明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 6

92.『門』小六の学年詳細報告――さらなる正誤表


 先に『それから』の論考の中で、『門』の年表も試みに作成した。
・第75項 なぜ年次を間違えるのか(1)――『門』小六の学年
漱石「最後の挨拶」それから篇 12 - 明石吟平の漱石ブログ

・第76項 なぜ年次を間違えるのか(2)――『門』の年表
漱石「最後の挨拶」それから篇 13 - 明石吟平の漱石ブログ

・第77項 なぜ年次を間違えるのか(3)――『門』の年表(つづき)
漱石「最後の挨拶」それから篇 14 - 明石吟平の漱石ブログ

 どうしても気になるのが小六の学年であるが、くどいようだがもう一度該当箇所を引いてみる。

 宗助御米の夫婦は何年ぶりかで東京へ帰って来た。新橋駅では叔父夫婦と小六も迎えに来ている。

 小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼其姿を見たとき、何時の間にか自分を凌ぐ様に大きくなった弟の発育に驚ろかされた。小六は其時中学を出て、是から高等学校へ這入ろうという間際であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。・・・
 小六は何不足なく叔父の家に寝起きしていた。試験を受けて高等学校へ這入れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、其相談迄既に叔父と打合せがしてある様であった。(4ノ6回)

 東京へ戻った宗助は、父の家屋敷を処分した結果や、預けてあった小六の学資について、叔父に確認をしなければならないと思いつつも、つい億劫がってずるずる月日ばかり消費してしまう。

 両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。・・・
 夫から又一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助と一所に中六番町に引き移った。

  四の八

 三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田から向こうへ突切って、上総の海岸を九十九里伝いに、銚子迄来たが、そこから思い出した様に東京へ帰った。(4ノ7回末尾~4ノ8回冒頭)

 1+1は2である。だから2年生になったとでもいうのだろうか。宗助の出京時1年生になろうという小六が、1年経って更に1年経てば、2年生でなく3年生になるのである。

 小六が高等学校の二年生になった。(『門』4ノ7回末尾)

 小六が高等学校の三年生になった。(『門』4ノ7回末尾改)

 先に論者はこのような正誤表を示したが、前後の文章からすると、ここは「二年生」という語を活かす方がいいような気もする。(というより、この改訂はあまりにも稚拙で漱石にふさわしくない。)

 小六が高等学校の二年生になった。(『門』4ノ7回末尾)

 小六が高等学校の二年生を了えた。(『門』4ノ7回末尾改)

 明治の人のひらがなの書き方は、変体仮名というのか、「に」「を」「な」「つ」「え」、カナ(漢字)では「ニ(爾・仁)」「ヲ(遠・乎)」「ナ(那・奈)」「ツ(津・川)」「エ(衣・江)」、まあ現代の(一般の)人間には判読不能と言っていい。このような問題は校正者に頼るしかないのである。

 それはともかく、この案で前後を読み直してみると、調子はかえってこちらの方がいいようである。

 夫から又一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生を了えた。叔母は安之助と一所に中六番町に引き移った。

  四の八

 三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。(4ノ7回末尾改~4ノ8回冒頭)

 7月、安之助の卒業、小六の2学年終業、叔母と安之助麴町へ転居。
 8月、小六房州旅行。
 9月、学資打切り問題~小六の訪問。

 そして10月31日、『門』第1回の物語が始まる。佐伯(の新しい住所に始めて)手紙を書く宗助が、「おい、佐伯のうちは中六番町何番地だったかね」(1ノ2回)と御米に聞くのは、3ヶ月前の叔母の転居をちゃんと受けているのである。それで御米が「二十五番地じゃなくって」と即答するのは(おそらく転居通知を見て覚えていたのであろうが)、出かけるつもりもない御米にしては、その記憶力に感心させられる。ここでもまた土地や屋敷にこだわっているのは宗助でも御米でもなく、漱石その人ではなかったかと思わせられる。