155.『須永の話』(11)――小間使い作
第5章 恋愛遊戯(全7回)
25回 須永の小説
須永は東京へ帰る汽車の中で小説の続きを想像する。(小説の前半はこの2日間の須永の煩悶。)
其所には海があり、月があり、磯があった。若い男の影と若い女の影があった。始めは男が激して女が泣いた。後では女が激して男が宥めた。終(つい)には二人手を引き合って音のしない砂の上を歩いた。或は額があり、畳があり、涼しい風が吹いた。二人の若い男が其所で意味のない口論をした。それが段々熱い血を頬に呼び寄せて、終には二人共自分の人格に拘わる様な言葉使いをしなければ済まなくなった。果は立ち上って拳を揮い合った。或は・・・。(『須永の話』25回)
むかし漱石は『猫』で『一夜』を持ち出したが、須永の頭にあった小説は『一夜』の過激バージョンと言えよう。
これは「幻の最終作品」に繋がるものであろうが、その話もまた本ブログで既出であるから(『明暗』に向かって/はじめに)、ここではこれ以上触れないが、男2人の争いに「暴力」が加わるという設定は、ここでの須永の頭の中だけに留まった(はずである)。
26回 作という小間使い
市蔵の懊悩は鎌倉を離れることにより(市蔵の予期に反して)収まった。眼前に高木と千代子を見なければ、市蔵の悩みもまた無い。市蔵のような男は、いきなり千代子の結婚報告を受けた方が、本人の幸せであろう。
市蔵自身も、鎌倉で見た人間たちよりも作の方が、心が平和になると感じる。中流家庭の子女よりも小間使いの身分の方に、よりシンパシィを感じると言っているのである。
これを見え透いた伏線あるいは非科学的と信ずるならば、漱石の小説を通俗であるとする説にもまた一分の理があると言えよう。しかし漱石は嘘は吐けないのであるから、このときの市蔵の感慨は、やはり市蔵の内部から真底湧いて来たものであろう。
27回 ゲダンケ(1)~狂気の行方
銀杏返しに結った作。アンドレイエフの小説。狂気とは何か。この市蔵の命題は次作『行人』の一郎に引き継がれる。
28回 ゲダンケ(2)~白日夢
しかし長野一郎に騙されてはいけない。
「僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑える為に出来ていた」(同28回)という市蔵の呟きは、一郎によって、「僕の胸(ハート)は僕の頭(ヘッド)を抑える為に出来ていた」と言い換えられることも可能である。要するに同じことなのである。
29回 お作~一筆書きの朝貌
ところで恋愛遊戯ともいうべき市蔵と作の対話もまた、小説の中で3回繰り返される。
①「嫁に行きたくはないか」(26回)
②「御隠居さまはまだ当分彼地に御出で御座いますか」(28回)
③「御前でも色々物を考える事があるかね」(29回)
その②、2回目の会話の前に、ちょっとした問答がある。
・・・僕は此変な心持と共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮を骨の底迄打ち込んだ夢を、大きな眼を開きながら見て、驚いて立ち上った。
下へ降りるや否や、いきなり風呂場へ行って、水をざあざあ頭へ掛けた。茶の間の時計を見ると、もう午過なので、それを好い機会に、其所へ坐わって飯を片付ける事にした。給仕には例の通り作が出た。僕は二た口三口無言で飯の塊りを頬張ったが、突然彼女に、おい作僕の顔色は何うかあるかいと聞いた。作は吃驚した眼を大きくして、いいえと答えた。それで問答が切れると、今度は作の方が何うか遊ばしましたかと尋ねた。
「いいや、大して何うもしない」
「急に御暑う御座いますから」(同28回)
ある意味では作中随一のショッキングな(暴力的な)叙述の直後の、この何気ない風を装った小さん的ユーモア。このコントラスト。悲劇と喜劇の隣り合わせ。というより1枚の紙のように、悲劇の裏には喜劇と書いてある。漱石ならずともそれはどこまでも、いちまいの紙であって、(表と裏に)剝がすことはもとより出来ない相談なのである。