138.『報告』一日一回(1)――1回~7回
今回から章立ても併せて「一日一回」に含めることにする。
『報告』(全14回)
第1章 敬太郎の口頭試問(全7回)
1回 非現実感に襲われる敬太郎
地位も定まらないのに、こんなことばかりしていては、敬太郎でなくても神経を病む。敬太郎は冬の雨の夜、男を見失った矢来から、本郷台町の下宿まで俥で帰った。「法外な車賃」を貪られたとも書かれる。作の改まった初回はその翌日。独立した短篇といい条、完全に同じ小説の続きが書かれていると、誰もが思う。
2回 最初の一撃
敬太郎は電話した上で内幸町へ出掛ける。書生はいきなり「例の書生」と書かれるから、『停留所』と『報告』には1ミリの隔絶もないことが分かる。田口は余裕をかますつもりか、なかなか本題に入らず無駄話ばかりしている。
・・・主人は又冒頭から左も忙がしそうに声も身体も取り扱かっている癖に、何処か腹の中に余裕の貯蔵庫でもあるように、決して周章て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極面白そうだけれども、其実詰らない事許話の種にした。(『報告』2回)
田口はまた別の作戦でも思いついたのか。敬太郎をはぐらかそうとしているのか。しかし「下宿にも電話があるのか」という質問はないだろう。田口は『停留所』19回~21回にあるように、自身で敬太郎の下宿に2回も電話を掛けているのである。つまらないことなので忘れてしまったとでもいうのだろうか。
まあこれは実際は電話で話したという事実譚を受けて、「いや最近の下宿には電話まであるのですね」という意味で言ったのかも知れない。田口が健忘症に罹ったとまでは言えないかも知れない。
前述のように敬太郎は、4時から5時の指示に対して6時近くまで待っていた。なぜ5時を回ったところでそのまま帰って、その通り報告しなかったか。田口の身勝手な指摘に探偵役の敬太郎は大いに驚く。健忘症どころでない。
3回 敬太郎驚愕の反撃
驚いた敬太郎は、今度は読者を驚かせる返答をする。自分の勝手一存でそこに残ったというのである。敬太郎は皮肉を利かせて答えたわけではあるまい。依頼主・顧客の都合を一切考えない、実に漱石らしい正直な答えである。これでは実業を嫌うわけだ。もともと人間の出来が実業に向かないのである。
その真の小説家漱石による文章。
田口は斯う云って、自分の前に引き付けた手提烟草盆の抽出を開けると、其中から角で出来た細長い耳掻を捜し出した。それを右の耳の中へ入れて、左(さ)も痒ゆそうに掻き廻した。敬太郎は見ない振をしてわざと自分を見ているような、又耳丈に気を取られているような、田口の蹙面を薄気味悪く感じた。(同3回)
本当によく観察している、というより観察以外の行為をあえて何もしない、という態度が漱石の文章から滲み出る。
ところで敬太郎の勝手とは若い女のことであった。田口は最初それが男の連れとは思わなかったが、じきに敬太郎が目指す男女を始めから注視していたことを知る。
4回 貧しい報告
女についての田口の問い「肉体上の関係」は、漱石は軽口のつもりだろうが、ちょっと異和感がある。このとき漱石の長女筆子は明けて14歳。まだ大人ではないものの、いくら自作を読む気遣いはないといっても、叔父姪の関係に夫婦だの肉体だの情婦だのは無いだろう。
もちろん肉を離れて男女を語ることは出来ないというのは真理であるが、それは小説の構造上の話であって、現実の倫理世界はまた別であろう。
敬太郎の報告が内容の薄っぺらなものになったがために、田口もつい女の話をせざるを得なくなった。『停留所』における敬太郎による3回に亘る描写もそうだが、この後の話の主役たる千代子こそいい迷惑であろう。
5回 まあ買えば其所を買うんですね
この田口のちょっと一般化したような物言いについては、前に述べたことがあるのでここでは繰り返さない。
「私はかく思う」でなく、「世間一般はかく思うであろう」と言っているわけだが、この一般化なるものは、ある種の押しつけがましさに繋がるもので、オリジナリティを尊重する漱石の嫌うところであろう。
6回 田口の敬太郎評価のポイント
敬太郎は半分苦し紛れに「小刀細工を弄して尾行なんかするより、直に会って聞きたいことだけ遠慮なく聞いた方が、手間も省けるし却って確実な所が判るのではないか」と(「停留所」で考え付いたことをそのまま)田口に言う。田口は感心して、一族のメンバーとしての松本恒三宛ての紹介状を書いてくれた。就職は田口が世話するのである。高等遊民の松本を紹介するのは、ファミリィの一員として法学士敬太郎を遇するためのものである。思うにこれがこの第3話のハイライトであろう。
7回 若い男はいつの時代も自由恋愛主義者
敬太郎は田口にはいつまで経っても窮屈な感じが抜けない。苦手である。松本はその正反対のタイプであろうか。すでに敬太郎は、『停留所』10回~13回で、須永の母から松本の話を聞いている(田口もその二人の娘の話も)。しかしここまでの敬太郎にその痕跡は見られないようだ。敬太郎はもちろん須永の叔父田口要作を、現実に知った。須永から紹介を受け、自身も親しく話をしたからである。芳しくない依頼も受けた。その前に須永の母の口から、とんでもない剽軽者としての田口の噂も聞いている。その対極者としての須永のもう一人の叔父松本についても、敬太郎は須永の母からその概略を聞いている。それらが小川町停留所尾行の話以降、物語からスッポリ抜けているのはどうした訳であろう。
田口の「贋ラヴレター事件」(『停留所』13回)は、早く須永の母の口から語られている。敬太郎は(『停留所』21回で)田口の奇妙な依頼を受けたとき、その事件を思い出した形跡がない。敬太郎はその時そこまで気が回らなかったとしても、篇が改まって『報告』で田口のイタズラが明白になったときに、敬太郎が須永の母の話を参照しないのは、やはりフェアではなかろう。いくら独立した短篇といっても、一度聞いた話を聞かなかったことには出来まい。