明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 14

349.『野分』主人公は誰か(6)――兄と弟(つづき)


 道也の家は市ヶ谷薬王寺前であった。ある日道也の兄が道也の家を訪れると、道也は留守で細君が迎える。

 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
 ①道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関で脱いで座敷へ這入ってくる。
「大分吹きますね」と薄い更紗の上へ坐って抜け上がった額を逆に撫でる。
「お寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「②今御帰り掛けですか
「③いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
 兄は糸織の小袖に鉄御納戸の博多の羽織を着ている。
「今日は――留守ですか」(『野分』第10章一部再掲)

 ところで、常に風と共に在る道也は、結局この小説の中では兄と同席するシーンは描かれなかった。
 道也の出掛けた留守に道也の兄が来る。
 宗助の留守に小六がやって来る。健三の留守に兄がやって来る。島田が来る。比田の留守に姉を訪ねる。津田の留守に小林がやって来る。お延の見舞に来ない間に吉川夫人が来る、お秀が来る。お秀がお延と(銘々の小切手付きで)対面するのは、お秀が津田の妹であるがゆえの特別措置である。(漱石に妹はなかったが、漱石の描く妹は糸子・よし子・お重・お秀、皆秀逸である。那美さんも藤尾も美禰子も皆「妹」ではある)。関が迎えに来ないうちに清子に会う。『明暗』は「鬼の居ぬ間に」の物語である。(そして清子はお延と顔を合わせる前に東京へ引揚げる、というのが論者の推測である。)

 話は飛ぶが、お延が清子と会ったところで、お延の悩みが何か解消するか。お延は安心するか。お延は夫に秘密があると疑って結婚以来半年間苦しんでいる。夫の真意を測りかねている。しかしそれで実際に清子の顔を見ることによって、何が分かるというのか。清子の表情が津田の心の索引になるとでも言うのか。それが分かるようなら漱石も苦労はないわけである。

「人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の外にある」(『論理哲学論考』6-4312 )

 とヴィトゲンシュタインも言っている。(本ブログ坊っちゃん篇15を参照。)

「私」が先生を訪ねたとき、『心』の先生は留守だった。初回も2回目も、そしてそれからも何回か。漱石の作品に留守中の訪問シーンは山ほど書かれるが、兄弟肉親や濃密な間柄のことが多いようである。フロイトなら何か一言あるだろうか。『塵労』では珍しく父親が二郎の下宿を訪ねるシーンが書かれるが――漱石の中で父が子を訪ねる唯一のシーンである――、父親は前日「御前は二郎かい」と職場に電話をかけて来た。「留守」の可能性を(強引に)消したのである。

 市ヶ谷薬王寺前は『道草』の健三の兄(長太郎)の住所地であったとは前述したところ。では『野分』の道也の兄の家はどこか。兄の勤め先は(中野君の結婚披露園遊会の華麗さから見て)まず首都の中心部(丸の内か内幸町あたり)であろう。道也の家(薬王寺前)へは会社帰りに寄るのが普通と思われたようだから(②③)、まあ牛込早稲田近辺と見ていい。
 その道也の兄は会社の役員であるという(①)。この場合の「役員」とは何を指すか。

 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。会社の役員は金のある点に於て紳士である。中学の教師は貧乏な所が下等に見える。此下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明かである。道也はある時の演説会で、金力と品性と云う題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員等の暴慢と、青年子弟の何等の定見もなくして徒に黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員等は生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫に平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属して居た生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身の程を知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。(『野分』第1章一部再掲)

 ここでは役員とは字義通り経営陣に近い存在のようにも見える。道也の兄も「取締役」なのだろうか。漱石読者はまずそんなことはありえないと識っている。

「・・・当人がさ。丸で無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって、筆耕の真似をしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか」
「自分丈はあれで中々えらい積りで居りますから」
「ハハハハえらい積だって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃ仕様がない」
「近頃は少しどうかして居るんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたって、どこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥される。つまり自分の錆になる許でさあ」
「少しは人の云う事でも聞いて呉れるといいんですけれども」
「仕舞にゃ人に迄迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗に不穏な言論をして富豪抔を攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、散々叱られたんです
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、夫々探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣はないが、課長からそう云われて見ると、放って置けませんからね
「御尤で」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」(『野分』第10章)

 道也の兄は会社で弟の過激な言論活動について課長から文句を言われたというのである。課長から君呼ばわりされているからには、道也の兄は平社員かせいぜい係長であろう。漱石はここでは、雇員や給仕でない、今風に言えば「身分の安定した正規の社員」という意味で「役員」という言葉を使ったようである。あるいは保険会社のように社員の定義が違うのか。その頃は社員のことを役員と呼ぶこともあったのか。『猫』で法学士になりたての多々良三平は六つ井物産の役員であると書かれる。会社の株を持てば社員でも役員と呼ばれるのか。しかしいくら明治時代とはいえ、ここはやはり①の文章は漱石の書き誤りではなかろうか。(課長を社長の誤記とすれば辻褄は合うが、2ヶ所も3ヶ所も課長と書かれている以上、それは考えにくい。加えてこんなところに中野君のおやじが実際に顔を出すようでは、『野分』はそれこそ大衆小説になってしまう。)

①道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章原文)

A案①道也の兄は会社の社員である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章改訂案)

 あるいは漱石の小説に「社員」という言葉が似合わないのであれば(漱石の辞書に「社員」という言葉はない)、身分を限定してしまって道也の兄には気の毒だが、次のような可能性も無くはない。

B案①道也の兄は会社の掛長(掛員)である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章改訂次善案)

 兄の身分が何であれ、道也の兄もまた決して金に余裕がある方ではなかった。漱石の兄夏目直矩(和三郎)を模したものであれば、さもありなんと『道草』の読者は納得するかも知れない。
 しかし白井道也が半分以上漱石であるとして、この兄もまた(現実の直矩でなく)半分は漱石であるとする見方も可能である。名前が付けられないのもそのためだったか。道也の兄と漱石の共通点は次のようなものである。

 年齢。道也は明治39年で34歳であった。兄はそのときの漱石の年齢(40歳)とほぼ一致するのではないか。漱石(金之助)と兄直矩(和三郎)の年齢差は実質7ヶ年である。
 早稲田(推定)という住所地。漱石が自分あるいは自分の分身、以外の登場人物を、早稲田に住まわせることはない。
 兄弟(この場合は弟道也)が市ヶ谷薬王寺前に住んでいる。これは漱石でなく(『道草』の)健三の話であるが、健三=漱石と見れば、市ヶ谷薬王寺前にある兄弟の家をわざわざ「訪問する」のは、漱石自身に他ならない。
 金の余裕がない。漱石にとって金に余裕のある人間はすべからく赤の他人である。『それから』の長井得(父)と誠吾(兄)は揃って実業家であり、代助(漱石)にとって別世界の人種であった。それ以外に生きて舞台を闊歩する主人公とその親兄弟に、金に余裕のある者は1人もいない。

 金の話は重要である。道也=兄とすると、道也は兄から百円借りていないことになる。道也は高柳君からただ百円貰った。勿論それは『人格論』435枚の対価であると言い張ることも可能だが、本屋に買い手の付かなかった原稿である。あからさまに言えば、道也は百円の施しを受けた。
 この百円は9年後、清算あるいは蒸し返されることになる。前項で触れたように、『道草』で描かれた「解決金」百円がそれである。市ヶ谷薬王寺前と道也御政の夫婦だけでなく、『野分』は宙ぶらりんになった百円を背負ったまま、『道草』へ直行したと言えなくもない。

漱石「最後の挨拶」野分篇 13

348.『野分』主人公は誰か(5)――兄と弟


 道也の家は市ヶ谷薬王寺前であった。薬王寺前というと、後の読者が知るように、『道草』の健三の兄が住む場所である。漱石は『道草』を書くときに『野分』の道也夫婦のことを一瞬でも憶い出したりしなかったであろうから、薬王寺前は漱石の中では兄弟につながるイメジがあったのだろう。『野分』では兄は道也の唯一の係累として描かれる。

で御兄(おあにい)さんに、御目に懸って色々今迄の御無沙汰の御詫びやら、何やらして、それから一部始終の御話をしたんです
「それから」
「すると御兄さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変私に同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――一寸其炭取を取れ。炭をつがないと火種が切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今迄抛って置いたんだって仰しゃるんです」
「旨い事を云わあ」
まだ、あなたは御兄さんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ
「夫で、金でも借したのかい」
「ほらまた一足飛びをなさる」
 道也先生は少々可笑しくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどの位あれば、是迄の穴が奇麗に埋るのかと御聞きになるから、――余っ程言い悪かったんですけれども――とうとう思い切ってね……」で一寸留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いて居らっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気で赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円許りと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、中々容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」(『野分』第3章)

 『野分』を読むような現代の漱石の読者は、(志賀直哉のような明治期の若者でないのだから)当然『道草』を読んでいるはずである。

「御兄(おあにい)さんに島田の来た事を話したら驚ろいて居らっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」
 細君の顔には多少諷諫の意が現われていた。
「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前へ廻ったのかい」
「またそんな皮肉を仰しゃる。あなたは何うしてそう他のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾あんまり御無沙汰をして済まないと思ったから、ただ帰りに一寸伺った丈ですわ
 彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。
「御兄さんは貴夫のために心配していらっしゃるんですよ。ああ云う人と交際いだして、また何んな面倒が起らないとも限らないからって」
「面倒ってどんな面倒を指すのかな」
「そりゃ起って見なければ、御兄さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」
 碌な事があろうとは健三にも思えなかった。・・・(『道草』19回冒頭)

 薬王寺前が道也の住所地であることを覚えている読者は別として、健三や島田という名前を隠してこの文章をそっくり『野分』に挿入しても、誰も気付かないだろう。『道草』でも兄は(『野分』同様)お金のことで弟の心配をしている。兄はどちらの作品でも、金銭的には弟にとっては第三者であるように書かれている。『野分』では百円の借金を兄に相談した(実際には百円は兄から借りた)。『道草』で兄も認めた「碌でもないこと」とは、島田に取られる百円のことであろうが、それはまた先の話である。

 ところで『野分』では唐突に、道也はまだ兄を疑っているという記述が飛び出す。してみると兄は金銭的にも弟と無関係というわけには行かなかったのか。道也は以前に何か兄に対し疑念を抱くようなことがあった。読者はここでもまた、嫌でも家産とか相続がらみの連想をせずにはいられない。
 信じられないことに漱石は、この後も世襲財産のトラブルについて書き続けた。相続の問題について触れられていない小説は、(『猫』は別格として)『三四郎』だけではないか。『三四郎』が漱石の小説として例外的に爽やかに見えるのは、この漱石特有の鬱陶しい話題から解放されているためである。言い方を変えると、『三四郎』を(単なる青春小説として)物足りなく感じる向きは、この財産問題・相続問題が、『三四郎』に欠落しているということに、改めて想いを致すべきである。
 この問題は三四郎が長男(1人っ子)であるということに尽きよう。漱石は何のために坊っちゃんや白井道也を「弟」にしたのか。三四郎は兄弟がいないために薄っぺらな人間になってしまった。三四郎に懲りた漱石は以後1人っ子を封印した。長男に見える男でも実質は長男でないように造型した。例外的な1人っ子は『心』の先生であろう。先生はそのため(だけでもなかろうが)漱石で唯一死んでしまう主人公となった。自裁しない先生は三四郎のような軽い男になってしまう。漱石はそれに気付いていたとしか思えない。
 それで漱石は先生にKという義兄弟(心の兄弟)のような存在を張り付けたが、救いにはならなかった。Kが早く亡くなったため先生は十何年か生きながらえたが、K(兄者がいる)の代役たる学生の私(やはり兄がある)が先生に近付き、その私に(Kのように)卒業が迫ると、先生はもう歯止めが効かなくなる。
 その観点から言えば、限りなく1人っ子に近い(というより早くから親に見放された)長男の津田が、『明暗』の中で軽薄才子のように描かれる理由も分かるというもの。津田は始めから罰せられるべく生み出されていたのである。

 ところで『三四郎』が物足りないと思う人向けの解決策として、広田先生が三四郎に対して、『心』の先生みたいに、「お母さんが元気なうちに、貰える財産があれば貰っておいたほうがよい」と言えばいいのであるが、残念ながら親1人子1人の三四郎であれば、そんなアドバイスをするわけにもいかない。せいぜい(与次郎の遣い込みによる)臨時仕送り事件が関の山である。漱石は丁寧にもこのときの母親の不安と不満を、野々宮さん宛に送金するというはた迷惑な方法で描いて見せた。(そして『明暗』では父親による送金拒否事件にまで発展させた。)
 しかし『三四郎』第7章で、露悪家について広田先生が三四郎に説くところをよく読むと、三四郎に兄がおりさえすれば、おそらく広田先生は三四郎に上記のアドヴァイスをしたのではないかと思われる。

「・・・それと同じく腹をかかえて笑うだの、転げかえって笑うだのと云う奴に、一人だって実際笑ってる奴はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしている様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だろう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了えぬいたずらものだが、悪気(にくげ)がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の、小六ずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」(『三四郎』7ノ3回)

 広田先生の説明は分かりにくいが、例えて露悪家の典型例を想像するなら、それは親に向かって遺産の即時払いを請求することであろうか。金のある親はその恐怖から目を逸らすために、あるいはある種の歓びのために、せっせと(言われない先に)子供に金を与える。露悪の効用はあるのである。
 金のない家の場合は一見何の問題も起きないように見える。白井道也の場合(漱石の場合)はどうか。これは社会問題ではなく個人(家)の問題であるから、論ずべきではないかも知れないが、道也(漱石)は慥かに厭な経験をしたのだろう。でなければ一生書き続けるわけがない。

 ちなみに漱石にとって兄弟の話は常に相続と直結するのであるが、そういった俗事と無縁に見える『猫』でも、浮世風呂ならぬ横丁の銭湯のシーンではあるが、九郎義経が衣川を生き延びて大陸へ渡ったという、明治期に一世を風靡した義経成吉思汗伝説が語られる。遊牧民は父母のパオ(包・ポー)を長男から順に独立して出て行き、最後に残った末子が(形式だけにせよ)相続するのである。源氏の末裔たる漱石は、自分にも相続する権利があると、頭の何処かで感じていたに違いない。

「鉄砲は何でも外国から渡ったもんだね。昔は斬り合い許りさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえ様だ、矢っ張り外国の様だ。和唐内の時にゃ無かったね。和唐内は矢っ張り清和源氏さ。なんでも義経蝦夷から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それで其義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと云うと、三代様がそいつを留めて置いて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――夫で其使を二年とめて置いて仕舞に長崎で女郎を見せたんだがね。其女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされて居た。……」何を云うのか薩張り分らない。・・・(『猫』第7篇)

 漱石近松(門左衛門)を持ち上げる理由は別にないが、茶化しているとも断じがたい。「義経のむすこが大明を攻めた」という箇所は無茶苦茶なようで妙に真を穿っているような感じでもある。「義経のむすこ」の解釈にもよるが、「三代様」が家光であることと鄭成功の故事は動かしようがないので、これは元朝清朝の間の400年をわざとショートカットした謂いか。大明国に滅ぼされた元朝と、その大明国を滅ぼした清朝は、徳川期の江戸庶民にとっては同じ(韃靼人の)国家に見えたはずである。それは大明国の子会社みたいな存在だった足利幕府とその後継者たる(源氏の)徳川幕府に対する、庶民のおちゃらけでもあった。相手が明でも清でも頭が上がらない徳川政権に対して、庶民はチャンバラレベルでの勝ち負け・敵討ちの話に落とし込んで愉しむのである。これもまた反骨精神の現れであろうか。

 漱石は自分の遠い祖先が、元の建国に協力した官僚(軍事顧問)であったことに誇りを持っていたに相違ない。大モンゴル帝国はアジアの民として始めて欧州を席捲した。
 ちなみに鄭成功の平戸における日本名は「田川」という姓である(田川福松)。漱石はそれと知って、後の主人公の1人に「田川敬太郎」という名を付けたのだろうか。

漱石「最後の挨拶」野分篇 12

347.『野分』主人公は誰か(4)――夫婦のあり方(つづき)


 子のない夫婦の源流は『野分』であった。結婚して7年、子供が出来ないという記述すらない。前述したが、それを除けば『野分』の夫婦は、外見だけでは苦沙弥夫婦や健三御住夫婦と区別が付かない。
 彼らが現実の漱石鏡子夫妻を模したものである以上、これは当り前のことだと思われるかも知れないが、(『猫』はさておくとしても)『野分』から9年後の『道草』まで、漱石のキャリアのほぼすべてが費やされていることを考えると、漱石はその間道也御政夫婦を封印していたとも言える。満を持して、とまでは思わなかったにせよ、『道草』で自分たち夫婦を書いたということは、そこに漱石のある覚悟が覗われるのではないか。
 修善寺で一度死んでいるから言うわけではないが、兄2人が若死にしていることもあり、漱石でなくとも「人間五十年」は当時こそ人々に汎く行き渡っていたはずである。苦沙弥も細君に「貴方のような胃病でそんなに永く生きられるもんですか」と極めつけられている。

 つまりちょっと先走るようで気が引けるが、漱石は『心』から(『硝子戸の中』を経て)『道草』に至る前後の頃には、ある種の身仕舞いに取り掛かろうとしていたのではないか。
「則天去私」は吾子の譬え(ある朝盲いた娘)が有名だが、夫婦についてもまさに同じことが言えよう。晩期3部作で夫婦の問題を書くことにしたのも、自身の生き方と夫婦としての生き方が、まったく別物にしてかつ不即不離の関係にあることを、「則天去私」のお題目の下に証明しようとしたものであろう。
 漱石ほど「自分(私)の生き方」にこだわった人もおるまい。人生を左右するような大きな局面でも、どうでもいいような些細なことがらに対してでも、漱石は常に自分の流儀を通す。自分の人生態度を1ミリも変えない。これが傍からはとてつもなく強情・頑固・意地っ張り・天邪鬼・無鉄砲・堅物・変人に見える。自分はそれでいい。自分で生きる分には人がどう思おうが知ったことでない。しかし夫婦は別である。自分の生き方が妻の生き方になる(場合がある)。夫婦に関しては、(愛情で結ばれたと考うべき)男と女に関しては、私を去ってより巨きな道にしたがうのが自然の法則ではないか。それを漱石は則天去私と言った。漱石にしてはずいぶんと妥協したつもりだったのだろう。あるいは細君ほど手に負えないものはないと、つくづく身に沁みたのか。
 則天去私のテーマはさておくとしても、『野分』の夫婦、少なくとも『野分』の細君がそのまま『道草』に移行したということだけは、言って差し支えないと思う。鏡子夫人は『野分』のあと9年間「雌伏」して、『道草』で不死鳥のごとく蘇った。(そして次の『明暗』で、吉川夫人の身体を借りて、「最後の挨拶」をするのである。)

 頭脳明晰な漱石は鏡子夫人の考えていることくらいは分かる。その中には、誰にあっても絶対認めるわけには行かない(因循で俗情に凝り固まったと漱石が信じた)女特有の考え方がある。それは漱石を苦しめたが、夫人もまた漱石と対峙することによってどこまでも泣かされた。
 ただし鏡子夫人の涙に対しても、漱石は理解しなかったわけではない。その釈明のようなものについては、早くから『猫』に一部(冗談めかして)書かれたが、『野分』では前の項で長々と引用した細君の愚痴めいたかきくどきになった。
 それは漱石にしては思い切って類型化されたものであるが、――一葉を思わせるのも、それがためであろう。漱石の文章はオリジナルに過ぎて、一瞬でも他の作家を連想させる箇所は滅多にないのだが、道也の細君の独白シーンには、さすがに初期作品らしいところが垣間見える。つまり漱石は所謂「毛脛丸出しで」女を描くには、この時あまりにすれっからしとは遠い位置にいたということであろうか。

 漱石は続く『虞美人草』でもう一度チャレンジして失敗したあと、この「女を装うこと」をいったん放棄した。美禰子・三千代・御米の前期3部作、千代子・お直・静の中期3部作において、漱石は「女を装うこと」「女の立場に立とうとすること」をやめて、傍観者(語り手)の立場に徹した。そしてその描き方・語り方は、万人が認める通り稀有の成功を収めた。とくにそれぞれの3部作の前2者、美禰子・三千代、千代子・お直の4人の女は、漱石ファンにとって忘れ難い存在となった。(直球、直球と投げて、最後は変化球。ファンへのインパクトは当然直球の方が強い。喩えはよくないが。)
 名人芸に胡坐をかくことを拒否する漱石は、最後の3部作で再チャレンジする。人形遣いの所有物でない、生身に生きる女を描くことにした。漱石の意のままにならない女。漱石に悩み方を訓えられるのではなく、自分で自分の悩みを悩む女。『野分』の進化した子孫たる御住とお延。――3作目は少し目先を変えてくるはずであるから、御住でもないお延でもない、漱石好みの女らしい女。それでいていつでも崖から飛び込みそうな思い切りの良さを見せる女――。

 幻の最終作の話をいくら続けても実りは期待できないが、『野分』のもう1人の若い女、あるいは『野分』に書かれた唯一の若い女である中野君の婚約者は、「漱石の女」の仲間たりうるか。それとも金田富子のチームメイトに過ぎないのだろうか。
 その中野君の婚約者の初登場シーンは少し芝居がかっている。道也が中野君の談話記事を取りに行って、その帰りがけの玄関。

「あなたは、もしや高柳周作と云う男を御存じじゃないですか」と念晴らしの為め聞いて見る。
「高柳? どうも知らん様です」と沓脱から片足をタタキへ卸して、高い背を半分後ろへ捩じ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋る音がして梶棒は硝子の扉の前にとまった。①道也先生が扉を開く途端に車上の人はひらり厚い雪駄を御影の上に落した。②五色の雲がわが眼を掠めて過ぎた心持ちで往来へ出る。
 時計はもう四時過ぎである。深い碧りの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶が一羽舞っている。雁はまだ渡って来ぬ。向から袴の股立ちを取った小供が唱歌を謡いながら愉快そうにあるいて来た。肩に担いだ笹の枝には草の穂で作った梟が踊りながらぶら下がって行く。大方雑子ヶ谷へでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋の奥の方に柿許りがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
 ③薬王寺に来たのは、帽子の庇の下から往来の人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。④三十三所と彫ってある石標を右に見て、紺屋の横町を半丁程西へ這入るとわが家の門口へ出る。家のなかは暗い。
「おや御帰り」と、細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のない程小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「一寸、柳町迄使に行きました」と細君は又台所へ引き返す。(『野分』第3章)

 登場人物を描くのに足から(足だけ)映すという技法は昔からあったようだ(①)。中野君の婚約者はとりあえず②の「五色の雲」という1語のみで形容されるが、華美な登場の仕方は金田富子・マドンナ・那美さんに続くヒロインの資格充分である。この「五色の雲」が中野君の婚約者であることは後刻、先にも少し引用した高柳君の郷里に触れた箇所で明かされる。

「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。矢っ張り御百姓なの」
「農、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。此間あなたが御出のとき行き違に出て行った男があるでしょう」
「ええ、あの長い顔の髭を生やした。あれはなに、⑤わたしあの人の下駄を見て吃驚したわ。随分薄っぺらなのね。丸で草履よ
「あれで泰然たるものですよ。そうして些とも愛嬌のない男でね。こっちから何か話しかけても、何にも応答をしない」
「夫で何しに来たの」
「江湖雑誌の記者と云うんで、談話の筆記に来たんです」
「あなたの? 何か話して御遣りになって?」
「ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――夫であの男について妙な話しがあるんです。⑥高柳が国の中学に居た時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ」
「あれで? まあ」
「所が⑦高柳なんぞが、色々な、いたずらをして、苛めて追い出して仕舞ったんです」
「あの人を? ひどい事をするのね」
「夫で⑧高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、嘸先生も追い出された為めに難義をしたろう、逢ったら謝罪するって云ってましたよ」(『野分』第7章)

 女は道也の薄っぺらい草履のような下駄を覚えていた(⑤)。これは女を始めて描いたときの厚い雪駄(①)との対照の効果を狙ったものであろうが、そんな小細工に気が差すのか漱石は、道也の住まいを後にも先にもないような丁寧さで描く。道也の家は市ヶ谷の薬王寺前であったが、どの家屋か特定できるような異例の描き方である(③と④)。
 そして女が中野君の婚約者と判明したときには、⑥⑦⑧というこの小説の骨子を、改めて中野君の口から復唱させている。

 中野君の婚約者の役割は何か。この無個性で(漱石の嫌う)紋切型の令嬢は、いったい何のために登場したのだろう。
 道也の借家(薬王寺前)を紹介する先導役か。(シェイクスピア劇のように)あらすじを再確認する賑やかしに引っ張り出されたのか。それとも物語の終わりで高柳君の転地に資金提供を発案するという、取って付けたような役目のためだけの存在か。単に地味な小説に彩りを添えるため、中野君と(女っ気のない)高柳君を際立たせるため、あるいは道也の細君との対照の妙を狙ったものか。まるで画にハイライトの絵筆を入れるように。
 中野君の婚約者には(道也の兄同様)名前がない。渾名さえない。短篇も含めて前後の作品を見ても、セリフのある若い女には名前が付けられるのが普通である。名前のないことが彼女の存在感を削いだのか。名前はあっても呼びようが難しかったので、つい書きそびれたのか。

 この漱石らしくないばたばたした書き方を見ると、若い女を登場させるというので緊張しているとも取れるし、気を遣っているとも取れる。自然でないとも言えるし、ぎこちないとも言える。照れる歳でもないが、漱石は何か言い訳をしたかったのだろうか。この癖・構えを、漱石は形を変えながら意図して永く残した。『行人』で二郎は、帰ったあとのお直に、

「だって反っ繰り返ってるじゃありませんか」(『塵労』5回)

 と言われたことを回想している。
 女の側からすると、もっとふつうの男のように振舞ってほしいということだろうか。でもそれをすると漱石漱石でなくなってしまう。

漱石「最後の挨拶」野分篇 11

346.『野分』主人公は誰か(3)――夫婦のあり方


「こっち」のおかげで細君まで主役争いに加わった。
 この「複数主人公が銘々自分の思いを表出する」という描き方は、次作『虞美人草』に直結するものであるが、後に『門』にも目立たないように一部受け継がれた。久しぶりに登場した「主人公の細君」(御米――『野分』以来4年ぶり)に、漱石がつい同情してしまったのか。
 しかし真に『野分』の御政の後継者と言えるのは、『道草』の御住だけである。漱石は御住の内面に踏み込むのに、まったく躊躇するところがない。漱石は作者として御住に同情も言い訳もしない代わりに、御住の心の中を(男の視点ではあるが)誰にはばかることなく書きつらねた。
 『道草』だけでは気が済まなかったと見えて、『明暗』ではお延を(津田と並んで)、「自分の意思を持ち、自分の考えで行動する」男と同格の(と漱石は考えた)、女主人公に仕立て上げてしまった。つまりお延が次に起こすアクションは、お延自身に聞けというのである。これが則天去私ということであろう。『明暗』がいつまでも終わらなかったわけである。

 論者の謂う漱石の晩期3部作(『道草』『明暗』と幻の最終作品)の通奏低音となっているのは、この「物語の成行は自然に順う」という「則天去私」の考え方であろうが、御住・お延の描き方を見ると、幻の最終作品もヒロインは、自ずと自らの悩みを悩むように「直接」(主人公の眼を通さずに)描かれるのではないか。二番煎じを嫌う漱石としては、お延と同じような(完全に独立独歩する)書き方はしないだろうが、少なくとも御住程度にはヒロインの心の裡は語られるのであろう。
 まあそれは先の話としても、この晩期3部作の共通テーマは、細君の内面に漱石の筆が降りて行くということから、それを敷衍した「夫婦のあり方」ではないか。その萌芽が早くも『野分』にあったということである。

 話はさらに飛ぶが、3部作の共通テーマという観点から見ると、それは

 前期3部作(青春3部作) 愛の行方。
 中期3部作 つがう(番う)ことの難しさと苦しみ。
 晩期3部作 夫婦のあり方。

 というふうに言えないだろうか。からを貫く思想は「愛とは何か」ということであろが、これが太宰治が(漱石同様)いつまでも読み継がれる理由であると思われる。そこまで大袈裟に考えなくても、からにかけて、テーマとして段々成長して行く(ように見える)ところがミソ。書かれた小説とともに、テーマの難解度合も読者の意識も昂まって来る。漱石の読者がなぜ途絶えないか、その答えの1つがここにあると思う。
 そして晩期3部作の最終作(書かれなかった幻の最終作品)は、テーマとしてのスタート作品(『三四郎』)の、そのまた前に戻るのかも知れない。つまり初恋の成就という、漱石にとって禁断の、かつ永遠のテーマであるが、これらが混然一体となった「愛の研究」という構築物が漱石の文学世界であるとは言える。
 この壮大な3部作群の構成だけでも稀有のことであるが、漱石の場合はもう1つおまけに、『猫』上中下3部作、さらに「怒りの明治39年3部作」(『坊っちゃん』『草枕』『野分』)が(別棟として)屹立する。これらは朝日入社以前の、まさに歴史的建造物であろう。漱石が建築家志望であったから言うわけではないが。

 ところでこの「幻の最終作品」とはいかなるものであるか、前著(『明暗』に向かって)及び本ブログ草枕篇(8・9)に述べたことではあるが、話の行きがかり上ここでもう一度概略のみ紹介しておきたい。

 漱石の最晩年に使っていた手帳にこんな記述がある。

〇二人して一人の女を思う。一人は消極、sad, noble, shy, religious, 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。life  の meaning を疑う。遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。女自殺すると仮定す。男惘然として自殺せんとして能わず。僧になる。又還俗す。或所で彼女の夫と会す。(岩波書店版定本漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B末尾)

《幻の最終作品目録》
①初恋の人との出会いと別れ。
②未練そして再会。
③最初で最後の告白。
④驚き同時に喜ぶ女。
⑤始めて自分の力で勝ち取った至福。
⑥運命による復讐と女の死。
⑦贖罪の日。
⑧友との邂逅と最後の会話。
⑨救いと復活(があるかないか)。

 まるで9つの楽章を持つオラトリオのように奏されるであろう、この漱石最後の作品を以って、
『道草』『明暗』『〇〇』
 という「晩期3部作(則天去私3部作)」は完成されるはずであった。

 夫婦のあり方ということに着目して論述を続けると、その晩期3部作において、『道草』では夫婦関係はかなり煮詰まっていて、それなりに光明(あるいは諦観)さえ見えるようである。『明暗』は結婚して半年の、不確かな夫婦関係がこれから先どうなって行くかを描いた物語であろう。奇妙なことに(僅か半年しか経験がなくても)お延もまた、御住と同じような光明と諦観を見出すのではないか。そして「幻の最終作品」は女を獲得した(獲得された)あとの、夫婦関係が築かれてゆく、あるいはそれが築かれない前に起きるであろう悲劇という想定である。女は中途で退場してしまうので、光明と諦観は男に引き継がれる。あるいは断ち切られてしまう。

 子供が出て来るのは『道草』だけであるが(3番目の女の子の出産シーンが印象的)、これは自伝だから当然、あるいは『猫』(トン子・スン子・坊ば)の時期を書いたものだから当然、と言えば言えようが、それだけの理由でもない。例の3部作理論によると、漱石は3部作に1作ずつ、子供のいる(いた)主人公夫婦を描いていた。

 前期3部作『それから』または『門』 三千代の「生れた子供はじき死んだ」。残っていた赤いネルの着物。御米の育たなかった3人の嬰児の話は哀れを誘う。1人目の流産はともかく、2人目の児は未熟児で1週間だけ生きた。位牌もある。3人目は「臍帯纏絡」まあ死産であろう。この児にも位牌はあった。三千代と御米、どちらかでもぎりぎり「子供がいた」夫婦に該当しないだろうか。
 中期3部作『行人』 長野一郎お直の1人娘芳江。
 晩期3部作『道草』 名前のない3人の女の子。長女、次女、赤ん坊、と漱石は書いている。

 この子供付きの夫婦のルーツはもちろん『猫』である。反対に漱石は「子供のいない」主人公夫婦も、3部作の内に1作ずつ描いた。それが『野分』から発していることは言わずもがな。

 前期3部作『それから』または『門』 三千代も御米も「子供のいない夫婦」といってよいが、上記の裏返しで、該当はどちらか一方だけにできないか。
 中期3部作『心』 先生は望む結婚をしたにもかかわらず、始めから子供を設けるつもりがなかったようだ。小説の中で、先生の(妻と子に対する)罪と罰は明白に書かれる。
 晩期3部作「幻の最終作品」 女に襲いかかる悲劇まで、結婚後1年か2年の年数を経過していることが想定される。子供は当然産まれない。子供がないからこそ女は「決意」するのであろう。いっぽう『明暗』はまだ結婚半年であるから、(悪阻の症状の書かれない以上)津田とお延に子供のいない夫婦という言い方は当たらないのではないか。

 ちなみにお延が妊娠する(かも知れない)という話は、『明暗』が最後まで書かれたとしても、披露されないと論者には思われる。お延が(鏡子夫人のように初子を)流産してしまうという話も、読者には受け容れやすい展開であるが、初子を流産してしまうという話は、(鏡子=キヨ=清という聯想から)清子で既に使われている。お延まで流産したのでは、『明暗』は「流産小説」になってしまう。流産ということでは(ここではこれ以上追求しないが)、物語の副人物吉川夫人にもその(濃厚な)疑惑がある――吉川正夫・吉川奈津・直之助という創作メモが無言のうちにそれを伝えている。吉川夫人が清子の庇護者になるのは、それも原因しているのだろう。しかしお延までもが流産によってその仲間に加わるという話は、流石に便宜的に過ぎよう。

 夫婦の形に子の存在はその有無にかかわらず影響する。夫婦や子供と無縁に見える『三四郎』でさえ、汽車の女の子供の玩具、菊人形の迷子の女の子に加え、丁寧にも物語の大詰で三四郎を子供の葬列に遭遇させている。『心/先生と私』(8回)の「子供でもあると好いんですがね」「一人貰って遣ろうか」「貰ッ子じゃ、ねえあなた」も印象深いが、してみると『彼岸過迄/雨の降る日』も、たまたま起こったアクシデントを(供養のために)流用したのではないという気がする。もしも雛子の事故がなかったら、敬太郎が電車で遇った赤ん坊連れの蛇の目傘の女の描き方が違ったものになっていた可能性が高い(『彼岸過迄/風呂の後』11回)。子供のあるなしはいつでも漱石の気にかかっていたのである。

漱石「最後の挨拶」野分篇 10

345.『野分』主人公は誰か(2)――御政のアリア


 漱石は御政という道也の細君を描くときに、「こっち」という言葉を2度使用した。その最初の使用例は、本ブログ第5項で、『野分』という小説が風と共にあるということを述べたとき引用した、道也夫婦の描写部分に見られる。

 道也先生長い顔を長くして煤竹で囲った丸火桶を擁している。外を木枯が吹いて行く。
「あなた」と②次の間から妻君が出てくる。③紬の羽織の襟が折れていない
「何だ」と④こっちを向く。⑤机の前に居りながら、終日木枯に吹き曝されたかの如くに見える
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」(『野分』第10章冒頭再掲)

 漱石のペンが時折細君に寄り添うのは、『野分』という小説が(『虞美人草』と同じく)そういう描き方の小説である以上、他がとやかく言うことでない。道也先生、高柳君、中野君、細君御政。漱石のつもりでは(西洋の小説のように)登場人物を均等に描写しようとしているのだろう。(驚ろくべきことに漱石は『明暗』でさえ西洋の小説と同じ描き方をしていると信じていた。)
 しかるに④の「こっちを向く」という言い方はどうだろうか。漱石はこのとき細君と一体化している。もちろん一体化していいのだが、その前の②で、細君は隣室から道也のいる部屋の方へ「出てきて」いる。つまり②の前に細君はいない。少なくとも①の文章は細君の世界の外にある。そして①から②にかけて道也と共にいた漱石は、③の細君の羽織の襟の描写に続いて、道也のセリフ(「何だ」)と動作(顔を向ける)を叙述するのに、いきなり「こっち」(④)という表現を採用する。「こっち」とはどう考えても細君のことであろう。道也から細君への瞬間移動。すると⑤の道也の風体(木枯らし)に対する論述は誰のものか。「見える」の主体は細君か漱石か。どちらとも取れるように漱石はわざと書いているのか。

 なぜこんな書き方になるのか。何か魂胆があるのだろうか。
 漱石はもう一度、小説の末尾近くで、これと同じ書き方をしている。

「所がですて、此金の性質がですて――只利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御兄さんに伺った位なのです。所が御兄さんが、いやそりゃ大丈夫、ほかのものなら知らないが、弟に限って決して、そんな不都合はない。受合う。と仰しゃるものですから、夫で私も安心して御用立て申したので――今になって御違約では甚だ迷惑します」
 道也先生は黙然としている。鈍栗は烟草をすぱすぱ呑む。
「先生」と高柳君が突然横合から口を出した。
「ええ」と道也先生は、⑥こっちを向く。別段赤面した様子も見えない。赤面する位なら用談中と云って面会を謝絶する筈である。
「御話し中甚だ失礼ですが。一寸伺っても、よう御座いましょうか」
「ええいいです。何ですか」(『野分』第12章)

 登場人物(セリフを言う者)は道也先生と鈍栗(金貸)と高柳君の3人である。漱石は道也が高柳君の方へ向き直るのを、⑥「こっちを向く」と書く。3人はここでも平等ではなかった。

・第10章冒頭の④「こっちを向く」は「細君の方を向く」
・第12章の⑥「こっちを向く」は「高柳君の方を向く」

 細君は高柳君と「同格」なのだろうか。してみると第10章は細君の章なのか。道也の原稿がまだ売れないという、その第10章冒頭文の続き。

「でも夫じゃ、うちの方が困りますわ。此間御兄さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから」
「おれも其方を埋める積で居たんだが――売れないから仕方がない」
「馬鹿馬鹿しいのね。何の為めに骨を折ったんだか、分りゃしない」
 ⑦道也先生は火桶のなかの炭団を火箸の先で突付きながら「御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ」と云った。⑧妻君はだまって仕舞う。ひゅうひゅうと木枯が吹く。玄関の障子の破れが紙鳶のうなりの様に鳴る。
「あなた、何時迄こうして入らっしゃるの」と⑨細君は術なげに聞いた。(『野分』第10章再掲)

 夫婦のやり取りはさらに続く。夫婦は道也の兄の保証で借金をしていたのであった。

「⑩御前は兄の云う事をそう信用しているのか
「⑪信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にして入らっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり⑫道也先生は火鉢の灰を丁寧に掻きならす。中から二寸釘が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮の火箸で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛り出した
 庭には何もない。芭蕉がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をして居る。地面は皮が剥けて、蓆を捲きかけた様に反っくり返っている。道也先生は庭の面を眺めながら
「⑬随分吹いてるな」と独語の様に云った。(『野分』第10章再掲)

 ⑩⑪はいかにも漱石らしい身勝手さが却って微笑ましい。これはむしろ言うとすれば兄夫婦が道也に対して言うセリフであろう。信用されないかも知れないのは、借りた金を返せそうにない道也の方である。漱石は自分が間違っていることを火のように懼れたが、金や物の貸し借りは漱石にとって正邪の外にあったらしい。
 坊っちゃんは清に貰った金を(わざと)借りたと言い張った。借りたからには返さなければならない。借りた金は返すのが筋であるが、坊っちゃんは返さなかった。返したくても(死んだから)返せないというのが坊っちゃんの言い分である。しかし理屈を言うようだが、坊っちゃんは清がいなければ清の係累に返せば済むわけである。坊っちゃんはそうはしない。まさか自分が清の相続人と思っていたわけでもないだろうが、このとき坊っちゃんに倫理上の負い目がこれっぽっちも無かったことは疑いを入れない。漱石の主張はただ1つ。返したいのに返せないのは自分のせいではないということに尽きる。無鉄砲は親の血のせいである。自分の責任ではないというのである。漱石がどこかの家に留守番だかで長期に泊り込んだときの火鉢事件、図書館の本の行方不明事件、それから漱石は後年ヘクトーを放し飼いにして、ヘクトーが通行人に嚙みついて警察沙汰になったとき、犬に不審を抱かせた方が悪いと開き直ったことがある。潔癖な漱石の奇妙な倫理観に現代の読者はとまどうが、それはまあ勘ぐってみれば、他から金を得ることを漱石が異常に懼れたということに行き着くのかも知れない。なぜそうなるかは軽々には言えないが。

 そしてここから細君の涙の告発が始まる。

 思う事積んでは崩す炭火かなと云う句があるが、細君は恐らく知るまい。⑭細君は道也先生の丸火桶の前へ来て、火桶の中を、丸るく掻きならしている。丸い火桶だから丸く掻きならす。角な火桶なら角に掻きならすだろう。女は与えられたものを正しいものと考える。其なかで差し当りのない様に暮らすのを至善と心得ている。女は六角の火桶を与えられても、八角の火鉢を与えられても、六角に又八角に灰を掻きならす。それより以上の見識は持たぬ。
 立っても居らぬ、坐っても居らぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝頭は火桶の縁につき付けられている。坐わるには所を得ない、立っては考えられない。細君の姿勢は中途半把で、細君の心も中途半把である。
 考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によす筈であった。親でさえ、あれ程に親切を尽してくれたのだから、二世の契りと掟にさえ出ている夫は、二重にも三重にも可愛がってくれるだろう、又可愛がって下さるよと受合われて、住み馴れた家を今日限りと出た。今日限りと出た家へ二度とは帰られない。帰ろうと思ってもおとっさんもお母(っか)さんも亡くなって仕舞った。可愛がられる目的(あて)ははずれて、可愛がってくれる人はもう此世に居ない。
 細君は赤い炭団の、灰の皮を剥いて、火箸の先で突つき始めた。炭火なら崩しても積む事が出来る。突付いた炭団は壊れたぎり、丸い元の姿には帰らぬ。細君は此理を心得て居るだろうか。しきりに突付いている
 今から考えて見ると嫁に来た時の覚悟が間違って居る。自分が嫁に来たのは自分の為めに来たのである。夫の為めと云う考はすこしも持たなかった。吾が身が幸福になりたい許りに祝言の盃もした。父、母も其積で高砂を聴いていたに違ない。思う事はみんなはずれた。此頃の模様を父、母に話したら定めし道也はけしからぬと怒るであろう。自分も腹の中では怒っている。
 道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それは⑰こっちで云い度事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、従って夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫は決して聞き入れた事がない。家庭の生涯は寧ろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治まらない。世間の夫は皆道也の様なものかしらん。みんな道也の様だとすれば、この先結婚をする女は段々減るだろう。減らない所で見るとほかの旦那様は旦那様らしくして居るに違ない。広い世界に自分一人がこんな思をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳には行かぬ。然し連れ添う夫がこんなでは、臨終迄本当の妻と云う心持ちが起らぬ。是はどうかせねばならぬ。⑱どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きて居る甲斐がない。――⑲細君はこう思案しながら、火鉢をいじくって居る。風が枯芭蕉を吹き倒す程鳴る。(『野分』第10章)

 道也の細君の訴えは、まるで一葉を思わせるかきくどきである。その前に、この夫婦は同じことをしている(『明暗』の津田とお延のように)。道也の仕草①⑦⑫と対をなすのが細君の⑭⑮⑯そして総括の⑲である。漱石としては珍しい、粘りの強い、いっそしつこいくらいの描写であろう。木枯らしと共に書かれた『野分』はまた、火鉢(火桶)の中の真っ赤になった炭団と共にあった。そして⑱の夫を自分用に変えようという最後のくだりもまた、その後の漱石作品の多くの細君群像を跳び越えて、早くも『明暗』のお延に迫る主人公的性格を内包している。
 それもこれも「こっち」という漱石特有の言い回しがなせる技であろうか。その細君にとっての2番目の用例たる⑰の「こっち」は、この引用文全体を細君の独白(セリフ)と見れば、とくに傍証として挙げるに至らないとも言えるが、細君の口説きはやはり通常のセリフとは一線を劃すものだろう。道也の細君は(苦沙弥の細君のような)単なる主人公の細君にとどまらず、(『道草』の御住のように)女主人公の素質も充分兼ね備えているのであった。

 ところで⑧の「妻君」と⑨の「細君」の混在に読者は戸惑うが、別に漱石は意図的に書き分けたものでもないと思われる。道也の細君に中野君の美形らしい結婚相手。漱石は筆の勢いで細君と書き、また妻君と書く。思うに漱石の当て字や送り仮名の不揃いは、漱石は先ず音で(喋るように)文章を創るので、正しい音(発声)が極まれば、あとはそれがどう書かれても(読者にどう読まれても)、漱石自身にとっては大した問題ではないのであろう。「許」「許り」「ばかり」どちらでもいいのであった。
 要するに漱石は曲を創るように小説を書いたとも言えるだろう。サンマという音が担保されれば、あとは三馬と書くかさんまと書くかは、二の次である。あるいは漱石は画を描くように小説を書いた。狙った効果が得られるなら、指で描こうが踵で描こうが構わないのであった。
 ルビについても同じである。以前にも述べたことがあるが、漱石は読者のためにルビを振ることはなかった。間違った活字を拾われないため。目的はそれだけである。漱石がもし(昭和の時代まで生きて)自分でワープロを使って小説原稿を書いたとしたら、断言してよいがルビは皆無に近くなる筈である。といって漱石は総ルビの新聞小説を否定するものではなかったから、早い話がどうでもいいのであった。
「はじめに音ありき」と漱石自身も(林原耕三に)語っている。(本ブログ心篇13)

 その意味で音が間違っていれば、それは漱石の書き誤りであると言える。⑬の原稿版「存分吹いてるな」を、「随分吹いてるな」と修正して引用したのも、くどいようだがその確信に基づいてのことである。
「存」という字と「隋」という字を書き間違えることは、普通はないと思われる。しかし『門』の宗助のように、「近江」の「近」の字(の正しい形)が、何かの拍子で分からなくなることも、人間にはあるのである。

漱石「最後の挨拶」野分篇 9

344.『野分』主人公は誰か(1)――見分けるコツは「こっち」


 さて本題に戻って『野分』の主人公は誰か。
 書出しの「白井道也は文学者である。」を見ても、白井道也であるとするのがふつうかも知れない。年齢も先の年表にあるように明治39年で34歳。漱石の40歳に近い。というより明治6年生れで、『草枕』の画工と同い年である。
 しかし次の章で中野君と高柳君が登場すると、白井道也は「道也先生」とお客さん扱いになってしまう。漱石の筆はひとまず中野君と高柳君に平等に降臨する。そのうち道也の細君まで主役争いに加わるが、さすがに章を追ううちに、小説としては自然に主人公は白井道也と高柳周作の2人に収斂してゆくようである。このことを志賀直哉は日記に、「二つの見方を一時にするを要す」と書いたことは前述の通り。
 要するにこの手法を通俗小説というのであるが、根が通俗小説作家でない漱石にとって、最終的には基準点たる主人公を定めなくてはいけない。(このときの志賀直哉には、『野分』と通俗小説を結びつける意識はなかったであろうが。)

 そこで登場するのが「こっち」という漱石時代特有の用語である。高柳君と道也の(小説における)初対面シーン。

「私は高柳周作と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今迄何度もある。然し此時の様に快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、其他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。先達て中野のおやじに紹介された時抔は愈以て丁寧に頭をさげた。然し頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じて居る。位地、年輩、服装、住居が睥睨して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首するのである。道也先生に対しては全く趣が違う。先生の服装は中野君の説明した如く、自分と伯仲の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点に於て自分の室と同様である。先生の机は白木なるの点に於て、丸裸なるの点に於て、又尤も無趣味に四角張ったる点に於て自分の机と同様である。先生の顔は蒼い点に於て瘠せた点に於て自分と同様である。凡て是等の諸点に於て、先生と弟たりがたく兄たりがたき間柄にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにも拘わらず、此方(こっち)の好意を以て下げるのである。同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀である。世間に対する御辞儀は此野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極めたる虚偽の御辞儀でありますと①断わりたい位に思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚ったかどうか知らぬ
「ああ、そうですか、私が白井道也で……」とつくろった景色もなく云う。高柳君にはこの挨拶振りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。②道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開けて、一刻も早く同類相憐むの間柄になりたい。然しあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、その為めにかく零落したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんな所になると頗る勇気に乏しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、愈と云う段になると少々怖くて罪滅しが出来かねる。心に色々な冒頭を作って見たが、どれも是も極りがわるい。
「段々寒くなりますね」と③道也先生はこっちの了簡を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、大分寒くなった様で……」
 高柳君の脳中の冒頭は是で丸で打ち壊されて仕舞った。いっその事自白は此次にしようと云う気になる。然し何だか話して行きたい気がする。
「先生御忙がしいですか……」(『野分』第6章冒頭)

 文章は高柳君と道也を交互に描写しているに過ぎないように見えて、引用文における2ヶ所の「こっち」は、いずれも高柳君を指している。加えて①②③のように、読者に披歴済の高柳君の胸の内を、道也は知らないと繰り返し書かれる。叙述上は明らかに高柳君が主で道也が従である。
 3人称の小説で、セリフの中でなく、地の文として登場人物とあたかも一体化したように「こっち」と書かれるのは、『野分』では6例あって、その対象は4回までが高柳君、残りの2回が道也の細君である。それも含めて漱石の3人称小説における事例は以下のようになる。

《3人称小説において、漱石が地の文で主体的に「こっち」と記述する登場人物の一覧》
・『野分』・・・高柳君(2ヶ所だけ道也の細君)
・『虞美人草』・・・小野さん(1ヶ所だけ藤尾)
・『三四郎』・・・三四郎
・『それから』・・・代助
・『門』・・・宗助(1ヶ所だけ御米)
・『彼岸過迄』・・・敬太郎
・『道草』・・・健三
・『明暗』・・・津田・お延(1ヶ所だけ小林)

 この一覧表で明らかなように、『野分』の真の主人公は高柳周作であった。漱石の分身たる道也先生は、意外なことに漱石と肝心な所で一体化していなかった。どこかに決定的な断層が存在するのだろうか。

 漱石と真の主人公の高柳君の共通点は、

①貧書生。着る物も満足に揃えられない。
②昏い生立ち。子供の頃にトラウマになるような経験をする。
③孤独癖。容易に人に打ち解けない。
④初期の肺結核に罹る。

 が挙げられよう。もちろんこれらは表面的なものに過ぎない。一番重要なのは、自分の言論で世に立ち向かう決意を有っていることであるが、それは少なくとも書かれた範囲内では、意思表明だけにとどまっているようである。
 漱石の生まれに(高柳君みたいに)暗い影が差すというのは、間違いではないと思うが、反対意見もあるかも知れない。漱石がこの部分の描写に森田草平の生い立ちからインスパイアを得たという話はさておき、里子に出されることは身分のある家でもよく行なわれていたことであり、養子に出たり戻ったりも、当時としてはそのことだけを以ってとやかく言われる話でもあるまい。漱石の生い立ちは特に問題ないと、言えば言えるのである。養父母の強欲や実父の冷淡も、とくに漱石に限った話でもない。漱石が高名な小説家にならなければ、ごく普通のエリート学者と、世間一般には思われたことであろう。現実の漱石本人でさえ、彼の妻子が実際に蒙った被害に比べると、そこまでは1個人として貶められてはいない。夫として父親として、せいぜい(坊っちゃんのように)「神経に異状がある」(『坊っちゃん』第11章)程度でお茶を濁されている。

 ではもう1人の(主人公になりそこねた)主人公、ペン1本で世間に立ち向かうという意志を、実際に行動に移している白井道也はどうか。学問・道徳・人生に対する態度は多く漱石と一致するが、表面的な共通点だけ見ても、ただちにいくつも挙げられるだろう。

①偏屈文学者。
華族紳商嫌い。
③元教師。
④夫に現実的世俗的価値しか認めない細君を持つ。

 まさに漱石そのものであるが、漱石と根本的に異なるのは、道也が自分のみの決断で後先を考えずに教師を辞めてしまったことである。漱石は違う。このとき漱石はまだ教師を辞めていないが、朝日に入るときも慎重な年収比較が行なわれ、先々の生活に対する見通しを立てて鏡子の了解も取り付けている。(漱石は待遇については細部まで話し合った末入社したと思われがちであるが、入社してすぐの賞与を満額貰えるものと思っていた。当時まだ広くは浸透していなかった勤め人の賞与を、配当のように理解していたのだろう。これは間違いというわけでもない。社員という身分を株とか債券の類いと考えれば、入社と同時に配当の権利を有していても不思議はないわけである。)
 もう1つ異なるのは、道也先生の方は漱石のような癇癪持ちには描かれない。細君がそう疑うシーンはあるものの、道也は珍しく癇性であるとはされない。その代わり強情であると書かれる。

「あら、まだあんな事を言って入らっしゃる。あなたは余っ程強情ね」

「うん、おれは余っ程強情だよ」(『野分』第1章末尾)

 漱石も強情には違いないが、「癇性」は漱石の代名詞である。それを除けばあとは漱石と瓜二つである。乱暴で不器用に見えてその実丁寧な性格。演説のやや気取った駆け引きやセンスも漱石そのものである。

 漱石は中野君とも似ていないことはない。

①裕福。
②お洒落で口も奢っている。
③友人とへだてのない真摯な交際。
④小説を書いているが他の芸術についても深い理解を示す。

 漱石の生れた家は元はそこそこの名家であった。養家にも裕福と言えなくもない時期があった。実家は中途半端に時代に取り残され、復籍事件もあって本人は書生時代は常に金に困っていたが、卒業後はそれなりに高給を得ていたとは言える。1人残った兄(直矩)も相続したあと先祖伝来の家屋敷を売り払い、(菩提寺もあるので)近所に住み直した。

 以上の高柳君、道也先生、中野君の3名の役柄については、漱石自身の口からまとめて説明されているようである。
 荒正人のやたら詳しい『漱石研究年表』に、明治40年1月27日付『国民新聞』の「文芸消息」欄の記事として、こんな逸話が紹介されている。

 三上参次博士が漱石の面前で、「夏目君の傍に寄ると書かれるぞ」と云うと、漱石は答えて、「何大抵は僕自身で間に合わせるよ。『野分』の人物も僕を三分したものと思えば可かろう」と返している。(荒正人著小田切英雄監修/昭和59年集英社版『増補改訂漱石研究年表』/明治四十年の項より)

 もちろんこの謂いは漱石の洒落には違いなかろうが、高柳君と道也先生のダブル主人公に見えた『野分』は、中野君も加えた三つ巴となった。ところがもう1人、これは前述の「こっち」の件がなければ見過ごされるところであったが、主人公として(控え目ながら)名乗りを上げた人物がいた。それは御政という道也の細君である。

漱石「最後の挨拶」野分篇 8

343.『野分』のカレンダー(3)――式場益平と会津八一は高柳君の同級生


 ここで高柳君の年表をもう1度(簡略化して)掲げる。

〇高柳君
明治14年 新潟県生れ(1歳)
明治28年 長岡中学入学(15歳)
明治33年 長岡中学卒業 上京、一高入学へ(20歳)
明治36年 帝大入学(23歳)
明治39年7月 帝大卒業(26歳)
明治39年10月~12月 『野分』物語の今現在を生きる

 先の項で紹介した式場益平の年表は次のようになる。なお式場益平の経歴は概ね、生前の歌集『摩星樓歌帖抄』(大正13年刊)及び生誕100年、没後50年を記念して遺族がまとめた私家集『剪燈残筆』(昭和56年刊)による。

〇式場益平
明治15年3月 新潟県五泉生れ(1歳)
明治30年4月 新潟中学入学(16歳)
明治35年3月 新潟中学卒業 上京、二松学舎入学へ(21歳)
明治39年7月 二松学舎卒業(25歳)
明治40年1月 『野分』を読んで漱石に手紙を書き、返事を貰う(26歳)
明治40年4月 郷里へ帰り生家の精米業を継ぐ(会津八一とは交流を続ける)
明治45年7月 結婚(31歳)
大正13年8月 『摩星楼歌帖抄』出版(会津八一の奨めによる)
大正15年10月 大阪女子師範学校教授(単身赴任)
昭和7年3月 同校辞職
昭和8年4月 肺結核にて死去(52歳)
昭和56年8月 遺歌集『剪燈残筆』出版

 式場益平は早生れだが高柳君と同級になる。中学入学は遅れたようである。家業(精米業)を継ぐべく高等小学校へ進んだのか(太宰治みたいに)。当時国民の大多数を占める農民や商人の子は中学へ進学しなかった。あるいは単に身体が弱かったせいか(太宰治が虚飾の理由付けに択んだように)。
 もう1人、高柳君の同級生として、式場益平とは旧知の盟友にあたる会津八一(明治14年生れ)の例を引いてみる。

会津八一
明治14年8月 新潟県新潟市生まれ(1歳)
明治28年4月 新潟中学入学(15歳)
明治33年3月 新潟中学卒業(20歳) 上京、兄の下宿へ同居
明治33年6月 子規を訪ねる
明治33年7月 脚気を病み帰郷
        この頃、子規へ『僧良寛歌集』を贈る
明治35年 再上京、東京高等専門学校入学へ(22歳)
明治35年9月 子規没
明治39年7月 早稲田大学英文科卒業(26歳)
明治39年9月 有恒学舎(新潟)英語教師
明治42年3月 漱石に手紙を出す
明治43年9月 早稲田中学英語教師
大正13年12月 処女歌集『南京新唱』出版(式場益平に出版を勧めたついでに自分も)
大正14年4月 早稲田高等学院教授
大正15年4月 早稲田大学文学部講師(兼任)
昭和6年2月 早稲田大学文学部教授
昭和8年4月 式場益平没
昭和20年4月 戦災、早稲田大学教授を辞任(65歳)
昭和21年6月 夕刊ニイガタ社長
昭和22年4月 随筆『麻青居士』(夕刊ニイガタ)
昭和31年11月 冠状動脈硬化症のため死去(76歳)(年齢はすべて数え)

 同級たるべき会津八一は新潟中学では式場益平の2級上になった。新潟中学卒業後は上京して正岡子規を訪ねたりしていたが、脚気に罹って郷里に帰り、新聞社の俳句選者として句作に専念していた。子規が亡くなる少し前に、当時まだ中央に知られていなかった良寛の歌集を贈っている。子規や間接的に漱石に、良寛を紹介したのは会津八一の功績と言える。その後同じ明治35年に、会津八一と式場益平は進学のため上京した。
 しかし論者は無理に(新潟つながりで)式場益平と会津八一を持って来たわけでもない。高柳君の同級生にあたる文人を日本中から探そうとしても、特に見つからないでのである。
 多少なりとも名の知れた文人で、式場益平と同じ明治15年の早生れは、画家の坂本繁二郎(久留米)だけと言っていい。いっぽう会津八一と同じ明治14年生れは、小山内薫(広島)と岩波茂雄(諏訪)くらい。岩波茂雄文人ではないかも知れないが、別に漱石と所縁があるとかに関係なく、本当にもう誰もいないのである。森田草平は明治14年だが早生れなので、級は1つ上である。(森田草平の場合もことさらに漱石門下だから挙げているわけではない。)

 その会津八一の戦後(昭和22年)の随筆に『麻青居士』というのがある。会津八一は早稲田で教師としてのキャリアをスタートさせたが、大正期式場益平は郷里で独自の活動を続けていた。

 ・・・少し気持の嶮しく狭いところがあって、自らいやしくもしない代りに、みだりに人にも許さない方の性分であったから、いつも孤高独行で味方が少なかったのだろう。それだけ私には厚かった。
 こんな風の人であったから、一面には相当に高い見識と意気込を持って居り、随分思い切ったことを、したり云ったりしたものらしい。ある時私に云ったところでは、どこかの地方新聞に、夏目漱石の批判をしたものを漱石へ送ってやったら、あちらからかなり長い手紙で、言い訳を云って来たというし、またある時は、もちろん面識もない齋藤茂吉のところへ手紙をやって、どうも子規や節や左千夫などの居なくなった後のアララギ派の歌は、安っぽくなって、見劣りがしていけないということを云ってやったら、齋藤氏からの返事に、只今のところは御もっともでもあろうが、藉(か)すに数年を以ってすれば、我々の精進によって、必ず天下を縦断して御目にかけるというようなことを云って来たという。
 しかしこれは私にその手紙なり返事なりを見せたのではなく、二人きりのところでの、ただの話であるから、実際のところ、どんな程度のやりとりがあったのか、にわかにはそれを取り立てて何ともいえぬが、その間に何かあったにはあったのであろうから、相手が今日の齋藤氏でないにしても、式場君も相当なものだといえる。(『麻青居士』昭和57年中央公論社会津八一全集第7巻)

 地方新聞に漱石のことを書いたというからには、明治40年に式場益平が新潟に引揚げて、家業の傍ら俳句の雑誌を立ち上げたり、和歌を詠むようになって、新潟新聞に作品を発表するようにもなった大正の初めにかけてのことであろうか。漱石の作品としては『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作の頃であろうか。例えば新潟新聞に(匿名や無署名でなく)批評を書いたものを漱石に送り、漱石は新聞社宛に返事を出す。武者小路実篤の書生っぽい「それから論」に丁寧に返信していることを思えば、あり得ない話ではない。式場益平は新聞社経由でそれを読むが、手紙の現物は新聞社に置かれたまま、その後繰り返された経営者や社名の変更騒ぎに紛れて失われた。
 明治40年の漱石の1枚の葉書は70年の風雪を耐え抜いて読者の前に曝された。新潟市は空襲に遭っていない(長岡市は焼かれたが)。もし漱石の「かなり長い手紙」が式場益平の手許で保管されていたなら、それだけが消失したとは考えにくい。

 斎藤茂吉の式場麻青宛書簡というのも(全集を見る限りでは)現存していないようである。真面目でひたむきな式場益平が法螺を吹くとも思えないが、相手が会津八一であったがゆえの mystification であれば、この「逸話」の責任ないし手柄は、半分会津八一のものであろう。

 ところで漱石の日記に1ヶ所会津八一の名が出現する。それは明治42年3月20日(土曜)の「来信」欄に、

会津八一(越後針村)短冊所望」

 とあるものである。(漱石全集第20巻「日記断片下」)
 漱石会津八一は、子規や早稲田の糸で細く繋がっていると言えなくもないが、こんなところに名前が出て来るとは。これもまたホトトギスの勢力の証しであろうか。