明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 14

77.『それから』なぜ年次を間違えるのか(3)――『門』の年表(つづき)


『門』年表(つづき)

明治42年(東京2)宗助30歳 小六20歳
10月31日(日)
物語の始まり
宗助御米の日曜日
小六の来訪
11月
回想/宗助のこれまで
安之助のカツオ船石油発動機
宗助歯医者へ
抱一屏風事件
泥棒事件
小六の寄宿舎引揚と休学届
坂井との交際始まる
12月
安之助のオフセット印刷
小六の飲酒癖
安之助の結婚話は春まで延期
御米の病気
甲府の織屋
回想/御米の流産
回想/御米の占い
回想/宗助と御米の大風吹倒事件
晦日の野中家

明治43年(東京3)宗助31歳 小六21歳
1月
坂井家の正月と冒険者
坂井から小六を書生にという提案
安井の影に怯える宗助10日間の参禅
坂井から安井たちの満洲へ帰ったことを聞く
2月
小六が坂井の書生へ出る
役人の淘汰月間
3月
宗助の増給決まる
お祝いのごちそう(書生に出ていた小六も呼んだ)
鶯の鳴き始め

『門』もまた『三四郎』『それから』と同じく約4ヶ月間もしくは4ヶ月間強の物語である。
 物語の始まる前の7年間のカレンダーについては、漱石の記述に従うと半年ばかりの狂いが生じているようであるが、本項(前項)ではとりあえず破綻のないよう強引に押し込んだ。漱石がこだわったのはどの部分か。また失念したのはどこか。うっかりミスか。故意に失念したのか・・・。それらは本ブログの門篇で改めて考察することにする。

 物語が始まってから以降は、とくに問題なく進行しているようであるが、この年表を見ただけでも気が付くことがひとつある。
 下線部の小六の書生に出た時期である。
 漱石はそれを書いていない。宗助が鎌倉から帰って来たとき小六はまだ家にいた。おそらく月が変わってすぐ出たのであろう。上記年表ではそのように想定している。
 もちろん書く必要がないと言えば言えるのであるが、漱石は意図的にはっきり書かなかったのではないか。常識的に考えると参禅の前に出て行かせるべきであろう。主のいない家で10日間も御米と小六(と清)だけで過ごすのは不自然である。不用心で恐ろしいからわざと宗助の帰宅を待ったのか。そうかも知れない。でも結局小六が宗助の家を引き払ったことを、漱石は一言も書かなかった。書いてから消すような漱石ではない。最初から書かない方がいいと、漱石は「知っていた」のである。
 それで最終章の小六の登場シーンも非常にフレッシュである。技巧的にわざとそうしたのなら、読者は脱帽するばかりであるが、漱石は何となく書きたくないから書かなかったと思われる。御米と小六の一対を、小説の最後でまた蒸し返したくなかったのであろう。

 もうひとつの『門』の謎は、これは前著でも余談ふうに述べたが、安井の影におびえる宗助御米夫婦が、従兄弟の佐伯安之助のことを平気で「安さん」「安さん」と呼んでいることである。満洲という言葉を聞いただけで思わず顔を見合わせる宗助御米である。
 これに関連して、坂井が小六の受け入れを提案したとき、宗助は即座に賛同したが、坂井の家に入った小六が宗助の京都大学にいたことを坂井にしゃべりはすまいかと、なぜ心配しなかったのだろう。小六は冒険者の一件を知らない。小六は宗助と御米について余計なことは口にしないだろうが、坂井が大学出である以上、そして自分も大学を目指している以上(もう半年ばかりで受験を控えているのである)、兄がかつて学んだ大学のことを隠す理由がない。宗助は小六に口止めしてから送り出したのであろうか。それには坂井(の弟)と安井の一件を小六に話さなければならない。御米にもよう言わなかった安井の出現を、小六に話せるだろうか。そもそも宗助は人に口止めをするような人間であろうか。宗助は誰にも言えないので引越まで考えたのである。(そして多くの読者が不満を感じたが)禅の門まで叩いたのである。
 漱石はそれで(書くといろいろめんどうなので)小六の移動日を書かなかったのだろうか。まあ実際に書くとなると、無限ループのような無粋な話にはなるだろう。

 しかし『門』の話はこれくらいにしておこう。