明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 25

27.『三四郎』のカレンダー(4)―― 菊人形への道


 続く第4章の暦は一部先の天長節の項と重なるが、

① 三四郎の魂がふわつき出した。講義を聞いていると、遠方に聞える。わるくすると肝要な事を書き落とす。甚しい時は他人の耳を損料で借りている様な気がする。三四郎は馬鹿馬鹿しくって堪らない。仕方なしに、与次郎に向かって、どうも近頃は講義が面白くないと言い出した。与次郎の答はいつも同じ事であった。――(『三四郎』4ノ1回冒頭)

② こう云う問答を二三度繰り返しているうちに、いつの間にか半月許り経過(たっ)。(4ノ1回)

③ そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年が到底人生に疲れている事が出来ない時節が来た。(4ノ1回)

④ ある日の午後三四郎は例の如くぶら付いて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴と云って、此頃は東京の空も田舎の様に深く見える。(4ノ2回)

⑤ それから谷中へ出て、根津を廻って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮した様に感じた。(4ノ4回)

⑥ 翌日学校へ出て見ると与次郎が居ない。午から来るかと思ったが来ない。図書館へも這入ったが矢っ張り見当らなかった。五時から六時迄純文科共通の講義がある三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗過ぎる。電燈が点くには早過ぎる。(4ノ5回)

⑦ 翌日学校へ出ると講義は例によって詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時迄の間に、すっかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以って、追分の交番の前迄来ると、ぱったり与次郎に出逢った。(4ノ9回冒頭)

⑧ 翌日は約束だから、天長節にも拘わらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入って、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。(4ノ9回/再掲)

 引用の①は、いわゆる五月病であろう。三四郎の場合はそれに池の女が追い討ちをかける。大学病院で池の女に再会したのが前項で触れた10月15日頃。池の女との再会は三四郎の心境に深刻な変化をもたらしたようだ。悩んでいるうちに半月経った。そのあとは先に考察した天長節の項につながる。

明治39年10月14日(日) 野々宮宅。ひめいち。留守番。轢死事件。
明治39年10月15日(月) よし子の病院。池の女と再会。(以上第3章)

明治39年10月16日~10月30日 ①②③三四郎の鬱屈。
明治39年10月31日(水) ④⑤午後、与次郎に広田先生を紹介される。貸家探し兼散歩。
明治39年11月1日(木) ⑥午後6時まで講義。与次郎は学校を休んで貸家探し。
明治39年11月2日(金) ⑦午後3時まで講義。追分で与次郎と出くわす。貸家決まる。
明治39年11月3日(土) ⑧天長節。引越の日。美禰子との正式な邂逅。(以上第4章)

明治39年11月10日(土) よし子の画。美禰子の端書。
明治39年11月11日(日) 菊人形の日曜日。(以上第5章)

 漱石が広田先生の引越の日を天長節に設定したのには、ある必然がある。身の回りのことの出来ない広田先生が、自身の引越なのに何もしなくて済むためには、「学校」へ行く必要があるが、そのことと、引越に適した「休日」とは、本来両立しない。広田先生を「休日」に「学校」へ行かせるために、漱石天長節を利用することにした。正直な漱石はそのために11月3日までの暦を刻んだのである。

 とまれこの第4章で役者はすべて揃うことになる。そして次の週の日曜日、早くも前半のハイライト菊人形の日曜日がやってくる。第5章、名高いストレイシープの章である。

 美禰子との正式対面を果たした三四郎は、美禰子と野々宮の関係が気にかかるのか、引越の翌週の土曜日、野々宮のいないのを半ば承知で野々宮の家を訪ね、よし子に探りを入れる。まるで探偵のように。そして、

 三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰った。端書が来ている。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄入らっしゃい。美禰子」(『三四郎』5ノ3回)

 ⑩ 翌日は日曜である三四郎は午飯を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光った靴を穿いている。静かな横町を広田先生の前迄来ると、人声がする。(5ノ4回冒頭)

 探偵嫌いの漱石は、三四郎に探偵をさせておきながら、それに気が付かない(あるいはそのふりをしている)よし子を持ち上げ、(故意ではなかろうが)読者をはぐらかす。

 漱石は広田先生の引越日を11月3日と指定した。そして次の日曜を菊人形の日とした。漱石としては天長節の曜日に関心はなかったのであろうが、11月3日のあとの日曜日は、

明治39年11月11日(日)
明治40年11月10日(日)
明治41年11月8日(日)

 美禰子の端書を考慮に入れると、三四郎たちの行った菊人形の日は、この3通りだけである。