明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 11

11.『三四郎』会話行方不明事件(3)―― 本文を捏造(でつぞう)してみた


 美禰子の台詞は二つ続いていた。それがそのまま印刷に付されてしまったのは、この美禰子の二つの台詞は、当初漱石の地の文によって分割されていたためである、と前項でも述べた。ここで無謀にもその「地の文」を勝手に拵えて、その上で重複は承知だがその前後の本文を再度掲げてみよう。新聞掲載の切れ目はここでは考えない。

 ・・・ただそのうちの何所かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考えると、今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄が近因である。三四郎は此不安の念を駆る為めに、二人の談柄をふたたび剔抉(ほじくり)出して見たい気がした。
 四人は既に曲り角へ来た。四人とも足を留めて、振り返った。美禰子は額に手を翳している。
 三四郎は一分かからぬうちに追付いた。追付いても誰も何とも云わない。只歩き出した丈である。しばらくすると、美禰子が、
「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事を仰しゃるんでしょう」と云い出した。話しの続きらしい。
「なに理学を遣らなくっても同じ事です。高く飛ぼうと云には、飛べる丈の装置を考えた上でなければ出来ないに極っている。頭の方が先に要るに違ないじゃありませんか」
「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」美禰子は顔だけ野々宮さんの方へ向けたまま、少し笑を浮かべながら、尚も続けた。
「我慢しなければ、死ぬ許ですもの」
「そうすると(やはり私の言う通り始めから)安全で地面の上に立っているのが一番好い事になりますね。何だか詰らない様だ」
 野々宮さんは(それぎりで)返事をやめて、広田先生の方を向いたが、
「女には詩人が多いですね」と笑いながら云った。(原初『三四郎』5ノ4回~5ノ5回)

「やはり私(野々宮)の言う通り始めから」と「それぎりで」という蛇足は、話を分かりやすくするために論者があえて(括弧付きで)加えただけであるから無視していただくとして、引用最後の行の、(野々宮の確定本文たる)「笑いながら云った」は、その前の美禰子に関する論者の仮に付け加えた、説明的な叙述(傍線部分)を削除する直接の原因になったものと思われる。
 美禰子と野々宮、二人とも「笑った」と書くのはくどい。また美禰子の冷笑とも皮肉とも取れる表情を、こんなところで作者自らが書いてしまうのは早計である。漱石は美禰子の性格にある「乱暴」なところを、あくまでも登場人物の口からのみ指摘させるべきだと思い直して、このセリフとセリフの間の地の文を抹消した。

三四郎』は原稿が保存されているから、もし上記のような削除部分(消込部分)が原稿に何らかの形で残っておれば、研究者がとっくに指摘している筈である。それが無い(と断言は出来ないが)ということは、やはり原稿は本文通りになっているのであろうが、漱石が原稿を新しく書き直してしまった(その際に会話文を示す鉤括弧を整頓し忘れた)という可能性は捨て切れない。暴論かも知れないが、男女の会話の語尾があのような形で放置されている「乱暴」さ加減に比べると、この愚挙にも三分の理がありはしないか。

 漱石が美禰子の会話文が二つ続いたのを見過ごしてしまった理由であるが、これは前にも述べたように漱石の書く鉤括弧が小さくて目立たないせいもあろう。原稿紙のマスを一字分使わないで、申し訳程度に文字の肩に書き添えているだけである。(漱石は読点も一マス取っていない。)
 そもそも国文の伝統に会話部分を括弧で括るなどというものはない。一葉でさえ使用していない。(『猫』によると)旧幕時代にないものに碌なものはないのであるから、漱石も仕方なく使っていたに過ぎまい。

 余談だが、文節の始まりは字下げするとして、会話文も字下げした後に鉤括弧から始めるというのが、(岩波の)漱石全集のお決まりである。しかし漱石は、会話文のセリフ自体は、地の文同様一字下げたマスから書き始めている。鉤括弧はその会話文の頭の一文字の付属物として、慎ましやかに同じマスに収まっている。あるいはマスに関係なく義務的にちょんぼり書き加えられているだけである。これを活字印刷にするときは、やはり通常の他の作家の本文のように、会話文は字下げしないでふつうに(鍵括弧から)書き始めた方が、より漱石の原稿に近いのではないか。その部分だけ初版本にこだわり続ける理由も、もうないのではあるまいか。漱石を少し齧った者は誰でも分かると思うが、漱石は初版本の校正(や組版)も、それほど信用していないのである。