明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」番外篇

 さて本ブログも開始して1年経った。本ブログには原則として生者は登場しないが、ここで御盆休みということで、「行人篇」を一時中断して、去年(10月)番外篇として3回分書いた「山田風太郎のあげあしとり」という記事を、本日より3日間、(山田風太郎の霊のために)再度掲載したい。

 

山田風太郎の「あげあしとり」(1)――武蔵の勘違い(再掲)


 論者は前著(『明暗』に向かって)で、山田風太郎の「あげあしとり」(『推理』昭和47年)という短文について、「全文引用したい誘惑にかられる」と書いたが、デジタル社会と作者の山田風太郎に感謝しつつ、ここでそれを実行したい。引用元は中公文庫『風眼抄』(1990年初版)より。山田風太郎が引用した「宮本武蔵」の本文はとくに太字で示した。言わでもがなであるが原文は縦書きであるから「右の(文章)」云々という記述は「上の」「上記の」と心の中で適宜置き換えて読んでいただきたい。

「・・・あっ?」
 武蔵(むさし)は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、
「・・・を、をばさん?」
 武蔵が、意外な言葉を与えたので、賊の妻も、
「――えっ?」
 息をひいて、喘ぎながら相手の顔をしげしげと――
「あっ、おまえは?・・・オゝ武蔵たけぞうさんじゃないか」
 今もまだ、幼名の武蔵たけぞうを、そのまま、自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母お杉ばばを措いて、誰があろう?
 怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。

 右は、有名な吉川英治の「宮本武蔵」――「空の巻」の中の「虫焚き」の章である。
 さて読者諸君、右の一節を読んで、変だと思うところを、一分以内に答えてから、これからあとの私の文章を読んで下さい。
 これは武蔵が信州で山賊の妻となり果てた旧知のお甲という女に襲われる場面だが、それが旧知のお甲であることにまず気がついたから、「を、をばさん?」と呼んだのである。そして、そう呼ばれたからこそ、相手が驚いて、「あっ、おまえは?・・・オゝ武蔵さんじゃないか」と答えたのである。
 ああ、それなのに、今さら武蔵が、自分の幼名を馴々しく呼ぶものは誰だろうと、怪しみながら相手を見まもるという法はないではないか。
 いや、自分のことは棚にあげて、人さまの作品のあげあしをとるのは趣味がよくない。論理一点張りであるべき推理小説ですら甚だあやしげなものが多いことはどなたも御存じの通りであり、特に私のものなど指摘されると降参するよりほかはないものがあるにちがいないけれど、――これはあまりに人口に膾炙した「名作」だから、ここで俎にのせるのである。世にこれを有名税という。
 以下は私の推理である。――
 吉川さんは右の章の前半部分を書かれたあと、ヘトヘトになって一眠りされたに相違ない。そして、眼をさましてから後半部分にとりかかったとき、ついうっかり前半の文章のいきさつを忘れしまったに相違ない。
 こういううっかりは、そんな場合、私もやりかねないから、実作者としてわからないでもない。
 それからまた、「宮本武蔵」のクライマックスは吉岡一門との決闘だが、これはそれが終ってから武蔵が江戸へ下ってゆく途中の話である。作者としては、渾身の力をふるってそこをみごとに描き去ったあとの、中だるみ的な気のゆるみもあったかも知れない。逆にまた、その吉岡一門との戦いと大詰の船島の決闘とのあいだに八、九年の歳月がたつのだが、これからその長年月をいかに武蔵に過させようかという悩みもあったろう。張りつめた場面では作者はめったにミスをしないものだが、ああしようか、こうしようか、或いは、ああでもない、こうでもないと迷っているときは、クライマックスを書いているときよりくたびれるもので、そんな疲れのせいもあったかも知れない。
 しかし、むろんこれはこの「名作」にとって致命的なミスではない。推理小説の大長篇を書いて、あととんでもない論理的ミスに気がついて、訂正しようにも全篇ぬきさしならぬことになっていて、どうにもこうにもならないというような悲劇ではない。作者がこの部分だけ、ちょっと書き改めればすむことである。しかし、発表以来、作者の死まで三十年ちかく、このままで通って来たところを見ると、吉川さんはついに一生気がつかれなかったことと思われる。
 それにしても不思議なのは、吉川さんには百万と称する熱狂的な愛読者があり、また身辺にも讃美者がウヨウヨしていただろうに、最初に発表された朝日新聞はもとより、以後「宮本武蔵」が何百版か版を重ねるあいだ、だれもこのことを指摘して教えてあげた人がなかったのであろうか。まったくファンというものは、あてにならんものである。
 尤も、そんなことをえらそうにいう私だって――私はめんと向って吉川さんにお会いしたことはないけれど、もし生きていられるあいだに気がついたら誰かを介してこのことについて御一考願いたかったほどであるが――それまで少くとも三回くらい眼を通したであろう宮本武蔵のこのミスに、気がついたのは、つい二、三年前という始末であった。
 あてにならんといえば、吉川氏が亡くなったとき、読売新聞にある高名な評論家が「吉川英治論」を書いたが、中で堂々と、「吉川英治はついに忠臣蔵を書かなかった」と意味ありげに書いていたことをおぼえている。ところが、吉川英治には「新編忠臣蔵」という――吉川文学の中でも出来栄えでは上位クラスに属する――作品がちゃんとあるのである。これは、うっかり、ではすまされない。余りよく知らないで「吉川英治論」を書くものだからそういうことになるので、まあ、ひとのこととなると、たいていはこんなものである。(山田風太郎『あげあしとり』全文)

 山田風太郎の主張は(その限りでは)いちいち尤もである。吉川英治が迂闊に見える書き方をすることも多分あるだろう。
(この短文の主旨そのものではないが、文末の「まあ、ひとのこととなると、たいていはこんなものである。」は、時代を超えて真理の呟きであるとともに、文学研究を試みる者にとって永遠の誡めとなる。)

 しかし(それはさておき)ここで取り上げられた「宮本武蔵(空の巻/虫焚き)」における吉川英治の筆致は、山田風太郎の言うような、一方的なケアレスミスではないとする解釈も、また可能ではないだろうか。

 その前に、上記山田風太郎の引用文章の範囲では、武蔵が賊の女を一瞬お杉婆と勘違いしたと読めなくもない。武蔵は一瞬お杉婆の姿が脳裏をよぎり、「おばさん」と言った。女は「タケゾーさんか」と驚いた。武蔵は少し混乱した。自分をタケゾーと呼ぶのはお杉婆しかいないが、そのお杉婆は決して自分を「さん付け」する存在ではない。お杉婆は武蔵(とお通さん)を殺す旅路に出ているのである。それではこの女は・・・。

 山田風太郎の指摘しているのは、そういう話ではあるまい。武蔵はお甲と認識しながら、かつ二重にお甲の名を求めてしまった、と言っているのである。吉川英治の不注意であろうと言っているのである。
 しかし、そうでもない読み方もある、ということを、次回示してみたい。