明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 1

168.『友達』(1)――汚な作りの高麗屋


 本ブログも『彼岸過迄』を了えて、いよいよ『行人』である。
 さて書き間違い・言い間違いは誰にもあることで、多くの場合それは取り上げるまでもない瑣事であろうが、漱石に限っては少し異なる意味合いを持つように思われる。つまり聖典神曲)と錯誤が相容れないという意味で、現行の漱石全集にもそんなものは存在しないと、一般に信じられているからである。おそらく漱石全集に「誤植」は無いのかも知れない。しかし単純な間違いや思い違いは、漱石といえども無しで済まされない。本ブログはそれを(もしそれがあるとして)後世に伝えることを主目的にしている。人の鼻毛を数えることはするべきでないが、偉大な漱石の鼻毛を数えることが可能なら、それはやってみる価値があるのではないか。漱石は自分の鼻毛を原稿紙に植毛したが、後代の愚かな一読者がその数を数えたからといって、漱石も怒りはしまい。

 論者(筆者のこと。以下同断)は学生の頃(1970年代)、学校に行くでなし、下宿の部屋でごろごろしていることが多かったが、昼のNHK-FM放送で欧米のロック・アルバムを丸ごとオンエアする番組があった。あるとき Uriah Heep(ユーライヤヒープ)の Look at Yourself か、それ以前のデビューアルバムだったか(はっきり覚えていないが)流れていて、それはいいのだが、アナウンサーが「()ーライヤヒープ」と原稿を読み間違えて、アルバムが掛かり終わったあと(つまり番組の最後で)、彼が非常に恐縮しながらリスナーに平謝りに謝っていたのを思い出す。このアナウンサーの名は生方恵一であった。当時40歳くらいの所謂中年男であったろう、洋楽のバンド名などちんぷんかんぷんだったに違いない。たぶんディレクターの雑に書いた字のユーをコーと読み違えたのだ。しかしよりによってコーライヤである。高麗屋ヒープである。

 きたな作りの高麗屋

 高麗屋といえばきたな作り、なのかは知らない。論者は学生時代何度か歌舞伎を観に行ったことがあるが、きたな作りにしている(床屋に行った)高麗屋を実見したことはない。きたな作りの高麗屋という言葉は、(歌舞伎世界でなく、)太宰治の『小さなアルバム』(昭和17年)で識っていたに過ぎない。
 ユーライヤヒープというグループは、当時もてはやされていたような、いわゆる見てくれが格好いいバンドではない。というより当時においても信じられないくらい不細工なルックスを、却って売り物にしていたようなバンドだったか。その後  T-LEX とか KISS とか、顔に厚化粧したり全面絵の具を塗りたくったり、その先駆けとなるようなバンドであったろうか、それはともかくこの(きたな作りの)「高麗屋」は、偶然だが言い得て妙な、記憶に残る、歴史的言い間違いであった。
 ちなみに生方恵一はその後出世して、紅白の司会をしていたときに都はるみの名前を言い間違ったとかで、それこそ歴史(軽音楽史)に名を残した。流石高麗屋、と畏敬せざるを得ない。

 まあそんなことは本当にどうでもいいのだが、『行人』を開くとまず、読者は二郎の失言3連発に直面する。

①「奥さん、三沢という男から僕に宛てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」(『行人/友達』4回)
②「奥さんは何故子供が出来ないんでしょう」(同6回)
③「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」(同9回)

 ①をわざわざ言うのは、小説の進行上故意に言わせているとしても、ふつうは考えられないことである。二郎ははるばる大阪の岡田の家を訪れた。岡田とちょっと散歩に出て、帰ったあとにお兼さんに向かっての物言いである。下宿屋のおかみじゃあるまいし、だから金ちゃんは変り者だと言われるんだよという、夏目の家族の声が聞えてきそうなセリフである。
 ②もあり得ない。お兼さんと差し向かいのときの、本人に向かっての発言である。このときの二郎の身分は明らかではないが、(三沢と共に)何週間も平気で家を空けているからには、有楽町の設計事務所に勤め始める前後の、卒業旅行といったところであろうか。(高等遊民の可能性もある。)いずれにせよ子供ではない。
 ③もひどい。これも当人を目の前にしての、佐野の見合い写真についての言及であるが、これを女性側の写真と置き換えて考えれば、どれだけ礼を失した言い方かがよく分かる。
 ①も③も、岡田によって即座に交ぜっ返されている。①は、「好いじゃありませんか、三沢の一人や二人」、③は、「浄瑠璃じゃあるまいし」。①ではさらに、「二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか」とまで岡田に言わせている。漱石も分かって書いているのである。
 ②は当然お兼さんを赤面させたのであるが、それに続く二郎の不思議な応対については後述したい。

 二郎はまだ世間知のない書生である、と漱石は言いたかったのか。
 そうでもないようである。二郎が三四郎や敬太郎のような、どちらかと言えば粗野なところもある造形であることは疑いないが、『行人』の出だしで漱石の書きたかったのは、二郎という主人公の人物像ではあるまい。漱石の主眼は(『三四郎』の冒頭で行なったように)、二郎を舞台に解き放つことである。
 するとこれらの失言は、『行人』を書き始めた漱石本人の心の裡から、自然に湧き出て来た言葉、あるいは『行人』の導入部における、漱石本来の手法、ということになる。
 それについて次回もう少し敷衍したい。