明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 31

117.『門』一日一回(9)――『門』目次第18章~第21章(ドラフト版)


第18章 山門(1)――出立
明治43年1月15日(土)~1月16日(日)
(宗助・御米・役所の同僚・釈宜道・老師・居士)
1回 『菜根譚』~宗助は禅の知識はないが、心の安寧を求めて禅寺を目指す
2回 友人の紹介状を携えて鎌倉一窓庵に釈宜道を訪ねる
3回 釈宜道に通ず~相客の話~始めて室に入る
4回 早くも老師に会う~公案「父母未生以前本来の面目とは」
5回 座禅~独り公案の答えを考える~新たな不安と焦燥
6回 2日目の朝~『碧巌録』~読書は修業の妨げ
7回 御米への手紙~夜具のこと食事のこと

1回
 鎌倉への小旅行。御米は羨ましがって冗談を言うが、宗助が真に受けるので気の毒がる。『門』では御米も(小六も)主格として、漱石はその内面も踏み込んで描くので、どのような感情も自在に書けるのであるが、「(ある登場人物が主人公を)気の毒に思う」という特定の情動については、例えば『三四郎』の広田先生や与次郎のような、その内面が分からないことになっている人物たちに対しても、直接に描写される。「気の毒がる」というのは、漱石にとっては外側から見て分かる感情なのだろうか。人が自分を気の毒がっているのか、憐れんでいるのか、蔑んでいるのか、笑っているのか、ふつうは客観的には分からないはずである。「お気の毒ね」と(真顔で)言われて始めて分かる話ではないか。

2回
坊っちゃん」は源氏の末裔というが、徳川もその源氏としての先代たる足利も、明朝の子会社みたいなものであろうから、所詮時代の子漱石王陽明菜根譚を好むのも分かる。しかしいくら役に立つとはいえ、禅味を帯びた処世訓の類いは実用に過ぎよう。交際嫌い・実業嫌い・浮世の垢と無縁の漱石にとって、菜根譚は先刻ご承知であり、参禅は不必要な「自己研鑽」ではなかったか。では宗助には有用なのか、と言われるとそれは今の段階では何とも言えない。

3回
 筆墨を背負って行商する男の話が紹介される。とかく浮世離れしがちな参禅譚を、現実に引き戻すための道具としての逸話であろうと思われるが、その効果は疑問である。その布石たる織屋の滑稽譚からして、十分浮世離れしている。

4回
 漱石読者にはお馴染みの「父母未生以前」であるが、漱石の解答はともかく、この公案の導こうとするものは結局、「死とは何か」「自分自身にとって死とは何か」ということであろう。どのような案を出そうが、それは所詮検証しようもないのであるが、論者はあえて

「この世で一番不可思議なこと、ーーそれは自分がなぜ自分なのか(なぜ自分として生まれ、かつ消滅するのか)」

 という問いかけを以って、その公案の解答としたい。宇宙(現行ユニバース)がなぜ出来たのかは確かに不思議だが、それと同じくらい不思議なのが、自分がなぜ(ライオンやイワシやゴキブリでなく)人間に生まれているのか、なぜ(1万年前でも1万年後でもなく)今現在のこの宇宙に生まれているのか、ということである。この問いは無量の生命の数から見れば殆ど意味をなさないが、それでも(各人一人ひとりにとって)このことに勝る疑問はないと思われる。そして生命の数が無量であることから同じく、これは疑問でも何でもないように見えることも、また確かであろう。そもそもその宇宙の数が他にも数千億個あるとか、我々の宇宙が誕生して「たった」138億年とかという話も、疑問を拡散するだけである。我々は1千兆とか京・垓という単位さえ知っている。あるいは勘定出来る。たった138億年。5兆日。そしてその中に1個の生命が(細菌は別として)今の自分自身に宿っている。そしてこの宇宙もあと同じくらいで消滅するというが、また同じことが限りなく繰り返される。ーーこれは1つの生命にとって偶然で済まされる話であろうか。それとも我々は何か悪い夢でも見ているのだろうか。

5回
 座禅の目的が考える事であれば、格好は関係ないだろうと、宗助は寝ころんで考えたが、すぐに眠ってしまった。釈迦もキリストも時として寝転がってしゃべったと言う人もいるようだが、だからといって宗助が真似していいわけでもない。この参禅の章は喜劇なのだろうか。

6回
 読書の成果は所詮その時の自分のレベルを超えることはない、というのはいかにも漱石の承認を受けそうな主張である。18歳(または23歳)で読んだカラマゾフの大審問官伝説の理解・感動と、25歳(または30歳)で再読したときの理解・感動。慥かにどちらもその時の本人の文学的哲学的レベルの範囲内ではあるだろう。しかしだからといってカラマゾフを読む意義が無いとはいえまい。漱石ほどの人であればともかく、ふつうは読書によって、とくに若い人は向上するはずである。『門』についても、鎌倉参禅の章が大審問官伝説の東洋版のような趣を持っていたなら、とつい余計な夢を見てしまう。

7回
 鎌倉くんだりまでやって来て公案に苦しむ宗助の姿は、湯河原で清子のことばかり考えている『明暗』の津田と瓜二つである。津田を去った清子は、宗助が手も足も出ない公案である。とすると『明暗』の結末、とくに清子はどうなるか。『門』の顰に倣えば、清子は放置されると推測される。津田の手に負えないまま、清子は(いくつかの小さな役割は果たすかも知れないが)津田の前から消え去るだろう。清子は禅の公案と異なり手と足があるから、つまりは清子は帰京するのだろう。

第19章 山門(2)――公案
明治43年1月16日(日)
(宗助・釈宜道・僧たち・老師)
1回 2日目の夜~公案~六七人の男たち~老師の鈴の音
2回 見よう見まねの仕草~宗助の短い解答~一刀両断

1回
 本章はひとつの掌篇のようである。公案自体は宗助に何物ももたらさなかったが、考え悩んだ宗助は老師に一蹴されて喪家の狗のように室を出る。コントのタイトルは、平凡だが「公案」であろう。

2回
「危のうございます」で始まり「もっとぎろりとした所を持って来い」で終わる宗助の口頭試問。本当に参禅体験が漱石にとって、何の役にも立たなかったことが伺われる。思うに漱石のような世間の塵芥に染まらない人間にとって、座禅はさほどの効用を持たないということだろう。
 ところで議論するつもりはないが、順番を待つ宗助のふたり前の男のときに、奥からわっという大きな声が聞えたとあるが、この声を発したのは老師ではないか。大きな声くらいで崩れるようなチャチな組み立ての解答を持って行ったので、苦言を呈す代わりに一喝されたのであろう。

第20章 山門(3)――提唱
明治43年1月17日(月)
(宗助・釈宜道・老師・僧たち)
1回 3日目~釈宜道の話~坐るための理屈
2回 「野中さん提唱です」~夢想国師と大燈国師~参禅の結論

1回
「10分坐れば10分の功があり、20分坐れば20分の徳がある」
 時は金なりとも言うが、とても漱石の首肯えない話であろう。
「その上最初を一つ奇麗に打ち抜いておけば、あとはこういう風に始終ここへ御出にならないでも済みますから」
 というのも限りなく胡散臭い言い方ではある。漱石は生前の交際ぶりから、禅家には概して好意的であると思われがちだが、両親・兄弟・妻子・友人、みな小説に書かれるときには、どちらかと言えば辛辣である。その中で僧侶の書かれ方はまあ同情がある方だろう。しかし後世の目で見て、鎌倉参禅の章は、禅僧が善男善女を救うという気配は、微塵も感じられない。

2回
「我に三等の弟子あり。所謂猛烈にして諸縁を放下し、専一に己事を究明する之を上等と名づく。修業純ならず雑駁学を好む、之を中等と云う」

 漱石はここまでしか引用していないので、何も知らない読者は、上等が漱石で中等が自分たちあるいは宗助かと思う。あるいは漱石ですら中等かと思う。しかし夢想国師の言には続きがあり、岩波版全集の注解をそのまま引用すると、

「自ら己霊の光輝を昧(くら)まして只仏祖の涎唾を嗜む、此を下等と名づく。如(も)し其れ心を下書に酔わしめ、業を文筆に立つる者、此は是れ剃頭の俗人なり。以って下等と作(な)すに足らず、況や飽食・安眠・放逸にして時を過ごす者、之を緇流(しりゅう=僧侶)と謂わんや。古人喚んで衣架飯嚢と作す、既に是れ僧に非ず……」

 これによると漱石級でも、下等ですらないことになる。漱石は自分が僧侶の範疇にないと言われても何も感じないだろうが、俗人呼ばわりされてはいくら相手が夢想国師とはいえ、苦笑するしかなかったであろう。

第21章 山門(4)――後悔
明治43年1月18日(火)~1月25日(火)
(宗助・釈宜道・老師)
1回 安井の圧迫を座禅で回避できるか~世俗の苦痛を宗教が救えるか
2回 「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」

1回
 所詮末っ子で尻の軽い漱石は、同じところに長く座り続けることなど、始めから出来ない相談であった。おまけに頭だけは人一倍重い。漱石は催眠術にはかからないタチなのである。最初の3日間でそれは分かってしまった。1週間で見切りを付けて、最後の3日間は意地だけで後悔の念を押さえ込んだ。

2回
 結局漱石は、例えば失恋の苦しみを座禅で解消できるかと問いかけたに過ぎまい。漱石はとっくに知っている。理詰めに考えても何の役にも立たない。門に入るべきでない人間が門に入った。これを悲劇と言わずに何を悲劇と言おうか。であれば安井の幻影に怯えた第17章全体が喜劇であると言えよう。参禅自体にも笑える要素はある。それがゆえに暗いテーマにもかかわらず、『門』が平安な印象を与えるのであろうが。