明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

『明暗』に向かって お延「女下駄」事件 1

58.『明暗』に向かって お延「女下駄」事件(1)――お延の勘違い


漱石「最後の挨拶」番外篇]

 もう少しだけ前著(『明暗』に向かって)からの「引用」をお許しいただきたい。
 各種の全集本や文庫本の『明暗』のどれを見ても、この漱石の「錯誤」について指摘しているのを見たことがない。誰もが錯誤と認めて、それはもう皆が知っていることだから、あえて誰も触れないのか。そうかも知れない。気が付かないのは論者だけかも知れない。
 しかし、もしそうだとしても、論者の「『明暗』に向かって」は、ひとつにはこのために書いたようなところもあるので、どうしてもここで改めてアピールしておきたい。

 それは同書の「お延女下駄事件」という項である。前置きは抜きにして、早速「引用」させていただく。

Ⅱ 小石川の谷(と台地)
15.お延「女下駄」事件

 山田風太郎に「あげあしとり」という短文があって、全文引用したい誘惑にかられるが、要は吉川英治の『宮本武蔵』の中に、たった一行だが作者がうっかりして辻褄の合わない記述をしたのを、誰も直そうとしないまま今に至っているのは不思議だ、ということを述べたものである。
『明暗』においても(その他の作品でも)、前項までの話のいくつかは、せいぜい誤植の一種か、あるいはどうでもいいような類いの話として片付けられようが、103回で語られるお延の「勘違い」は、なかなかそれでは済まされない深刻な要件を含んでいるようである。
 入院の日から中一日置いた日の火曜日。その前の二日間に、夫の後援者たる吉川夫人と、少し前までは我が宅であったはずの岡本、ふたつの障壁に身を以ってぶつかってしまい、やっと夫の見舞いに行こうとした悩めるお延の前に、それまで見たことのないようなタイプの新しい敵が出現する。外套を貰いに来た小林である。小林はお延の頃日の悩みを見透かすかのように、津田の背信を仄めかすような口をきく。お延のプライドは小林のためにへし折られ、怒りと不安と嫉妬で心が張り裂けそうになる。折しも外套の件で確認の電話を命じられたお時は、お秀の前で横着を極め込んだ津田が電話に出ようとしなかったこともあって、直接病院へ駈け込む。長いこと待った挙句お時の返事を受け取ったお延は、そのとき病室にお秀が来ていたことも併せてお時から聞かされた。

①お時が戻って来て、お延が小林に外套を渡したのが87回。
②外套を手渡してからも小林とさらに一悶着あり、小林が帰ったあとくやしさに「津田の机の上に突っ伏してわっと泣き伏した」のが88回。
③猜疑心の塊まりとなったお延が、津田の書類函の手紙を点検したり、以前ある日曜日に突然庭で手紙の束を焼き始めた津田の姿を想い出したりしたのが89回。
④そして昼食の膳につきながら給仕するお時に、病院での津田とのやりとりを改めて確認する。「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」というお時の言葉に、「お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った」のが90回。

 そして91回は(物語の流れとして)お延の目を通してお秀のプロフィールが紹介される。お延の形容として「怜悧な」という語句が何回も使われるように、お秀には「器量望みで貰われた」という言葉が付いてまわる(『明暗』全体で5回も)。美人というだけで玉の輿に乗った、あるいは評判の美人であったため御指名で結婚の申込みが来たお秀の存在は、俗物としての津田のプライドを半分は満足させ、漱石としての津田にとって半分は唾棄すべき者となる。お延にとってはやっかみもある反面、真の愛を知らないという意味で憐れむべき女である。お秀は兄にたてつくという点では『行人』のお重に似ているが、女のくせに空理空論を言う、『明暗』の登場人物としては藤井、津田に次いで漱石の度合いの濃い(少なくともお延よりは)、珍しい造形である。おそらくは精神的なつながりの有無という観点からのみ描かれる津田とお延の関係を際立たせるため、わざとそれと対極的な若い夫婦の例として「器量望みで貰われた」ことが強調されるのであろう。同時に漱石は関と清子の夫婦関係にもまったく関心を払っていない。堀と関は小説の序盤で芳しからぬ登場(17回)をしただけである。芋はどこにも埋められていない。

 お秀が紹介されたあとは『明暗』は再びお延の眼を離れて、津田とお秀の場面に切り替わる。その切り替え部分の一文は、

 お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、其翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、丁度小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。(『明暗』91回末尾)

 という主人公を二人にしたがための説明的なものであったが、92回からは津田とお秀の言い争いが、間に昼食まで挟んで(102回まで)延々と続く。途中、97回の末尾では、

 二人はそれで何方(どっち)からも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。其煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵らえ掛けていた局面を、一度に崩してしまったのである。(『明暗』97回末尾)

 というこれまた極めて説明的な叙述になり、津田(とお秀)の物語の進行とお延(とお時)の物語の進行の時間的整合が図られる。苦し紛れの感は否めないが。