明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 19

21.『三四郎』汽車の女(7)―― 東海道線と髭の男


 桃を食べながら二人の会話、というより髭の男(広田先生)の講義は、だんだん哲学的になっていく。広田先生は桃の食べかすを新聞紙に包んで窓から放り出す。
 ここまでの記述で確かなことは次の三つである。

①名古屋から豊橋まで、三四郎と広田先生は向かい合った座席にはす向かいに座っている。
②広田先生の隣席は乗客がいる。三四郎の隣席は不明だがたぶん空いている。
豊橋から三四郎が広田先生の隣席に席を移して二人は並んで坐った。

 このとき二人のうちどちらが窓に近い方へ座っていたのだろうか。そうして二人は(進行方向の)どちら側を向いて座っていたのだろうか。

 名古屋を出るとき三四郎は窓から顔を出していたり、広田先生が頻繁に席を立つという記述から、ふつうに考えると三四郎が始めから窓側に坐っており、その向かいの窓側が新聞の男、広田先生はその隣で通路側。
 豊橋で降りた男のあとへ三四郎は移り、自分の席を動かない(腰の重い)広田先生と隣り合わせになって会話を始める。
 二人の向かい側の座席はもうまるごと空いているのだろう。
(余談だが前項の引用文で、広田先生の隣席の男のことを、漱石は「隣に乗り合わせた人」と書く。この男が広田先生の連れかも知れないと、読者に(三四郎に)一瞬でも思わせないための配慮である。この過剰ともいえる「正確さ」が自然に出て来てうるさくない所が漱石文学の真骨頂である。)

 前にも述べたが、三四郎の上京は年度替わりの夏休みである。
 暑い季節だから窓は開いている。窓は上下二段で上の方の窓を開けているのであろうが(上から落として開けるタイプの窓であろうが)、それでも進行方向に向いて座ると風や煤煙を直接受けることがあるので、特に窓側の席は女性や年長者は嫌うかも知れない。
 ここでは三四郎と広田先生の二人は、列車の進行方向(東京)に背中を向けて並んでいるのであろう。
 もちろん座席が狭いので向かい合って座ると互いの膝が当たる。当たって構わない人同士ならともかく、ふつうはまず「筋交い」に座るところだが、三四郎と広田先生はこのとき既に言葉を交わす仲になっていたので、(『心』の先生と私が並んで波に浮かんだように)同じ姿勢をとって座ったのである。

 では最初の名古屋駅で、窓から顔を出していた三四郎が「自席に帰る」という書き方が気になるが、前日の山陽線と同じく窓の位置が高いので、しっかり席から尻を離して立ち上らないと頭が出せない、向かい合った座席に対してニュートラルの位置に一つだけ窓が付いている、というようなことが考えられる。
 あるいは前述のようにまともに風を受けるのを避けるため、若干窓際を離れて座っていたのかも知れない。公徳という概念をよく理解はしているが自分勝手なところもある漱石ならやりかねない座り方である。
 いずれにせよ窓が(窓の位置が)自分の自由にならない、自分の付属物でないという前提に立たないと、三四郎越しに桃の食べ殻を窓から投げ捨てた広田先生の行為の説明がつかないことになる。
 無心の広田先生は立ち上がって(とりあえず三四郎と無関係に)、まるでゴミをフタの開いたゴミ箱に投げ入れるように、桃の残滓を包んだ新聞紙を捨てたのである。

 浜松で二人とも申し合わせた様に弁当を食った。食って仕舞っても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往ったり来たりしている。其うちの一組は夫婦と見えて、暑いのに手を組み合せている。女は上下とも真白な着物で、大変美くしい。・・・三四郎は一生懸命に見惚れていた。是では威張るのも尤もだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人の中に這入ったら定めし肩身の狭い事だろうと迄考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いて見たが些とも分らない。熊本の教師とは丸で発音が違う様だ。
 所へ例の男が首を後から出して
「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸見て、
「ああ美しい」と小声に云って、すぐに生欠伸をした。三四郎は自分が如何にも田舎ものらしいのに気が着いて、早速首を引き込めて、着坐した。男もつづいて席に返った。・・・(『三四郎』1ノ8回)

 汽車の窓は、男が二人顔を覗かせることの出来る、少し大きめの窓だったようである。
 そして4人掛けのボックス席を思わせる書きぶりから、三四郎の乗った東海道線は、基本はほぼ現代と同じタイプの車輛とみていいだろう。
 それだけに前日の山陽線の車室の座席構成が余計気にかかるが、読者は三四郎と女の「同衾事件」によって、それどころではなくなったのである。