明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 7

93.『門』もうひとつの年表――明治34年スタート説の難点


 小六の学年はいいとして、漱石の月日の書き方を少しゆっくり目に解釈すると、宗助(と安井)の京大入学年度を、(明治35年でなく)明治34年であるとする年表も可能になる。それを試してみよう。傍線部分が先の年表と異なる箇所である。

『門』年表(明治34年スタート版)

明治34年(京都1)宗助23歳 小六13歳
9月 京大入学

明治35年(京都2)宗助24歳 小六14歳
8月 宗助、最初(で最後)の暑中休暇帰省
9月 京大2年 安井、御米と家を持つ
秋 宗助、安井・御米と親しく交際
冬 安井、インフルエンザ

明治36年(広島1)宗助25歳 小六15歳
1月 安井・御米、須磨明石で保養(宗助も最後に合流)
2月~4月 宗助と御米のインシデント
5月 ①宗助・安井のスピンアウト
6月 ①広島行
12月 ①父死亡

明治37年(広島2)宗助26歳 小六16歳
6月 ①東京の父の家売却
11月 ②宗助、風邪から腸チフス
冬 小六名義の神田の新築家屋焼失

明治38年(福岡1)宗助27歳 小六17歳
3月 ②宗助の体調本復
4月 ②福岡行

明治39年(福岡2)宗助28歳 小六18歳
(福岡 苦闘の2年間)

明治40年(東京1)宗助29歳 小六19歳
5月 ③旧友杉原の世話で東京へ転勤
7月 小六、中学を出て高等学校(寄宿舎生活)へ

明治41年(東京2)宗助30歳 小六20歳
夏 佐伯の叔父急死
9月 小六、高等学校2年生

明治42年(東京3)宗助31歳 小六21歳
7月 佐伯の息子安之助、大学卒業
8月 小六、房州旅行
   小六、佐伯より学資の提供困難を宣告される
9月 小六、高等学校3年生(しかし休学を考えざるを得ない)
10月26日(火) 伊藤博文暗殺
10月31日(日) 物語の始まり

明治43年(東京4)宗助32歳 小六22歳
1月 宗助の参禅
2月 小六の坂井行き
3月 ハッピィエンド

 上記①の変更は、宗助と御米の事件のあと、「京都からすぐ広島へ行って」(4ノ3回)という記述の「すぐ」を、少し余裕を持たせた解釈にしている。転地にはそれなりの期間が必要であろうし、京都から「まっすぐに」広島落ちした、と言いたかったのかも知れない。
 6月広島行き、半年後12月父急死とすれば、「あとには16歳になる小六が残った」(4ノ3回)という記述も、明けて16歳になる、と自然に読める。

 さらに半年後6月に家が売れたあと、その経緯を問い質そうとして手紙のやり取りを4回5回繰り返しても埒が明かず、「三ヶ月ばかりして、漸く都合が付いたので」(4ノ4回)上京しようかという記述の「三ヶ月ばかりして」も、家が売れた後トータルとしての3ヶ月でなく、手紙のやり取りのあとの期間と解釈することが可能である。このむなしい手紙の往復期間を2ヶ月くらいと見れば、2ヶ月+3ヶ月=5ヶ月で、家の売れた6月に5ヶ月を加えて、②の11月に風邪を引いたという記述も妥当であろう。
 風邪からチブスになって2ヶ月寝込んだ、後半の1ヶ月はとくにひどかったと書かれるのも、床上げしたあとの本復までの期間は1ヶ月では収まらなかったという暗示であろうから、その後の福岡行きは春になっていたと思われる。福岡での2年間(この場合は2年間強)以降はとくに暦の上での問題はない。③の福岡から出京(上京)した季節も、小六が高等学校へ入る直前の春~初夏であることは動かないので、福岡に移った季節もまあ春であろう。年表としての辻褄は合うのである。

 気になる宗助と「年は十許り違っている」小六の年齢であるが、宗助が京都に行った時を「朝夕一所に生活していたのは、小六の十二三の時迄である」(ともに4ノ3回)とはっきり書いてあるから、このとき小六が13歳(くらい)であったことは疑いないが、少なくとも14歳ではあるまい。そして宗助は23歳であろう。9歳違い・11歳違いを10ばかり違うと書くことはあるが、この場合は10歳違いと(小説本文を読むと)そう読んだ方が自然である。
 小六の房州旅行が上記では21歳、明治35年スタート説では20歳になるが、これを漱石の実体験23歳と比べても意味はないだろう。
 物語の始まりで野々宮宗八と長井代助が30歳であったのに、上記宗助だけ31歳であるのも、小六の大学入学が(23歳でなく)22歳になってしまうのも、そのことだけを採り上げて、それが不都合な事情であると言うことは出来ない。

 この明治34年大学入学説(宗助安井の明治34年邂逅説)の最大の難点は、やはり宗助御米夫婦の「6年」という期間であろう。

 宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日迄六年程の長い月日をまだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試は猶なかった。……彼等は六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。(14ノ1回)

 上記版年表では宗助御米の合体は明治36年5月として、彼ら夫婦のキャリアは物語の開始時においてさえ6年6ヶ月。引用の14章では『門』の物語はすでに年末を迎えようとしているから、6年8ヶ月と言ってよい。1ヶ月程度の誤差はあるにしても、これを「六年程」と言うのは無理があるのではないか。
 帯に短し襷に長しといった両説であるが、「冬の下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易える頃に終った」(14ノ10回)事件を夫婦の出発点(広島行)と見れば、5月(か4月)に始まって物語の今現在12月までは、6年8ヶ月か5年8ヶ月のどちらかである。「6年」に近いのは誰が見ても5年8ヶ月の方であるから、宗助の京大入学はやはり明治35年とすべきであろう。

 もう一つ、物語冒頭で散歩中の宗助がショウウィンドゥの半襟を見て、御米に買ってやりたいが「そりゃ5、6年前のことだ」と思い直すシーンが描かれる。明治42年の5、6年前は、明治36年・37年である。これも上記年表よりは、明治35年スタート版年表の方がぴったり来る。