明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 18

140.『雨の降る日』漱石最大の誤植――鏡子『思い出』と雛子の死

 

 以前本ブログ(漱石「最後の挨拶」)の三四郎篇にも引用した、前著(『明暗』に向かって)の中の記事「漱石作品最大の誤植」を、ここで再び掲載することをお許し願いたい。

 

〈 『明暗』に向かって/Ⅲ.棗色の研究/37.漱石作品最大の誤植 〉より全文引用

 

 それは実は漱石の書いたものでない。漱石全集にあるものではない。それは鏡子の『漱石の思い出』という、改造から昭和になって出た回想録である。該当箇所は「雛子の死」の終わりの方。

 

 この雛子の急死の模様は「彼岸過迄」の中の一篇「雨の降る日」という中に詳しく書かれております。この小説は亡くなった子供の悲しみからようやく気をとりなおして、一月から四月迄「朝日新聞」に連載したものなのですが、亡くなった子供の追憶ともいうべき「雨の降る日」は、丁度雛子の二度目の誕生日の三月二日に書き出して、百ヶ日に当る七日に書きおわった、それも何かの因縁で、子供のためにいい供養をしてやったというようなことが、急死のあった時いあわされた中村古峡さんへ宛てた手紙に書いてあります。こんな因縁めいたことをいうなどということはなかったのですが、今度のことはよほど身にしみたのでしょう。……しかしずいぶん感じの強い人と申しますか気の弱い人と申しますか、理屈の上では迷信的なことを一切けなしつけている癖に、怪談じみた因縁ばなしなどいたしますと、怖がりまして、もうよしてくれ、ねられないからなどと、よく寝がけにこんな話になりますと降参したものでした。……(夏目鏡子漱石の思い出』48 雛子の死)

 

 この「七日」とあるべき部分が、なぜかすべての出版物で「七月」と誤植されたまま、今日に至っている。

 

 『彼岸過迄』は鏡子も書いているように、(明治45年の)1月から4月まで連載された。そのうち「雨の降る日」は、明治45年3月2日に起筆して、5日後の明治45年3月7日擱筆している。

 上記引用文は、たまたま「角川文庫」昭和41年版から採ったものであるが、改造のオリジナルも現在書店で買える他社の文庫本も、該当箇所は皆同じである。(改造の当該箇所は丁寧にも「ぐゎつ」というルビまで附されている。)

 つい最近せっかく(翻刻でなく)復刊されたものも、少なくともその部分は、直されないままでしまったようである。

 

「三月」「書き出して」「百ヶ日」「七月」――で、つい見過ごされるのだろうか。あるいは誰もが自動修正(翻訳)して読み進めているのだろうか。

 しかし他ならぬ漱石の事績の範疇でこんなことが起こりうるのだろうか。(製作者側の周囲で)何らかの理由で故意に見過ごす者があったとしても、それが百年近くも維持されるものであろうか。7月に書き終わるのなら「彼岸過ぎ」の出る幕はないではないか。

 

 漱石の五女雛子が夕食中に急死したのが明治44年11月29日。漱石はそのとき書斎で、元朝日にいたこともある中村古峡と面談中だった。

 漱石が雛子の骨を拾ったのが12月3日。『彼岸過迄』を書き始めたのは、長谷川如是閑宛書簡によると明治44年12月28日頃と思われる。

 それから明治45年4月29日までの約4ヶ月間、漱石は「1日1回」を自身に課した。

 修善寺の大患を経て『彼岸過迄』(全118回)から始まったこの執筆スタイルは、死ぬまで続けられたことになる。

 その中の「雨の降る日」(全8回)は、まさに連載中の明治45年3月21日に、奇しくも同じ中村古峡に出された下記の手紙によっても、書かれた日にちが確認される。(括弧内も漱石の文章のまま)

 

「雨の降る日」につき小生一人感慨深き事あり、あれは三月二日(ひな子の誕生日)に筆を起こし同七日(同女の百ヶ日)に脱稿、小生は亡女の為好い供養をしたと喜び居候

 

 8回分を6日間で書いたことになるが、小説の中で宵子が亡くなるのが第4回、通夜から骨上げまで第5回から第8回、ほとんど事実に即して書いているので、この後半の4回分を2日間で書いたのだろう。

 

 『彼岸過迄』の登場人物の骨子は、ある三姉弟である。

 軍人上りの実業家須永の細君(長姉)、その須永が目をかけていた後輩田口要作の細君(次姉)、この姉妹の弟たる高等遊民松本恒三の三人である。

 神田の須永は若死にして細君と市蔵を残す。

 田川敬太郎は市蔵の友人で小説の狂言廻し。

 内幸町の田口は実業家として成功して、千代子・百代子・吾一の三子あり。

 矢来の松本は漱石の分身で、眉間に痘痕ならぬ大きな黒子があるという異例の設定下、敬太郎に尾行されるというおかしな登場の仕方をしたが、「雨の降る日」という短い挿話の中で家族の名前が全員紹介された。細君の名は御仙、五子あり上から咲子13歳、名前不詳の長男11歳、重子9歳、嘉吉7歳、そして宵子享年2歳である。五子のうち最初の四人は、漱石の子たちと年齢だけ同じ。漱石のその下に出来た幼い二人の男の子は、小説では省略された。長男の名前がないのは縁起が悪いので夏目家の惣領に遠慮したのか。(次男の名には精一杯縁起の良い字を選んでいるが。)

 

 火葬場は2日間かかったようで、小説では(2日目の)骨上げに行くのは母親の御仙、宵子の子守をしていた清という下女、そして市蔵と千代子の四人である。

 出掛けに御仙が「(竈の)鍵を茶の間の用箪笥の上に置いたなり」忘れた(「雨の降る日」7回)というのは、雛子のとき実際にあった事を流用したもの。

 漱石は日記に「火葬場に着いて鍵はときくと妻は忘れましたという。愚な事だと思って腹が立つ」と書いている。ついでに漱石は「一等の竈に入れて鍵を持って帰る。十円だけれども子供だから六円くらい」とも書いていた。してみると上等の竈の鍵は漱石の責任のようにも思える。漱石が持って帰った鍵を鏡子が携行し忘れたと言って漱石は怒ったのだ。

 しかし小説では市蔵が気を利かして持って出ていた。それでも御仙が騒ぎ出したあとに、おもむろに鍵を取り出したというので、市蔵は千代子から冷血不人情と罵られる。

 

 この「鍵事件」は『明暗』でも少し形を変えて使われていて、入院の朝津田とお延がいったん出発したあと、お延の俥だけ引き返して、お延は用箪笥の抽斗に鍵をかけてその鍵の束を帯の中に格納し、津田に向かって安心せよとばかりにポンと叩く場面がある。

 津田の反応ははっきりとは書かれない。読者にとっても今一つ分かりにくいシーンだが、「しっかり者」「策略家」というお延のイメージのための数行とも取れるし、一週間家を空ける津田の心情をシンボライズしたものとも取れる。

 それとも津田とお延を、落合の焼場に行くときの市蔵と千代子に置き換えてみれば、このシーンはせっかちな千代子に責められた市蔵への贖いだろうか。漱石はあのときは千代子のヒステリイ、一人相撲だと市蔵(と津田)に言い訳したかったのか。

 

 しかし漱石がまったく責任を鏡子一人に押し付けて、鏡子に腹を立てたのは間違いないから、直後の『彼岸過迄』では、市蔵の機転で何となくやり過ごすことにしてしまったが、(その代償として叱責は千代子の口から発せられたが、)やはり癪に障るので、5年後に蒸し返したのではないか。とんだ「記念」というべきであった(とくに鏡子には)。

 ところでやはり5年後、漱石自身が焼かれたのは雛子のときと同じ竈であった。生きていれば怖がるところであったが、このときだけはさぞ喜んだことだろう。

 

 鍵の話はともかく、誤植や誤記がいくらあったからといって、研究に値するものはない。正せば済むからである。ビートルズのある楽曲のように、歌詞を間違えたテイクがそのままリリースされて、それをファンが歓ぶこともあるだろうし、ミストーンと思われる箇所でも、聴いているうちに肯定的に受容される場合もあるだろう。しかし文学は音楽でないのだから、うっかりミスは後から訂正するしかないし、訂正しなくてよいとすればそれは価値のない出版物ということになる。もちろん鏡子と松岡の『思い出』はそうではない。このままでは漱石も雛子も浮かばれない、と論者も昔(ただの読者として)思ったことがあるが、その漱石の子たちも皆とっくに鬼籍に入ってしまった。もう直さなくても困る人は誰もいないかも知れない。しかし繰り返し言うが、正月から書き始め、お彼岸過ぎには書き終えようとしてそういうタイトルにしたのだから、七月まで書いていたのでは『つゆのあとさき』になってしまうではないか。

 

(引用 畢)