明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 23

190.『帰ってから』1日1回(1)――死は生き通せない


 漱石の作品が読まれ続けるのは、その作品が常に人生の根源的な問題を扱っているからであって、そこには当然生と死の問題も含まれる。漱石の作品は、なによりもまず漱石の死生観に貫かれている。
 ヴィトゲンシュタインが唐突に出現したのも、前著(『明暗』に向かって)で、「愛は尊いものであるが、自分の愛と隣人の愛は異なる。それはあたかも、死は尊いものであるが、自分の死と隣人の死がまったく別物であることに似ている。」(354頁)と述べたことに関連して、「人は誰も隣人の死を経験することは出来ても、自分の死は(観念上は了解しても)実際に経験することは出来ない。人の死は継続するが自分の死は継続しない。」という意味で、ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』(1922年)の、

死は人生の一イベントではない。死は生き通せない

 という有名なフレーズを引用したことによる。

*Ludwig Wittgenstein ‘’ TRACTATUS  LOGICO – PHILOSOPHICUS ’’ Translated by Charles Kay Ogden ( Dover Publications, INC. 1999)
 6.4311 Death is not an event of life. Death is not lived through. による。

 それから二郎とお直の一泊事件における二郎の免責、一郎の寝台車の謎については前項の引用の通りだが、思うに一郎の行為・様態は、

寝台列車は寝るための設備であるから、中では客は寝るのが正しい。
・人の作為によらない、規則正しい振動と機械音が却って心地良い。
・基本的に天の邪鬼であるから、一斉に起きろと言われると、いつまでも寝ている。

 の3点にまとめられると思う。一郎のように何でも気になる人は、ごうごう鳴る列車の方が却って安心して眠ることが出来る。子供のようなところがあるのである。言い方を変えると、いつまでも子供である人を変人というのである。

『帰ってから』 (全38回)

第1章 自分たちはかくして東京へ帰ったのである(『兄』第10章を兼ねる)
    二郎・一郎・直・母・岡田・(お兼さん・佐野)

第1回 旅の終わりⅠ 和歌の浦から大阪へ~岡田に見送られて寝台急行で大阪を発つ(8/16水)
第2回 旅の終わりⅡ 深夜12時、雨の名古屋駅~窓開閉事件~寝台の一郎は眠ることしかしない(8/16水~8/17木)(以上既出)

第2章 自分たちはかくして東京へ帰ったのである(再び)
    二郎・一郎・直・芳江・お重・(母・お貞さん)

第3回 留守宅Ⅰ お留守番した芳江とお守りのお重~芳江はお母さん子(8/18金~8/19土)
第4回 留守宅Ⅱ 講釈好きの父は飽きっぽい~朝貌の変種~兄と嫂の確執は一段落~母の話も一頓挫(8月下旬)

 1週間1人でお留守番した芳江に、お土産を選ぶシーンが書かれなかったのは不思議といえば不思議、流石といえば流石である。現実の漱石は関西からは(またまた鏡子共々)満身創痍に近い状態で帰京したのであるから、土産どころではなかった。だから書かなかったのか。書く気にならなかったのは確かであろう。書くと(事実に反するので)嘘くさくなる。
 漱石は胃腸とともに痔疾にも悩まされたが、本来この両者は同じ病気が原因していると思われる。頭脳の酷使から(長谷川町子みたいに)胃をやられ、坐業につきものの痔疾のダブルパンチ、という見方もあろうが、漱石の場合は同じ病気が複数箇所に発現したのであろう。同じ意味で反対側へ行けば(そこの粘膜は)喉でなければ目である。漱石はお手軽にトラホームと言うが、トラホームでない可能性もあった。漱石は眼病(失明)を忌んだが、幸いにも視力は衰えなかった。尤も長生きしていればどうなったか分からない。(喉も鏡子によれば、頭の具合が悪くなるときには、まず喉がやられると言っている。漱石の場合は、その作品群のように、病巣はすべて繋がっているのである。)

 ところで芳江の年齢であるが、

①大阪の宿に着くなり皆に書いた絵葉書の、宛先の対象になっていないこと。(『兄』2回)
②「よくまあお一人でお留守居が出来ます事」というお兼さんの発言。(『兄』4回)
③「頑是ない」という形容。
④嫂と母が代わるがわる抱いたり下ろしたり。
⑤嫂の後を奇跡の如く追って歩く。(以上『帰ってから』3回)

 から、まず学齢前・識字前の、4、5歳、せいぜい5、6歳であろうか。漱石関西旅行の明治44年でも、四女愛子は7歳。五女雛子は生まれて間もない2歳。芳江の目当てとなったのは、むしろ純一(5歳)伸六(4歳)の年子の男の子であろうか。純一・伸六に亡くなった雛子のイメジを重ねて(雛子は明治44年末には亡くなっている)、芳江を造型したのではないか。
 歳が一番近いのは愛子7歳であるが、『行人』執筆時は8歳から9歳になろうとしている。それに面影が芳江とまるで違う。芳江は「母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした」(『帰ってから』3回)と書かれる。
 芳江の年齢については今後の展開を待ちたいところ。前著でも述べたが、お貞さんがお嫁に行く頃になると豹変するような感じを受けてしまう。
 ただし二郎が父の朝貌の趣味について、見当外れの見解を述べて皆に笑われたときに、こんな記述もある。

 母と嫂は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲けるように笑い出した。すると傍にいた小さな芳江迄が嫂と同じように意味のある笑い方をした
 こんな瑣事で日を暮しているうちに兄と嫂の間柄は自然自分達の胸を離れるようになった。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂の事を説明する必要がなくなった様な気がした。母が東京へ帰ってから緩くり話そうと云った六ずかしそうな事件も母の口から容易に出ようとも思えなかった。最後にあれ程嫂に就いて智識を得たがっていた兄が、段段冷静に傾いて来た。・・・(『帰ってから』4回)

 頑是ない幼女にあるまじき仕草である。では上記①~⑤は何なのか。母(祖母)が抱き上げたり下ろしたりするには、それなりの小ささ(軽さ)が必要なのであるが。
 そして引用文後半、兄だけでなく母もまた、嫂の問題から離れていくようである。しかし『兄』で提起された問題は、そんなことで忘れ去ることの出来ないものであった。

 自分が兄から別室に呼出されたのは夫が済んで少時してであった。其時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎一寸話がある。彼方の室へ来て呉れ」と穏かに云った。自分は大人しく「はい」と答えて立った。然し何うした機(はずみ)か立つときに嫂の顔を一寸見た。其時は何の気も付かなかったが、此平凡な所作が其後自分の胸には絶えず驕慢の発現として響いた。嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨を見せて笑った。自分と嫂の眼を他から見たら、何処かに得意の光を帯びていたのではあるまいか。自分は立ちながら、次の室で浴衣を畳んでいた母の方を一寸顧見て、思わず立竦んだ。母の眼付は先刻からたった一人でそっと我我を観察していたとしか見えなかった。自分は母から疑惑の矢を胸に射付けられたような気分で兄の居る室へ這入った。(『兄』42回冒頭)

 自分は兄と反対に車夫や職人のするような荒仕事に妙を得ていた。ことに行李を括るのは得意であった。自分が縄を十文字に掛け始めると、嫂はすぐ立って兄の居る室の方に行った。自分は思わずその後姿を見送った。
「二郎兄さんの機嫌は何うだったい」と母がわざわざ小さな声で自分に聞いた。
「別に是と云う事もありません。なあに心配なさる事があるもんですか。大丈夫です」と自分は殊更に荒っぽく云って、右足で行李の蓋をぎいぎい締めた。
実はお前にも話したい事があるんだが。東京へでも帰ったら何れ又緩くりね
「ええ緩くり伺いましょう」
 自分は斯う無造作に答えながら、腹の中では母の所謂話なるものの内容を朧気ながら髣髴した。(同44回)

 厭なシーンである。読みたくもなく書きたくもないシーンであろう。でも仕方がない。二郎は兄だけでなく母にも宿題を背負わされている。これもまた、『帰ってから』で確認しなければならない大きな(厭な)仕事である。