明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 14

16.『三四郎』汽車の女(2)―― 暗夜行路の山陽線(つづき)


〔番外篇3〕

 ここで前項でふれた『暗夜行路』の当該部分を引用する。(時任謙作が三角巾で頬被りしているのは中耳炎に罹ったため。)

 支度は早かった。隣りの老夫婦も手伝って一時間たらずで総ては片付いて了った。婆さんは荷造りを手伝い、爺さんは電燈会社や瓦斯会社などの払いに廻った。
 尾道には急行は止らなかった。彼は普通列車で姫路まで行き、其処で急行を待つ事にした。
 午少し前、彼は老夫婦と重い旅鞄を下げた松川に送られて停車場へ行った。
 大袈裟に三角巾で頬被りをした謙作が窓から顔を出していると、爺さん、婆さんは重い口で切(しき)りに別れを惜んだ。彼もこの人達と別れる事は惜しまれた。然し此尾道を見捨てて行く事は何となく嬉しかった。それはいい土地だった。が、来てからの総てが苦みだった彼には其苦しい思い出は、どうしても此土地と一緒にならずには居なかった。彼は今は一刻も早く此地を去りたかった。
 客車の中は割りに空いていた。それは春としては少し蒸暑い日だったが、外を吹く強い風が気持よく窓から吹込んで来た。彼は前夜の寝不足から、窓硝子に頭をつけると間もなく、うつらうつらし始めた。やがて騒がしい物音に物憂く眼を開くと、いつか岡山の停車場へ来ていた。彼の前に坐っていた、三人連れの素人か玄人か見当のつかない女達が降りて行くと、其あとに二人の子供を連れた若い軍人夫婦が乗って来た。軍人は背の高い若い砲兵の中尉だった。荷の始末をすると、膝掛を二つに折って敷き、細君と六つ位の男の児、それから其下の髪の房々した女の児とを其処へ坐らせた。そして自身は其処から少し離れて、腰かけの端へ行って腰を下ろした。
 謙作は疲れていた。彼は又いつか眠っていた。
 姫路へ着く一時間程前から漸く彼は本統に眼を覚ました。其汽車は京都止りの列車だったから、彼は京都で急行を待ち合せてもよかったのだ。然し、姫路の白鷺城を見る事も興味があったし、それに出掛けにお栄から明珍の火箸を買って来て呉れと頼まれた、それを想い出していたからであった。
 前の席にいた男の児は二つ折の毛布の間に挟まって、寝ころんだ。すると、女の児もそうして寝たがった。若い、然し何処か落ち着いた感じのある母親は窓硝子に当てていた自身の空気枕を娘の為めに置いてやった。男の児は父親の方を、女の児は母親の方を枕にして寝た。女の児は喜んだ。母親自身は空気枕の代りに小さいタウルを出し、幾重にもたたんで又窓硝子へ額をつけた。
「お母様、もっと低く」と娘が下からいった。母親は物臭そうに手を延ばし、枕の空気を少し出してやった。
「もっと低く」
 母親は又少し出した。
「もっと」
「そう低くしたら枕にならんがな」
 女の児は黙った。そして眼をつぶって、眠る真似をした。
 軍人は想い出したようにポッケットから小さい手鏡を取り出した。それから又小さいチューブを出し、指先きに一寸油をつけて、さも自ら楽しむように手鏡を見つめながら、短く刈って、端だけ細く跳ね上げた赤い其口髭をひねり始めた。
 細君は最初、タウルの枕に顳顬(こめかみ)をつけた儘、ぼんやり見るともなく見ていたが、軍人が余り何時までも髭を愛玩しているのに、細君の無表情だった顔には自然に微笑が上って来た。細君は肩を少し揺すりながら声なく笑った。が、軍人は無頓着に尚油をつけ、髭の先を丹念に縒り上げて居た。
 眠れない子供達は眼をつぶった儘、毛布の中で蹴り合いを始めた。もくもくと其処が持上った。女の児の方が一人忍び笑いをした。
 軍人は鏡から一寸眼を移し、二人を叱った。細君は黙って微笑していた。
 然し男の児は尚乱暴に女の児の足を蹴った。毛布がずり落ちて、むき出しの小さい脛が何本も現われた。二人はとうとう起きて了った。
 二人はそれから二つの窓を開け、其一つずつを占領して外を眺め始めた。外には烈しい風が吹いて居た。男の児は殊更窓の外に首を突き出し、大声に唱歌を唄った。女の児は首を出さずにそれに和した。風が強く、声はさらわれた。男の児は風に逆らって尚一生懸命に唄った。それでもよく聴えないと、わざわざ野蛮な銅鑼声を張上げたりした。風に打克とう打克とうと段々熱中して行く。其処に子供ながらに男性を見る気が謙作にはした。彼はそれが何となく愉快だった。
「八釜しいな!」と不意に軍人が怒鳴った。女の児は吃驚して、直ぐやめたが、男の児は平気で、やめなかった。細君は只笑って居た。
 五時頃姫路へ着いた。急行までは尚四時間程あった。・・・(『暗夜行路』第二/9章)

 傍線部分からも、このときの山陽線(の普通列車)が、6人掛けの木製ベンチということが分かると思う。
 『暗夜行路』の現代的価値については、色々意見もあろうが、読者の趣味を離れても、このように何かの役に立つこともあるのである。(その逆もまたあり得る。)

 ところで『暗夜行路』のこの部分だけ読んでも気がつくことだが、漱石志賀直哉の性格の違いは仕方ないとして、両人のその文章表現の、上っ面の発想(手法)は驚くほど似ている。志賀の文章はより洗練され磨きがかかってはいるが、漱石の文章にもある雑駁なところ、乱暴なところまで、志賀は引き継いで深化させているように見える。
 その「似ている」原因をあえて求めれば、「自分勝手」という項目に導かれようか。(尤も自分勝手でない作家がこの世にいるのかと言われればそれまでだが。)

 「あなたは本当に自分勝手」

 どうでもいいことだが、この称号を受けるに値する双璧は漱石志賀直哉であろう。次点が藤村と荷風であろうか。

 脱線ついでに言えば、前著で論者はもし緑雨が生きていたら漱石は小説など書かなかったろうと(乱暴なことを)書いたが、そのデンでいけば、漱石が大正5年に死ななければ、志賀直哉の『暗夜行路』は成立しなかっただろうと言える。志賀は大家にはなったであろうが、『暗夜行路』がなければ芥川を超えることにはならなかったと思われる。
 さらにどうでもいいことを付け加えると、引用した上記『暗夜行路』の上から3分の1あたりに、

 姫路へ着く一時間程前から漸く彼は本統に眼を覚ました。

 という一文がある。これが山陽線三石-上郡間の船坂トンネルのあたりであることは、論者には疑いのない事実のように思われる。水田地帯岡山平野にトンネルはない。いきなり出現して旅行者を驚ろかす長いトンネルがあるのがこの県境の山間部である。うつらうつらしていた謙作が本当に目を覚まされるのは、長くてうるさい船坂トンネル(旧)を通過したときであった。だからどうだと言うわけではないが。