明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 26

28.『三四郎』のカレンダー(5)―― 破綻はあるか


 第6章の暦は以下の通り。

①「僕等が菊細工を見に行く時書いていたのは、是か」
「いや、ありや、たった二三日前じゃないか。そう早く活版になって堪るものか。・・・」(『三四郎』6ノ1回)

②「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へ這入る横町の角で立ち留った。今夜は同級生の懇親会がある三四郎は忘れていた。・・・(6ノ3回)

③ 下宿へ帰って、湯に入って、好い心持になって上がって見ると、机の上に絵端書がある。小川を描いて、草をもじゃもじゃ生やして、其縁に羊を二匹寝かして、其向こう側に大きな男が洋杖を持って立っている所を写したものである。・・・(6ノ3回)

④「明日も好い天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来る。是非見にくるがいい」(6ノ6回末尾)

⑤「ダーターファブラとは何の事だ」
「希臘語だ」
 与次郎はそれより外に答えなかった。三四郎も夫より外に聞かなかった。二人は美しい空を戴いて家に帰った。(6ノ8末尾)

⑥ あくる日は予想の如く好天気である。今年は例年より気候がずっと緩んでいる。殊更今日は暖かい三四郎は朝のうち湯に行った。閑人の少ない世の中だから、午前は頗る空いている。・・・(6ノ9回冒頭)

⑦ 午過になったから出掛けた。会場の入口は運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。・・・(6ノ9回)

⑧ ・・・不図、顔を上げると向こうから、与次郎と昨夕の会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振ったぎり黙っている。学生は帽子を脱って礼をしながら、

「昨夜は。何うですか。囚われちゃ不可ませんよ」と笑って行き過ぎた。(6ノ13回末尾)

 第5章、菊人形の日曜日。ストレイシープで亢奮した読者はつい見過ごしてしまうが、第6章の暦は少しヘンである。

 ①~⑤は同じ日である。「偉大なる暗闇」を与次郎から見せられた日の晩に、同級生懇親会があった。その翌日が運動会である。東大の運動会(陸上競技)は、諸々の資料によると11月の土曜日である。第2土曜に行なわれることが多かったともいう。ふつうに考えると懇親会が金曜日、運動会は土曜日であろう。
 しかるに与次郎の①の発言を信じると、懇親会の日は菊人形の日曜から2、3日の後のせいぜい水曜である。翌日の運動会は木曜になる。いくらずらしても土曜にはなりにくい。与次郎のせわしない性格を考慮しても、(菊人形の)日曜から(懇親会の)金曜までを「2、3日」とはさすがに言わないだろう。

 もちろん小説の中で懇親会や運動会を何曜日に行なおうが大きなお世話である、とは言える。しかし一般に土曜日だという東大の運動会を、他の曜日にする理由は、どんな人間にも(漱石にも)無い。皇太子も来ることがあったという行事である。⑦にあるように英国国旗まで飾っている。いくら英国嫌いの漱石でも、こんなところで仇をとる趣味はあるまい。
 どうしてこんなことになったのであろうか。

 思うに漱石天長節(日曜でない)と菊人形の日曜を取り違えたのではないだろうか。例えば明治41年11月3日は火曜である。その週の金曜に与次郎は「文芸時評」を三四郎に見せる。それで①の問答になるわけだが、11月3日に菊細工を見に行ったと勘違いしたとすると、11月6日(金)懇親会、11月7日(土)運動会で、辻褄は合う。
 あるいは11月3日が月曜と考えると、11月7日(金)懇親会、11月8日(土)運動会で、こちらは第2土曜が運動会となって大変都合がよい。このようなカレンダーになっているのが明治何年にあたるのか、それは漱石の知ったことでない。

 日付はともかく、曜日については漱石は生まれてから40年間、学生と教師の期間を通して「時間割表」と共に生きて来たといって過言でない。曜日に縛(ばく)されて生きて来たと言ってもいい。通常「時間割表」には日曜の文字はない。日曜日は漱石にとって(漱石だけではないだろうが、とくに漱石のようにこだわりの強い人間にとって)、特別の意味を持つ日である。
 この場で述べることではないかも知れないが、漱石の作品には必ず日曜という語が登場する。(日曜という語が使われない稀有の作品『草枕』は、作品自体が休暇中のような小説であるし、『坊っちゃん』は週間時間割に縛られた教師生活を送っている。)
 漱石は(『明暗』に至るまで)曜日の管理だけは怠らなかった。であるからには、漱石は本来こんなイージーミスをする筈はないのである。
 とすれば考えられる可能性はただ一つ、漱石の勘違いである。ストレイシープに深く感動したのは読者だけでなかった。犯人はここでもまた美禰子であった、のだろうか。

 話はそれるが、この運動会の章にはもう一つおかしなところがある。
 金曜日、学校から早めに帰った三四郎は、懇親会の前に湯に行く。そして翌土曜日、午から運動会へ出掛けたのであるが、その前の午前中に、やはり湯に行っている。
 三四郎九州男児だから毎日風呂に入って何の不思議もないが、漱石の日常を知る者にとっては、ありえない話と取るであろう。懇親会の空気がよほど悪かったとでもいうのだろうか(鷗外じゃあるまいし)。