明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

『明暗』に向かって お延「女下駄」事件 2

59.『明暗』に向かって お延「女下駄」事件(2)――お延の勘違い(つづき)


漱石「最後の挨拶」番外篇]

16.お延「女下駄」事件(承前)―― お延の勘違い

 津田がお時を追い払ったあとも、津田とお秀のバトルは留まるところを知らない。
 そして「……彼は何んな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事の出来ない性質に父母から生み付けられていた。」(97回)とまで書かれていたにもかかわらず、津田は(小林の妹のお金さんと比べても)あまりにうるさいお秀につい我を忘れて「……馬鹿め」「黙れ」(102回)とまるで漱石になったかの如く激昂する。
 そしてそのアクシデントを断ち切るかのように、お延が入室する。しかしお延の入室は僅かに早過ぎたようである。あれほど知りたがっていた津田と「秘密の女性」についての具体的な情報をお延自ら断ち切ってしまったかのようである。読者は津田の「其話を実は己は聞きたくないのだ。然し又非常に聞きたいのだ」(13回)が俄かにお延に乗り移ったかのように感じてしまう。
 漱石はお延の「立聞き」が必ずしも津田兄妹の会話全体をクリアに捉えていないと言いたいようであるが、漱石の(推理小説的な)作為は明白である。読者はこれはお延が清子の存在を結局は完全には知り得ない伏線と思うであろうか。その反対に(知り過ぎて)最後に清子と対決までしてしまうその一ステップと見做すであろうか。
 おそらく漱石は悩んだはずである。悩み自体は午後の漢詩で消えたとしても、それが細部の見落としに影響したことは否定できない。

「それ丈なら可いんです。然し兄さんのはそれ丈じゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだ外にも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかも其怖がるのは――」
 お秀が斯う云いかけた時、病室の襖がすうと開いた。そうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。(『明暗』102回)

 そして問題の103回が「彼女が医者の玄関へ掛ったのはその三、四分前であった」という冒頭の異常に細かいタイムキーパーのような句から始まる。(時間にうるさい漱石はわりと平気でこういう書き方をする。)午後になって病院は中休みである。いつもは履物で乱雑になっている玄関もひっそりしている。

 彼女はその森とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。価段から云っても看護婦抔の穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄は正しく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸が一杯になっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事が出来なかった。彼女は猛烈にそれを見た。(『明暗』103回)

 ここでお延は明らかに(吉川夫人でなく)津田の(秘密の)女性の訪問を疑っている。お延はうわべは冷静に、津田へ若い女の来客のあることを受付の書生に確認してから、案内を断って階下まで進み病室から聞こえてくる声に耳を澄ます。

 ・・・他聞を憚かるとしか受取れない其談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見詰めた時より以上の猛烈さが其所に現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた
 ・・・すると忽ち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。見事に予期の外れた彼女は、又はっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。(『明暗』103回)

 お延の勘違い自体は異を唱えることでない。しかし90回で「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」というお時の報告、「お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞いに来ていた事を知った」という記述がある以上、作者にはお延がそれを失念していた、あるいは(こちらの方がありそうなことだが)お秀が午前中に来ていたことは承知していたものの、まさか二人の子供と姑を抱えた主婦が(91回)お午を過ぎてまでこんなところにうろうろしている筈はないというお延の予断を、一応は書いておく方がフェアだったのではないか。漱石は見落としていたのではないか。

 お秀が午飯の時間を過ぎるまで病室にいられたわけは、喧嘩するものの仲の好い(似た者同士の)兄妹(二郎とお重みたいに)であることに加えて、姑が朝から子供を連れて横浜の親類へ出かけたからだが(100回)、津田は聞いていたこの事実を、当然お延は知る由もない。右記103回の「見事に予期の外れた彼女は」の前に、作者はその外れた予期のエクスキューズを一言挿入すべきではないか。神をも畏れぬ仕業ではあるがそれを敢えて実行してみると、

 上り口の一方には、落ちない用心に、一間程の手欄が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。すると忽ち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。斯んな遅い時間迄お秀が我が宅を空けていようとは思いも寄らなかったお延の心に、まだ居たのかという驚きと同時に何故という疑念が襲い掛った。見事に予期の外れた彼女は、又はっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げ付けられる嫂さんという其言葉が、何んな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。(『明暗改』103回)

 あるいはお秀がいくら妹とはいえ(子供の世話の必要がなかったとはいえ)半日も兄の病室で過ごすことは、漱石は納得して書いているものの、お延がそれを改めて諒解するにはまた色々な問題が生じるのではなかろうか。その場合は亢奮状態にあるお延のど忘れのせいにしたほうが、小説としてはすっきりする。

 上り口の一方には、落ちない用心に、一間程の手欄が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。すると忽ち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。お延は出掛けにお時から聞かされていたお秀の事を、其時迄丸で忘れていた事に気が付いた。見事に予期の外れた彼女は、又はっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げつけられる嫂さんという其言葉が、何んな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。(『明暗改』103回)

 この40文字ばかり、あるいは60文字ばかりの追加を漱石はどうみるだろうか。「面倒な事を云ってくる人だ」(前掲大石泰蔵宛書簡)と思うであろうか。であるならここは、「見事に予期の外れた彼女は」の箇所を、「お秀の事を丸で忘れていた彼女は」に直すだけでいいのかも知れない。事実漱石は最初そのように書いて、それが説明臭くなるのを嫌って「予期が外れた」と書き直したのかも知れない。忘れていたか、あるいは他の理由もあって予期が外れた。言葉は足りなかったかも知れないが、くどいよりはましであろう。お延は忘れていたかも知れないが漱石は忘れていなかった、のだろうか(百年も)。

 (お延「女下駄」事件 畢)