明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 2

88.『門』平和な小説(2)――小六の学資


 前項で挙げた『門』の(一読して分かる)特徴のうち、②の独身女性が登場しないことと関連するが、『門』の主人公は宗助と御米の夫婦者である。この夫婦は漱石の作品にあって例外的に仲が良い。
 主役が夫婦である漱石の作品は、『猫』は別物として、『行人』の長野一郎・直、『心』の先生・静、『道草』の健三・御住、『明暗』の津田・お延の夫婦たちは、それぞれ仲が良くない。という言い方が余計なお世話だとすれば、全員ヘンな夫婦である。
 この中では健三・御住の一組が、まだまともな方であろう。実物の漱石夫妻は、夫婦関係だけ見れば世間一般の夫婦と大して変わるまいから、健三・御住が漱石夫妻を模しているとすれば、『道草』もまた『猫』同様、別格とすべきかも知れない。(つまり文学上の観点からとやかく言うべきでないかも知れない。)
 いずれにせよ『行人』『心』『明暗』等に比して、『門』の宗助・御米は仲の良い夫婦である。これが『門』を穏やかな印象にしている最大の理由にして、『門』の最大の特徴であろうか。
 そしてさらに付け加えると、漱石作品の夫婦仲(の悪さ)というのは、ほぼすべて男の側に問題があると言っていいだろう。(こちらの方の例外は『明暗』のお延か。お延と津田は同じことをする夫婦として描かれている、と前著でも述べた。俗物の津田は長野一郎や『心』の先生と比べて、そんなにヘンな男ではない。むしろお延の方がちょっと変わっている。)
 したがって『門』の夫婦が喧嘩をしないのは、御米の性格というより、宗助の癇癪が抑制されているからであると言えよう。それは半分小六が引き継いだとも言えるし、宗助が「下りている」ためかも知れない。

 ①の宗助を離れる叙述について、これは同じく小六を登場させたせいであろうか。
 漱石作品に現われる兄弟(兄弟愛・兄弟の確執)に対する漱石の評価は、表面的にはそっけないものが多いが、その点では『門』も同じである。(漱石や)代助と同じ四男坊の小六にとって、兄は身近な人生の先輩でもなければ趣味と環境を同じくするライヴァルでもない。では何のために小六は産まれたのか。

 唐突だが、漱石は自己の学資について徹底的に嘘を吐いている。
 漱石は嘘の吐けない人間であるから、表現を変えると、徹底的に隠蔽していると言い直すべきか。しかし嘘も隠蔽も同じことである。
 漱石の作品に、学資がなくて進学を断念した(しよう)という人物が(『門』の宗助の弟以外に)現われたためしがない。もちろん漱石の描く人物は、まず学問を志すところから人生をスタートするのが常であるからには、学校へ行くのは自然の成り行きに近いのであるが、それでもほとんどの人物が中流家庭の子弟の如く、世襲財産や戸主の生死に関係なく、皆帝大に進んでいる。帝大にあらざれば人に非ずと、漱石が思っていなかったことだけは確かである。むしろその反対であろう。大学が損にも得にもならないと信じていたからこそ、漱石は平気で登場人物を大学に行かせた、といえる。ただし大学に行くには金がかかる。

 例外的に学資に困る男には、なぜかパトロンが現われる。典型例は『虞美人草』の小野清三である。『心』のKもそれに近い。
『それから』の平岡は、学資の出所がはっきりしない、もうひとつの例外であるが、『坊っちゃん』の主人公と同じ境遇が想定されていたのであれば、辻褄は合う。係累のない(としか思われない)平岡と三千代のカップルを金銭的弱者にするためには、中流家庭菅沼家の子女三千代にも孤児同然になってもらわなければならないが、兄と母がチブスで死んだあと父親も投機に失敗して、気の毒にも外地(この場合は北海道)に放逐されてしまった。
『明暗』の小林を思い浮かべる人もいるかも知れない。小林は卒業を諦めた平岡であろうか。あるいは安井の「国内版」であろうか。しかし(『明暗』が最後まで)書かれていない以上どうしようもない。まさか津田(や関)の同窓生ではあるまい。(その可能性がなくはないが。)

 その中にあって小六だけが独り漱石の苦労を体現しているかのようである。小六はまだ高校生であるから、厳密には学資の真の問題には達していないかも知れない。しかし小説ではもう大学入学を目前に控えているのである。小六の学資は宗助と安之助の金で賄われよう。生活費と小遣いは坂井から出る。3年後、24歳になった小六が坂井の家を出て、専門学校や高校のアルバイト講師をしながら、奨学金を受けつつ下宿と宗助の家を出たり入ったりの大学院コースを歩むとすれば、それはまさに漱石の人生である。小六の年齢(学齢)が三四郎・代助・宗助のトリオと合わず、反対に漱石と合ってしまうのは少し変であるが、それは学制改革や個々の事情に責めを負わせれば済む。

 もうひとつ、『門』という作品が平和な印象を与えることについて、叔父に財産を横領されたという例の漱石らしい設定に対して、御米はともかく、小六がまったく関心を示していないことが、その理由に挙げられよう。というより小六はそもそもそんな話は知らないのである。小六は宗助から、お前の学資は叔父さんに預けてある、と聞かされただけであり、それが突然もうこれ以上出せないと佐伯の叔母から言われてびっくりしたのであるから、横領云々の話などは宗助が騒ぎ立てなければ小六の耳には届かないのである。宗助にしても実際には、それほど気になっているわけではない(『心』の先生が一生忘れないほどの怒りを抱いていたことに較べても)。御米の前では佐伯に聞いてみようと言いはするものの、実行に移すことはなかった。宗助に(漱石に)そんなことをする胆力があれば、始めからこんな問題は起こるべくもないのである。

 それはともかく、漱石が遂にはっきりさせなかった自身の学資の出所について、小六からその一端が伺えるとすれば、そこに『門』の救いがあるのではないか。退学した宗助は金のためにでなく女のために追放されたのであるから、この問題の先駆者ではない。真の先駆者は(まだなっていないが)小六であろうか。嘘の吐けない漱石にとって、小六はまさに救世主のようであると言っては言い過ぎか。