。人以外にも生き物は無量にいる。これが疑問なら宇宙は疑問だけで成り立っていることになる。
 自分がその中の一だと思っても、宇宙の仕組みがだいたい分かったつもりになったとしても、やはり死への恐怖は去らない。人が沈黙するのは恐怖を克服しているのではなく、考えても始まらないから考えないだけである。それを哲学や宗教の問題にするのは、やはり恐怖を克服しようとしているのに違いない。成功するケースは極めて稀であるが。

第8章 修善寺(6月24日~25日)

第35回 修善寺 興津・清水には行きたくない~修善寺の名前が好き~修善寺は山が迫って窮屈だ~寝られないのは毒~Hさんは寝られないのもまた愉快と言う(6/24月)
第36回 修善寺 山上の垂訓修善寺篇~「あれは僕の所有だ」「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」(6/25火)
第37回 一郎の孤独~両親への不満~嫂殴打事件の告白(6/25火)

 36回、修善寺の山での哲学問答は午前中のことである(宿に帰って昼飯を食っている)。そして37回、昼食後にHさんとの会話の中で、一郎はお直への暴力を告白した。次の38回は小田原へ着いた晩から始まっている(マラルメ事件)。当時修善寺から小田原へ行くには御殿場線を廻るしかないのであるから、まず移動は半日コースである。Hさんの手紙に移動の様子は書かれない。(移動中の一郎に、目につく点は皆無であると言いたげである。)6月25日修善寺の午後から6月26日小田原の夕方まで、なぜか記述は飛んでいるが、彼らが25日に修善寺でもう1泊したことは間違いない。

第9章 小田原・箱根(6月26日~28日)

第38回 小田原1 マラルメ事件~「君の窮屈はマラルメより烈しい」(6/26水)
第39回 小田原2「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか」(6/27木)
第40回 モハメッド事件~「何故山の方へ歩いて行かない」(6/27木)
第41回 小田原宗教問答~神に対する日本人の態度~Hさん殴打事件(後出しジャンケン事件)(6/27木)
第42回 小田原浜辺の彷徨~「山に行こう。もう此処は厭になった」(6/27木)
第43回 箱根1 その晩のうちに箱根入り~隣室はうるさい(請負師か仲買か)~翌日雨の中の大声事件~その晩隣室は静か(6/27木~6/28金)
第44回 箱根2「神は自己だ」「僕は絶対だ」~絶対とは有るような無いような偉大なような微細なような~「根本義は死んでも生きても同じことにならねば、どうしても安心は得られない」(6/28金)
第45回 僕は軽薄才子だ~実行出来ない男だ~一郎の涙~「僕は馬鹿だ」~「二度とこんな所は御免だ」(6/28金)

 前章とは反対に、小田原から箱根は目と鼻の先である。上記下線部小田原2と箱根1は同じ日である。つまり彼らは小田原には1泊しかしなかった。そして箱根にはちゃんと2泊している。1泊目は到着したばかりだが隣室がうるさい、次の日は静かであったと書かれている。
 一郎はどこへ行ってもこんな嫌な土地はないと、最後には思う。漱石は松山でも倫敦でもそう思った。「それはそもそも自分自身が一番嫌いだから」とHさん(漱石)は言うが、或るものを嫌うのと自分を嫌うのとは話が別である。この奇妙な三段論法的な言い訳は、『それから』で代助が平岡と三千代の前で披露したのが始めだが、論理構造そのものは、深く漱石本人のオリジナリティに根差している。大袈裟に言えばそれは漱石作品の通奏低音のようになっているのではないか。
 そしてそれに似た論理建てで、『彼岸過迄/松本の話』(4回)の、市蔵が松本に対して行なったような「後出しジャンケン事件」が、一郎によって再演されている。(本ブログ通し回数160回「彼岸過迄篇38」を参照のこと。)

 一郎は楽天家のHさんに「じゃ君は全く我を投げ出しているね」「死のうが生きようが、神の方で好いように取計って呉れると思って安心しているね」と決めつける。そしていきなりHさんの横面を張る。
「何をするんだ、乱暴じゃないか」
「それ見ろ」一郎の論理は、「それ見ろ、少しも神を信頼していない、ちょっとしたことでやはり怒る、気分の平衡・落着きを失うじゃないか」

 これは誰が見ても屁理屈の範疇ではないか。「裏を返す」という(茶屋遊び等にも使われる)言葉があるが、市蔵の後出しジャンケンの裏を返すようなシーンに見える。思うにこれは相手の質問に対し、真っ直ぐに答えようとしない漱石の曲がった旋毛によるものだろう。