明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 13

76.『それから』なぜ年次を間違えるのか(2)――『門』の年表


 小六が高等学校の二年生になった(『門』4ノ7回末尾)

 小六が高等学校の三年生になった(『門』4ノ7回末尾改)

 これは漱石の単純な書き間違いであろうか。それとも(文選工なり植字工による)原稿の読み損ないであろうか。であればこれは誤植・校正ミスの範疇といえる。『門』の4章、全14回中の7回の末尾。連載回の区分けをしていない版では、4章のちょうど真ん中辺である。英訳本も his second year となっているから、日本人の漱石信奉者が聖典扱い(不磨の大典)したわけではなかろう。

 それはさておき、『門』の年表にはもっと大切な続きがある。それは14章(全10回)で集中的に語られる。
 宗助と安井は京都大学ですぐ親友となった。

 学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井は一先郷里の福井へ帰って、夫から横浜へ行く積だから、もし其時には手紙を出して通知をしよう、そうして成るべくなら一所の汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら、興津あたりで泊って、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうと云った。宗助は大いに可かろうと答えて、腹のなかでは既に安井の端書を手にする時の心持さえ予想した。
 宗助が東京へ帰ったときは、父は固よりまだ丈夫であった。小六は子供であった。彼は一年ぶりに殷んな都の炎熱と煤烟を呼吸するの却って嬉しく感じた。(『門』14ノ3回)

 立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣を渡して、
「成る丈節倹しなくちゃ不可ない」と諭した。
 宗助はそれを普通の子が普通の親の訓戒を聞く時の如くに聞いた。父は又、
「来年また帰って来る迄は会わないから、随分気を付けて」と云った。其帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至る迄其時の父の面影を思い浮べては済まない様な気がした。(14ノ4回末尾)

 愈立つと云う間際に、宗助は安井から一通の封書を受取った。開いて見ると、約束通り一所に帰る積でいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云う断を述べた末に、何れ京都で緩くり会おうと書いてあった。(14ノ5回冒頭)

 大学2年目の始まり。『行人』の二郎と三沢を彷彿させるいきさつのあと、ちょうど菅沼が三千代を呼び寄せたように、安井は御米と家を持つ。秋が深まるにつれて宗助と安井兄妹の間も親しみを増す。インフルエンザの冬。安井と御米は須磨明石で越年する。最後の3日間は宗助も愉しい合流を果たす。この頃にはもう安井は夫婦であることを隠していないだろう。

 ・・・三人は又行李と鞄を携えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにした斑な雪が次第に落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
 宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行が其所ではたりと留まって、自分も御米も忽ち化石して仕舞ったら、却って苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易える頃に終った。凡てが生死の戦であった。青竹を炙って油を絞る程の苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は何処も彼所も既に砂だらけであったのである。彼等は砂だらけになった自分達を認めた。けれども何時吹き倒されたかを知らなかった。(14ノ10回)

 宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日迄六年程の長い月日をまだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試は猶なかった。(14ノ1回冒頭)

 彼等は六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼等の命は、いつの間にか互の底に迄喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至る迄、互に抱き合って出来上っていた。(14ノ1回)

『門』年表 

明治35年(京都1)宗助23歳 小六13歳
9月 京大入学

明治36年(京都2)宗助24歳 小六14歳
8月 宗助、最初(で最後)の暑中休暇帰省
9月 京大2年 安井、御米と家を持つ
秋 宗助、安井・御米と親しく交際
冬 安井、インフルエンザ

明治37年(広島1)宗助25歳 小六15歳
1月 安井・御米、須磨明石で保養(宗助も最後に合流)
2月~4月 宗助と御米のインシデント
4月 宗助・安井のスピンアウト
4月 広島行
9月 父死亡

明治38年(広島2)宗助26歳 小六16歳
2月 東京の父の家売却
6月 宗助、風邪から腸チフス
9月 福岡行
冬 小六名義の神田の新築家屋焼失

明治39年(福岡1)宗助27歳 小六17歳
(福岡 苦闘の2年間)

明治40年(福岡2)宗助28歳 小六18歳
6月 旧友杉原の世話で東京へ転勤
7月 小六、中学を出て高等学校(寄宿舎生活)へ

明治41年(東京1)宗助29歳 小六19歳
夏 佐伯の叔父急死
9月 小六、高等学校2年生

明治42年(東京2)宗助30歳 小六20歳
7月 佐伯の息子安之助、大学卒業
8月 小六、房州旅行
   小六、佐伯より学資の提供困難を宣告される
9月 小六、高等学校3年生(しかし休学を考えざるを得ない)
10月26日(火) 伊藤博文暗殺
10月31日(日) 物語の始まり

 上記下線部分は、「あとには16歳になる小六が残った」という本文の、「16歳になる」を「(翌年)16歳になる」と(変則的に)解釈しているがための強調である。
 ふつうは父の死んだ年(明治37年)が16歳であろう。でもそうすると宗助が京都へ去った明治35年には、小六は14歳になっており、「小六の12、3歳のときまで」一緒に生活していたという記述と合わない。
 それに三四郎も代助も23歳で入学しているから、宗助だけ24歳というわけにもいくまい。結果として物語の始まりでは、野々宮宗八、長井代助、野中宗助の3人ともめでたく30歳の同い年になったわけである。イニシャルのNも共通している。

 ここまでの年表での確定事項は次の2つである。

①宗助(と安井)の京都における大学生活は、明治35年9月から明治37年4月までである。

②宗助と御米の夫婦生活のスタートは、明治37年4月(末)である。物語の開始日たる明治42年10月末までの期間は、「5年6ヶ月」である。漱石の書く「6年」で、まあ問題がない。