明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 28

195.『帰ってから』1日1回(6)――長野家の秋


第5章 長野家の秋(11月)
    二郎・一郎・お直・母・お重・三沢

第20回 兄と自分Ⅰ 二郎は結婚前の直を知っていた~母もすすめる二郎の独立問題「二郎、学者ってものは皆なあんな偏屈なものかね」
第21回 兄と自分Ⅱ 一郎は父の軽薄に憤る~女景清の女に対する父の不誠実さをなじる~二郎に対しても、直の報告をとぼけていると言って責める
第22回 兄と自分Ⅲ 二郎は直について特に問題になるようなことはないと断言する~一郎の怒り「此馬鹿野郎」「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後、何で貴様の報告なんか宛にするものか」
第23回 家を出るⅠ 早く家を出たい~三沢に相談「君がお直さん抔の傍に長く喰付いているから悪いんだ」
第24回 家を出るⅡ 下宿探し~お重との仲直り~母の言葉「二郎たとい、お前が家を出たってね」
第25回 家を出るⅢ 父に報告~嫂の言葉「其方が面倒でなくて好いでしょう…そうして早く奥さんをお貰いなさい…早い方が好いわよ貴方。妾探して上げましょうか」
第26回 兄と自分Ⅳ 兄に報告「出るなら出るさ。お前ももう一人前の人間だから」~二郎は就職していた~「然し己がお前を出したように皆なから思われては迷惑だよ」
第27回 兄と自分Ⅴ「一人出るのかい」~二郎は混乱する~兄の始めての笑い~兄もまたヒステリィか~パオロとフランチェスカの恋
第28回 兄と自分Ⅵ「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとする積か」~兄の精神は異常を来たしているようだ「何で貴様の報告なんか」「二郎たとい、お前が家を出たってね」

 女景清の父の講釈同様、和歌山における兄と母の二郎への宿題も、尻切れトンボに終わったようである。兄は突然ブチ切れて、もう二郎の報告なんか聞きたくないと言うし、母の相談というのは単に家を出て独立することだったのか。しかし母も言う通り、二郎が家を出たからといって、何も解決するわけではない。そもそも母は問題を解決すべく何事かを提案できる人間ではない。

「妾探して上げましょうか」
 嫂は二郎が家を出ることを母から聞いていた。「二郎さん、あなた下宿なさるんですってね。宅が厭なの」嫂が二郎にかけた言葉は、嫂の親しみとも取れるが、皮肉とも取れる。坊っちゃんも(漱石も)女の皮肉屋は嫌いである。しかし読者はここへ来て何となく気付く。女景清とはお直のことだったかと。

「一人出るのかい」
 家を出るに当たって、二郎が兄に言われた「一人出るのかい」というセリフは、漱石の恐ろしい想像力を天下に示すものであろう。よくこのような言葉を思いつき、なおかつ書いてしまえるものだと感慨に堪えない。もちろん書きっ放しではない。後段でお直が二郎の高等下宿を訪れて言った懼るべき言葉(女は人の手で植付けられた鉢植のようなもので、誰か来て動かしてくれないと一生動けない)に直接繋がる。
 漱石は「一人出るのかい」というセリフを、「お直を連れて一緒に出るのかい」という二重の意味を込めて使っている。それをそのまま書かないための百回に及ぶ連載である。二郎は当然兄の精神状態を疑わざるを得ない。これが漱石の小説世界で最低限保たれるべき倫理観であるからには。

 前述したが、この一見実りのないような、出口が見えない議論が、『心』『道草』という特異な作品を間に介して、『明暗』の主人公たちの、どこまでも続く意見交換(対決)につながるのである。『明暗』の延々と続く議論の源泉は、『行人』にあったのである。

第6章 二郎の独立(11月~12月)
    二郎・母・父・三沢・B先生・(一郎・お直)

第29回 家を出るⅣ 嫂の淋しい笑い「もう御出掛。では御機嫌よう。又ちょくちょく遊びに入らっしゃい」~二郎は有楽町の設計事務所に勤めていた
第30回 家を出るⅤ 下宿した二郎は孤独のせいか神経過敏に~久しぶりに三沢を訪ねる~一郎の講義が少しヘンだったという学校の噂~思い当たった二郎は恐怖する
第31回 家を出るⅥ 出帰りの娘さんの三回忌の話「何故そんなら始めから僕に遣ろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当にして」「一体君は貰いたいと申し込んだ事でもあるのか」「ないさ」~精神病で繋がる娘さんと三沢、そして兄
第32回 家を出るⅦ お重の結婚相手に三沢の名前が~兄の神経は大分落ち着いて来たらしい~しかし風邪を引いて妙な譫言を言った~母の話「神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になる」

 気持ちの良い季節(10月)は『行人』には似合わないとばかり、秋は9月から11月へ飛んでしまう。庭のアオギリ丸坊主になった頃二郎は実家を出るが、漱石は寒がりだったから、11月の後半は漱石の中ではすでに冬なのであろう。『明暗』でも紅葉と外套・襟巻・ストーブは同時期に描かれる。

 就職口を求める敬太郎と高等遊民予備軍の市蔵。同じモチーフを繰り返したくない漱石は、二郎と三沢の「同じ」関係に少し手を加えて、2人の専攻を理系にしたようである。二郎の事務所が設計事務所らしいことは後に明かされるが、すると事務所のオーナーB氏が学生を1人欲しがったとして、その話を(甥の)H教授に持って行くということは、(いくら血族とはいえ)H教授が建築科の教授(または講師)であったとしか考えられない。専門分野の学生を、担当教授を蚊帳の外に置いて獲得するということはあり得ないからである。H教授はたまたま自分が保証人になっていて遊んでいる三沢という卒業生を推薦した。それはいいが、文科の教授(としか思えない)一郎は建築科のH教授と同僚の付き合いをして、一緒に旅行をしたということになる。漱石と米山保三郎のかつての交友のオマージュにはなろうが、不自然であることに変わりはない。漱石もそれは気になったのであろう、オーナーB氏のことを「B先生」と書いて、なるべく大学のイメジに近づけようとはしている。

 二郎は三沢を介して勤め始めたが、それも(新しい下宿同様)、結局仮の姿のようである。自分の仕事は二の次で、三沢の話と兄の話の方が大事である。三沢の話の先には自分の結婚話があるようでもあり、兄の話の先には当然嫂の存在がある。
 その三沢の話(女の話)については、やはり項を改めなければならないだろう。

漱石「最後の挨拶」行人篇 27

194.『帰ってから』1日1回(5)――女景清「ごめんよ」事件


 ここで一部重複するが、前著(『明暗』に向かって)で女景清についてまとめた項を再録したい。女景清のベーシックな問題点が整理されると思う。

41.女景清「ごめんよ」事件

 『明暗』はユニークな小説ではあるが、漱石の作品群の中で単独に聳え立っているわけではない。その中で作品の構造として『明暗』に似ている漱石の小説は、『猫』『虞美人草』『行人』の3作品であろう。
 『明暗』は漱石の集大成ともいえる作品であるが、『猫』にもまた処女作にその作家の全てがあるという意味で漱石の全てがある。ボリュウムもほぼ等しい。ちょっと見には片方は筋もなく思いつくままに書き流したような体裁を取り、もう片方は緻密な設計図に基づいて丹念に構築されたという印象を与える。まるで正反対のようにも見える両者は、その制作の思想という観点から見ると案外似ている。『猫』も『明暗』も作者の「私」を去って天の命ずるままに物語が進んでいるからである。(十箇年の作家生活を経て)漱石の中にひとつの新しい思想が醸成されて、それが『明暗』に結実したとする意見はあまりにも便宜的で、そんな(他人にとって)都合のよい話がある筈がない。40歳と50歳で漱石が別人になるわけでもない。
 『虞美人草』は会話で成り立っている複数主人公の通俗小説という面で、『明暗』のさきがけとなっている。『虞美人草』は漱石の気持ちの中では失敗作という位置付けであろうし、漱石がその後『虞美人草』をじっくり読み直したふうにも見えないが、『虞美人草』を9年後の熟練した筆遣いでリライトしたものが『明暗』であるとする見方も、あながち的外れとは言いがたい。藤尾の悲劇をお延に重ねる読者もまた多いのである。(こちらは少し外れていると思うが。)
 小説としての結構が細部まで似通っているのは『行人』であろう。前述したように『行人』は分かりにくい作品であるが、「友達」「兄」「帰ってから」と中断後の「塵労」はまず別の小説と考えた方がいい。半年の中断というのは漱石のキャリアからすると、とても同じ小説の続きを書き出せるとは思えないからである。その「塵労」が切り離された感じで独立していることさえ、津田の道行きがそれまでの『明暗』の進行から浮いた感じを与えるのと共通している。『行人』で一つ一つ提出された疑問、公案のようなものが『明暗』ですべて解答を与えられている。そこまで行かなくても、『明暗』でさらに問い直されている。
 ここで何度目かに取り上げる女景清のエピソードは、『行人』の「帰ってから」13回から19回までの7回に渡って二郎の父による、本筋とは直接関係はない、いわば「外伝」の一つである。(『明暗』の登場人物の口論バトルも、ある意味では物語の本筋と直接関係しないことの多い「外伝」の集積のようなものである。そのために話が異様に長くなったのである。)

 男は20歳、高等学校に入った頃。まず漱石本人と見て差し支えない。坊っちゃんであるという。女は同い年、同じ家の召使いのような立場。「其男と其女の関係は、夏の夜の夢のように果敢ないものであった。然し契りを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。」(『行人/帰ってから』14回)というのが事件の発端。次に男がすぐ後悔して正直にもまともに破約を申し込む。女は黙って去って、それから20何年間何事もなく打ち過ぎた。これが男の「ごめんよ事件」とされる。男女とも生きていれば40代。『行人』の頃の漱石は47歳(長女筆子15歳)であったから、まあ彼らも45歳くらいか。男の方の長子も12、3歳とある。
 男は女を去るとき「僕は少し学問する積だから三十五六にならなければ妻帯しない」と「余計な事を其女に饒舌っている」(同15回)が、大学を出るとすぐ結婚している。(といってもこの場合は30歳くらいか。)それはいいとして、2人はその20何年後有楽座(邦楽名人会)で偶然再会する。女は気の毒にも盲目になっていた。それから男はその女の所在をつきとめ、「二郎の父」を通して、その女に金品を贈ろうとして拒絶されるという小喜劇が、この「女景清」の概要である。
 女は当時から男に対し何の含むところも持たない。家を出るとすぐに嫁ぎ、夫には先立たれたが(20何年経っているわけだから)子供も2人立派に成人しているようである。男の現在ある地位を確認したあと、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったで御座いましょうね」と父に聞く。

「ええ最う子供が四人(よつたり)あります」
「一番お上のは幾何にお成りで」
「左様さもう十二三にも成りましょうか。可愛らしい女の子ですよ」
 女は黙ったなり頻りに指を折って何か勘定し始めた。其指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しが付かないと思った。
 女は少後間を置いて、ただ「結構で御座います」と一口云って後は淋しく笑った。然し其笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。(『行人/帰ってから』17回)

 20歳のとき35、6まで結婚しないと宣言した男が、それから「20何年」経って今12、3の子を持つ。ちょっと早いといっても、たかだか3、4年かせいぜい5、6年である。指を折らなくても、自分の子(成人)と12、3の子の年差を考えただけでも、男が10年ほどは頑張っていたことが分かる。取り返しがつかないほどの大失態ではなかろう。(だいたい指を折るという仕草自体、折った指を見ることが出来ない以上、健常者の発想であろう。と言えば漱石に対し酷に過ぎようが。)しかしたとえ15年と言った男が、10年で結婚したとしても、ふつうの女が、まして自分はすでに家庭に収まった女が、そこまで男の言った事にこだわるだろうか。こだわるとすれば、嘘を吐くことの出来ない漱石の方であろう。それとも女が結構だと言ったのは、大きく違約しないのは感心であるという意味なのか。すると父がこんなに困惑する理由が不明である。二郎の父もまた漱石のように、数年の齟齬に人生の基盤をゆすぶられる思いがしたのであろうか。
 それならばもっと気にするべきなのは、もうひとつの女の質問、あのとき男が女に破約を申し入れたのは、(単に若すぎたゆえの「ごめん」だったのではなく、)女の中に何か嫌気がさすような欠陥(癖・仕草・物言い)を発見したのではないかという、むしろこの方が、何10年たっても消えることのない切実な疑問であろうから、これに対しては本人に探索を入れるべく、もう一度出直して後日改めて返答する、というのが筋ではなかったか。ところが父は、本人の心の内は20何年前のことでもよく承知しているとばかり、適当にごまかしつけて、何とか女を納得させたと自慢気に言って、あとで一郎を憤慨させている。そして父の軽薄さを引き継いでいる者として、そのとばっちりが二郎にまで来たことを思えば、この女景清の話の後半の真意は、父の人間性への攻撃であったろうか。男(漱石自身)の不始末の尻が、身内の年長者(父・叔父等)へ持って行かれたわけである。

〈 女景清「ごめんよ」事件 引用畢 〉

漱石「最後の挨拶」行人篇 26

193.『帰ってから』1日1回(4)――女景清と和歌山の夜


 もうひとつ、こんなところに女景清の逸話が長々と挿入された理由についてだが、この逸話の前半部分「夏の夜の夢のような儚い関係」が、1ヶ月前の和歌山での二郎とお直の、「一夜の夢」と対になっていることは、論者には疑いようがないと思われる。
 同居する同年くらいの男女。男が坊っちゃんであること、女が積極的であったらしいことも共通している。2人の関係はどんな形にせよ生き通せるはずもなく、男が生涯女の後塵を拝することになるのも、(彼らが別々に生きたとしても)そうなることは、また目に見えている。
 短気だが呑気なところもある二郎は気が付かなかったのだろうか。たしかに二郎はそんなことに思いが寄るにはあまりに善良な男ではある。一郎はどうか。一郎は鋭敏な頭脳と性格の持主であるが、世間の綾は解しない。こういう際どい人間関係の機微は分からない。(だから一緒に泊まって貞操を試せなどと言う。あるいはいったん関係が付くと男は離れ女は云々と言う)お直だけが察知したのだろうか。お直に意見があるなら、母もまたお直と同程度には意見を持つだろう。母がこの会に顔を出さなかったわけである。もしかしたら坊っちゃんは母(綱)の縁者だったのかも知れない。

 その和歌山一泊事件について、二郎とお直の最後の記述は、原稿(初出)ではこうなっている。

「あなた昂奮昂奮って、よく仰しゃるけれども妾ゃ貴方よりいくら落付いてるか解りゃしないわ。何時でも覚悟が出来てるんですもの」
 自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島を暗い灯影で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々と出る煙ばかりを眺めていた。自分は其間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺った。嫂の姿は死んだ様に静であった。或は既に寝付いたのではないかとも思われた。すると突然仰向けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「貴方其処で何をして居らっしゃるの」
「煙草を呑んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
 自分は蚊帳の裾を捲くって、自分の床の中に這入った。自分は夫から殆ど一言も嫂と言葉を交えなかった。然し自分は寝なかった。腹の中には嫂に聞かなければならない事がまだ沢山ある様に思われた。嫂も眠らなかったらしい。けれども其腹の中は自分に能く解らなかった。

     三十九

 翌日は昨日と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂に向って云った。
「本当ね」と彼女も答えた。
 二人は能く寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがした程、空は蒼く染められていた。(『兄』38回末尾~39回冒頭)

 この引用部分の、ボールドで示した部分が、初版では削除されている。例の新聞切り抜きである。煩雑を厭わずにその「完成形」を次に示す。ボールド以外の部分は両者に違いはない。

「あなた昂奮昂奮って、よく仰しゃるけれども妾ゃ貴方よりいくら落付いてるか解りゃしないわ。何時でも覚悟が出来てるんですもの」
 自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島を暗い灯影で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々と出る煙ばかりを眺めていた。自分は其間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺った。嫂の姿は死んだ様に静であった。或は既に寝付いたのではないかとも思われた。すると突然仰向けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「貴方其処で何をして居らっしゃるの」
「煙草を呑んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
 自分は蚊帳の裾を捲くって、自分の床の中に這入った。

     三十九

 翌日は昨日と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂に向って云った。
「本当ね」と彼女も答えた。
 二人は能く寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがした程、空は蒼く染められていた。
 自分は朝飯の膳に向いながら、廂を洩れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心付いた。従って向い合っている嫂の姿が昨夕の嫂とは全く異なるような心持もした。今朝見ると彼女の眼に何処といって浪漫的な光は射していなかった。ただ寝の足りない瞼が急に爽かな光に照らされて、それに抵抗するのが如何にも慵いと云ったような一種の倦怠るさが見えた。頬の蒼白いのも常に変らなかった。(昭和50年版漱石全集第5巻『行人/兄』38回末尾~39回冒頭)

 女景清の「夏の夜の夢」に影響されて、漱石はこの散文的な2、3行を抹消したのだろうか。慥かにその方が文学的ではある。しかし決して余分な記述ではない。むしろ余韻を残されては都合の悪い箇所ではなかったか。思わせぶりや無用の誤解を生むことは、漱石の最も忌避するところである。おまけにこの削除によって、「二人は能く寝なかった」という、視点が二郎を離れてしまった書き方が、いっそう気になってくる。お直もまた寝られなかったであろうことは、お直の人となりから充分理解されるし、少なくとも睡眠不足に関していえば、「寝の足りない瞼」で充分であろう。
 もちろん漱石の修正を否定することは何人も出来ない。しかしそれを活かすなら、ここでは取り敢えず「二人は」の部分を改訂する必要があるのではないか。

誤 二人は能く寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。

正 自分は能く寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。

 すると次の文の「自分は朝飯の膳に向いながら」の「自分は」が続くことが気になるし、「寝の足りない瞼」の前に一言、嫂もまた眠れなかったことにも触れておきたくなる。つまり前後の文章全体の問題にまで発展してしまう。
 分かりにくいようであれば、もう一度、「二人は能く寝なかったから」の部分を、「自分と嫂は能く寝なかったから」に置き換えて、38回末尾から39回冒頭の部分を読み直していただきたい。(「嫂も眠らなかったらしい」という記述が削除されている以上、)これでは文章が繋がらないことがお分かりになると思う。

 ファンゴッホは絵の具を直接カンヴァスに絞り出したような画を描いたが、塗り直しやタッチの修正を(確信的に)一切行わなかった。それによって作品が良くならないことを識っていたからである。漱石のような、脳味噌をチューブから直接原稿用紙に絞り出すようにして書くタイプの作家は、1ヶ所の手直しが色んな箇所に影響して、結局直さなければよかったというふうになりかねない。直すくらいなら別なものを最初から書いた方がいい。志賀直哉は『暗夜行路』の結びでとんでもない主格の変更をやってのけたが、生涯修正の必要を認めなかった。(これは小説の最後で主人公の名前を間違えたに等しいが、志賀直哉は逃避するのではなくて、誠意を以って突っ撥ねたのである。)

 漱石もまた「修正派」の作家ではなかった。「新聞切り抜き」は漱石の病気のなせるわざであったろう。それだけ新聞紙面の誤字誤植が気になったのだろうが、編集者が最初期にきちんと対応しておけば、こんなことにはならなかったと思われる。漱石の選んだ(専門の編集者のいない)新聞小説には、いいところも悪いところもあったのである。

漱石「最後の挨拶」行人篇 25

192.『帰ってから』1日1回(3)――女景清の秘密(つづき)


 女は二十年以上〇〇の胸の底に隠れている此秘密を掘り出し度って堪らなかったのである。彼女には天下の人が悉く持っている二つの眼を失って、殆ど他から片輪扱いにされるよりも、一旦契った人の心を確実に手に握っている方が、遥かに幸福なのであった。(『帰ってから』18回再掲)

 前項でも引用した部分であるが、この下線部の記述は、例の新聞切り抜きによる校正で、

 一旦契った人の心を確実に手に握れない方が遥かに苦痛なのであった。(昭和50年版漱石全集第5巻『行人/帰ってから』18回)

 と書き直されている。確かに文法的には修正した方が無難であろう。ネガティブな事象同士を比較するという理屈からも、直して当然という見方もあるかも知れない。しかし原稿版(定本版)のような書き方はいかにも漱石らしい書き方で、従来の漱石ならそのままにしておく箇所であったろう。
 同じ修正でも、この女景清のエピソードの主役たる知り合いの坊っちゃんについて、

 自分は家へ出入る人の数々に就いて、大抵は名前も顔も覚えていたが、此逸話を有った男丈はいくら考えても何な想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今表向多分此人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。(『帰ってから』13回)

 の末尾の部分は、引用に使用している漱石全集(1994年7月初版)・定本漱石全集(2017年7月初版)では、「交際しているのではなかろうと疑ぐった」となっており、漱石の文意は「交際していない」であるから、これは原稿の書き間違いかとも思われるが、切り抜き版で修正されているふうにも見えないので、これは編集者が直して漱石の諒解を得たのであろう。ここでは引用本文の方を(勝手に)直しておいた。

 しかし該当部分を「交際しているのでは無いだろう」と、「無い」を強調した読み方をすれば、漱石の中ではこれは直す必要のない文章ということになる。まあ普通に読めば誤読されてしまうから、「なかろうと疑った」の方が無難であるが、原稿が見つかっていない以上、「なかろうと疑った」という本文にするのであれば、一言注釈を追加すべきであるとは思う。

 さて女景清事件の本題に戻って、『三四郎』以来検証を続けて来たカレンダーの問題が、ここにも存在しているようである。
 今から25、6年前のことで、当時20歳前後であったという設定であるから、この男女は現在互いに45、6歳である。これは議論の余地がない。男の長女は12、3歳という。
 であれば、45、6歳マイナス12、3歳で、答は33歳であるから、これが数え年の便利なところで、男は(普通に考えると)33歳で結婚している。34歳で赤ん坊が生まれた(1歳)ことになる。

 ・・・彼が又昔彼女(かのおんな)と別れる時余計な事を其女に饒舌っているんです。僕は少し学問する積だから三十五六にならなければ妻帯しない。で已むを得ず此間の約束は取消にして貰うんだってね。所が奴学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持は能くないのだろう。・・・(『帰ってから』15回)

 35、6歳で結婚すると、36,7歳で子供が生まれる。34歳で子を設けた坊っちゃんと、2、3年の差である。まず許容範囲ではないか。

 『行人』の物語の暦が明治44年夏~秋として、このとき漱石は45歳、筆13歳。年次だけはまさに漱石と一致する。漱石は29歳で(大学院を)卒業、松山に行き、その年の内に鏡子と見合い、婚約。翌年30歳で20歳の鏡子と結婚している。最初の子を流産したので、33歳で筆(1歳)を設けた。結婚自体は5、6年サバを読んだかも知れないが、父は坊っちゃんの子女の年齢しか喋っていないのだから、取り返しのつかない話にはなりようがない。
 女は指折り数えて、「結構でございます」と言っただけである。本当に諒解したのではないか。女の子供はもう立派に成人しているのである。であれば男の長子(12、3歳)と自分の子の年差10年かそれくらいを考えて、とくに問題なしとしたのではないだろうか。
 そして積年の課題たる「何か嫌なこと」の質問となったのは、前項でも述べた。その結論は基本的には前項の通りであるが、漱石自身もちゃんと小説の中に答えを書いている。

「始は満足しかねた様子だった。勿論此方の云う事がそら夫程根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻お前達に話した通り男の方は丸で坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目な挨拶はとても出来ないのさ。けれども其奴が一旦女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、何うも事実に違なかろうよ」

「そりゃ学理から云えば色々解釈が付くかも知れないけれども、まあ何だね、実際は其女が厭になったに相違ないとした所で、当人面喰らったんだね、まず第一に。其上小胆で無分別で正直と来ているから、それ程厭でなくっても断りかねないのさ」(以上『帰ってから』19回)

 父はしゃあしゃあとしてこう言い放った。松山中学の数学教師として赴任した「坊っちゃん」が、山嵐の誘いに乗らずに現地で棲み暮らしたとして、いずれ何かの折に、自分の将来を見渡すような状況に直面したとき、周囲の誰かからこのように言われるのは、火を見るよりも明らかである。「小胆で無分別で正直」とはよく言ったものである。「坊っちゃん」を評するにこれ以上適切な表現があるだろうか。

 まあそれは余談として、父の説くところを煎じ詰めれば、「女と関係をつけたら、まず第一に面喰らった」のがすべての本であるということである。これは相手の女にはもちろん、ふつうには伝わりようもない意見であろうが、ある真実を穿っていると言えなくもない。少なくとも漱石の中ではそうだったのだろう。
 面喰らった・びっくりした。ほかに言いようがある気もするが、「驚くうちは楽しみがある」と甲野さんは言い、いざ結婚したとなると、「嬉しいところなんか始めからないんですから」と津田は言う。そのスタート地点に、「驚いた」坊っちゃんがいたわけである。

漱石「最後の挨拶」行人篇 24

191.『帰ってから』1日1回(2)――女景清の秘密


第3章 長野家の人々とお貞さんの結婚問題(9月)
    二郎・一郎・直・芳江・父・母・お重・お貞さん

第5回 ある夕餉Ⅰ 秋になると一郎も二郎も生き返った気がする~しかし兄は相変わらず憂鬱「己の綾成す事の出来ないのは子供ばかりじゃないよ」
第6回 ある夕餉Ⅱ「結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ」~お貞さんの涙~「二郎、此間の問題もそれぎりになっていたね」
第7回 ある夕餉Ⅲ 純情なお貞さん~兄の鬱屈~お重の苛立ち「兄さん、其プッジングを妾に頂戴。ね、好いでしょう」
第8回 お重の短気Ⅰ 佐野とお貞さんの結婚問題~二郎とお重の諍い~お重の涙「御前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」「当前ですわ。大兄さんの妹ですもの」
第9回 お重の短気Ⅱ 二郎とお重の大喧嘩「嫂さんはいくら貴方が贔屓にしたって、もともと他人じゃありませんか」~すべての問題が結婚につながる
第10回 お重の短気Ⅲ「お重さん是お貞さんのよ。好いでしょう。あなたも早く佐野さん見た様な方の所へ入らっしゃいよ」~父は翌日お重を連れて三越へ出掛けた

 長野家で若い人間といえば、お直・二郎・お重・お貞さんの4人。既婚者はお直だけである。ここでお貞さんが結婚へ向けての準備が進んでいる。愛すべきお重のヒステリィを引き受けるのが二郎である。しかし二郎とお重の(仲の好い兄妹の)諍いの根源にはお直の存在がある。一郎とお直の問題、母から見たお直と二郎の問題は、(小説の上では)しばらくペンディングである。しかしこの家族に問題があるとすれば、その一番の責任者は(戸主の)一郎であろう。漱石はそうは思わないだろうが。

 ところで一郎とお直の夫婦の口数の少ない対立、二郎とお重のあけすけな兄妹の対立は、後の『明暗』にそのまま引き継がれた。津田とお延の対決は、津田が(一郎に比べて)漱石度合いのやや低い俗物に設定されているせいもあってか、際限のないおしゃべりとして復活した。津田とお秀の対決は、お重が結婚しても何の解決にもならないことを、お秀が身を以て証明している。
 そして夫婦とは何かという問題についても、『行人』以前には『門』でしか扱われなかった材料であるが、『行人』(一郎とお直)の後は、『心』(先生と奥さん)、『道草』(健三と御住)、『明暗』(津田とお延)まで、途切れることなく継続された。『明暗』の次の「幻の最終作品」は、初恋の成就あるいは非成就の物語であると推測されるが、所謂夫婦者の登場する小説にはなりようがない。したがってこの系統の小説としては、『三四郎』『それから』『彼岸過迄』に続くものとなるだろうか。しかしどちらにしても、恋愛とは・結婚とは・夫婦とは、というテーマを扱っていること自体に変わりはない。漱石の総ての小説が同じテーマを目指しているのである。

第4章 講釈好きの父が語る女景清事件(9月)
    二郎・一郎・直・父・母・お重・謡仲間の客・(坊っちゃん・召使)

第11回 謡仲間Ⅰ 父の謡の仲間、年配の来客2人~お重は鼓を休んでなぜか逃げる
第12回 謡仲間Ⅱ 謡の演題は「景清」~演者は3人、聴き手も兄・嫂・二郎の3人
第13回 女景清Ⅰ 発端は今から25、6年前~20歳位の高等学校入りたての坊っちゃん~その家の同い年の召使との夏の夜の夢のような儚い情事~女の方が積極的だった
第14回 女景清Ⅱ 坊っちゃんは結婚を約束~冷静な女は半信半疑~大学を出る頃にはお互い25、6歳になる~男は1週間で後悔~破約を申し込み「ごめんよ」~宿を下がった女とはそれぎりに
第15回 女景清Ⅲ ところが20何年か後有楽座の邦楽会で隣り合わせに~女は盲目になっていた~気になった男は手を廻して女の住まいを突き止める
第16回 女景清Ⅳ 女の宅への訪問は父が代行~男が土産に包んだ百円紙幣を女は受け取らない「夫の位牌に対して済まないから御返しする」
第17回 女景清Ⅴ 女は子供が2人立派に成人しているもよう~男の経歴を知りたがる「一番上のは幾何にお成りで」「左様さもう十二三にも成りましょうか」
第18回 女景清Ⅵ 女の唯一の希み~男が結婚の約束を取り消したのは、周囲の事情の圧迫以外に何か理由があったか、自分に起因する何か嫌なことがあったのか、そこが知りたい
第19回 女景清Ⅶ 父は返答できないが何とかごまかした~驚く一郎「女はそんな事で満足したんですか」

「・・・けれども此眼は潰れても左程苦しいとは存じません。ただ①両方の眼が満足に開いて居る癖に、他(ひと)の料簡方が解らないのが一番苦しゅう御座います」

 自分は此の時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩らしているような嫂の唇との対照を比較して、突然②彼らの間にこの間から蟠まっている妙な関係に気が付いた

 女は二十年以上〇〇坊っちゃんを指す)の胸の底に隠れている此秘密を掘り出し度って堪らなかったのである。彼女には天下の人が悉く持っている二つの眼を失って、殆ど他から片輪扱いにされるよりも、③一旦契った人の心を確実に手に握っている方が、遥かに幸福なのであった。(以上『帰ってから』18回)

 父の講釈は尻切れトンボ。聴き手は兄・嫂・二郎の誰も納得しないが、謡の仲間だけは父に「好い功徳を為すった」「安心させて遣れば其眼の見えない女のために何の位嬉しかったか」と賛同する。漱石がそんな意見に同意でないことは、容易に想像できる。ついでに言えば、お重にこの会を欠席させたのは、もちろん未婚の娘に聞かせる話でもないからだが、お重がどちら側に属する人間かという判定を、漱石自身が保留したということであろう。
 女の真に聞きたかったのは、男に厭な思いをさせたかも知れない(自分で気の付かない)自分の欠点であり、女のめざすところは③にあった。そして女は父には①を(嫌味ったらしく)伝えたかったが、それに気が付いたのはむしろ一郎とお直の方であった(②)。

 俗物の父は分からなかったが、漱石が父に代わって自ら女に解答を与えるとすれば、

坊っちゃんは皮肉を言う女が一番嫌い」

 であろうか。(女が坊っちゃんの気を惹いたきっかけである)喰い掛けの煎餅を横から奪って食うというのは、世間の常識に対する(真正面からでなく)斜めからの反抗であり、これが即ち女の皮肉な態度の発現である。これは年数を経たからといって直るものでもなく、世間の常識の権化たる長野の父に向かっても、①のような回りくどい皮肉をかます
 しかしこれを以って盲目になった女への回答とするには、あまりに忍びない。世間の常識を破って、どこまでも押して行くように見える漱石だが、手心を加える優しさも(とくに女に対しては)あるのである。

漱石「最後の挨拶」行人篇 23

190.『帰ってから』1日1回(1)――死は生き通せない


 漱石の作品が読まれ続けるのは、その作品が常に人生の根源的な問題を扱っているからであって、そこには当然生と死の問題も含まれる。漱石の作品は、なによりもまず漱石の死生観に貫かれている。
 ヴィトゲンシュタインが唐突に出現したのも、前著(『明暗』に向かって)で、「愛は尊いものであるが、自分の愛と隣人の愛は異なる。それはあたかも、死は尊いものであるが、自分の死と隣人の死がまったく別物であることに似ている。」(354頁)と述べたことに関連して、「人は誰も隣人の死を経験することは出来ても、自分の死は(観念上は了解しても)実際に経験することは出来ない。人の死は継続するが自分の死は継続しない。」という意味で、ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』(1922年)の、

死は人生の一イベントではない。死は生き通せない

 という有名なフレーズを引用したことによる。

*Ludwig Wittgenstein ‘’ TRACTATUS  LOGICO – PHILOSOPHICUS ’’ Translated by Charles Kay Ogden ( Dover Publications, INC. 1999)
 6.4311 Death is not an event of life. Death is not lived through. による。

 それから二郎とお直の一泊事件における二郎の免責、一郎の寝台車の謎については前項の引用の通りだが、思うに一郎の行為・様態は、

寝台列車は寝るための設備であるから、中では客は寝るのが正しい。
・人の作為によらない、規則正しい振動と機械音が却って心地良い。
・基本的に天の邪鬼であるから、一斉に起きろと言われると、いつまでも寝ている。

 の3点にまとめられると思う。一郎のように何でも気になる人は、ごうごう鳴る列車の方が却って安心して眠ることが出来る。子供のようなところがあるのである。言い方を変えると、いつまでも子供である人を変人というのである。

『帰ってから』 (全38回)

第1章 自分たちはかくして東京へ帰ったのである(『兄』第10章を兼ねる)
    二郎・一郎・直・母・岡田・(お兼さん・佐野)

第1回 旅の終わりⅠ 和歌の浦から大阪へ~岡田に見送られて寝台急行で大阪を発つ(8/16水)
第2回 旅の終わりⅡ 深夜12時、雨の名古屋駅~窓開閉事件~寝台の一郎は眠ることしかしない(8/16水~8/17木)(以上既出)

第2章 自分たちはかくして東京へ帰ったのである(再び)
    二郎・一郎・直・芳江・お重・(母・お貞さん)

第3回 留守宅Ⅰ お留守番した芳江とお守りのお重~芳江はお母さん子(8/18金~8/19土)
第4回 留守宅Ⅱ 講釈好きの父は飽きっぽい~朝貌の変種~兄と嫂の確執は一段落~母の話も一頓挫(8月下旬)

 1週間1人でお留守番した芳江に、お土産を選ぶシーンが書かれなかったのは不思議といえば不思議、流石といえば流石である。現実の漱石は関西からは(またまた鏡子共々)満身創痍に近い状態で帰京したのであるから、土産どころではなかった。だから書かなかったのか。書く気にならなかったのは確かであろう。書くと(事実に反するので)嘘くさくなる。
 漱石は胃腸とともに痔疾にも悩まされたが、本来この両者は同じ病気が原因していると思われる。頭脳の酷使から(長谷川町子みたいに)胃をやられ、坐業につきものの痔疾のダブルパンチ、という見方もあろうが、漱石の場合は同じ病気が複数箇所に発現したのであろう。同じ意味で反対側へ行けば(そこの粘膜は)喉でなければ目である。漱石はお手軽にトラホームと言うが、トラホームでない可能性もあった。漱石は眼病(失明)を忌んだが、幸いにも視力は衰えなかった。尤も長生きしていればどうなったか分からない。(喉も鏡子によれば、頭の具合が悪くなるときには、まず喉がやられると言っている。漱石の場合は、その作品群のように、病巣はすべて繋がっているのである。)

 ところで芳江の年齢であるが、

①大阪の宿に着くなり皆に書いた絵葉書の、宛先の対象になっていないこと。(『兄』2回)
②「よくまあお一人でお留守居が出来ます事」というお兼さんの発言。(『兄』4回)
③「頑是ない」という形容。
④嫂と母が代わるがわる抱いたり下ろしたり。
⑤嫂の後を奇跡の如く追って歩く。(以上『帰ってから』3回)

 から、まず学齢前・識字前の、4、5歳、せいぜい5、6歳であろうか。漱石関西旅行の明治44年でも、四女愛子は7歳。五女雛子は生まれて間もない2歳。芳江の目当てとなったのは、むしろ純一(5歳)伸六(4歳)の年子の男の子であろうか。純一・伸六に亡くなった雛子のイメジを重ねて(雛子は明治44年末には亡くなっている)、芳江を造型したのではないか。
 歳が一番近いのは愛子7歳であるが、『行人』執筆時は8歳から9歳になろうとしている。それに面影が芳江とまるで違う。芳江は「母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした」(『帰ってから』3回)と書かれる。
 芳江の年齢については今後の展開を待ちたいところ。前著でも述べたが、お貞さんがお嫁に行く頃になると豹変するような感じを受けてしまう。
 ただし二郎が父の朝貌の趣味について、見当外れの見解を述べて皆に笑われたときに、こんな記述もある。

 母と嫂は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲けるように笑い出した。すると傍にいた小さな芳江迄が嫂と同じように意味のある笑い方をした
 こんな瑣事で日を暮しているうちに兄と嫂の間柄は自然自分達の胸を離れるようになった。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂の事を説明する必要がなくなった様な気がした。母が東京へ帰ってから緩くり話そうと云った六ずかしそうな事件も母の口から容易に出ようとも思えなかった。最後にあれ程嫂に就いて智識を得たがっていた兄が、段段冷静に傾いて来た。・・・(『帰ってから』4回)

 頑是ない幼女にあるまじき仕草である。では上記①~⑤は何なのか。母(祖母)が抱き上げたり下ろしたりするには、それなりの小ささ(軽さ)が必要なのであるが。
 そして引用文後半、兄だけでなく母もまた、嫂の問題から離れていくようである。しかし『兄』で提起された問題は、そんなことで忘れ去ることの出来ないものであった。

 自分が兄から別室に呼出されたのは夫が済んで少時してであった。其時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎一寸話がある。彼方の室へ来て呉れ」と穏かに云った。自分は大人しく「はい」と答えて立った。然し何うした機(はずみ)か立つときに嫂の顔を一寸見た。其時は何の気も付かなかったが、此平凡な所作が其後自分の胸には絶えず驕慢の発現として響いた。嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨を見せて笑った。自分と嫂の眼を他から見たら、何処かに得意の光を帯びていたのではあるまいか。自分は立ちながら、次の室で浴衣を畳んでいた母の方を一寸顧見て、思わず立竦んだ。母の眼付は先刻からたった一人でそっと我我を観察していたとしか見えなかった。自分は母から疑惑の矢を胸に射付けられたような気分で兄の居る室へ這入った。(『兄』42回冒頭)

 自分は兄と反対に車夫や職人のするような荒仕事に妙を得ていた。ことに行李を括るのは得意であった。自分が縄を十文字に掛け始めると、嫂はすぐ立って兄の居る室の方に行った。自分は思わずその後姿を見送った。
「二郎兄さんの機嫌は何うだったい」と母がわざわざ小さな声で自分に聞いた。
「別に是と云う事もありません。なあに心配なさる事があるもんですか。大丈夫です」と自分は殊更に荒っぽく云って、右足で行李の蓋をぎいぎい締めた。
実はお前にも話したい事があるんだが。東京へでも帰ったら何れ又緩くりね
「ええ緩くり伺いましょう」
 自分は斯う無造作に答えながら、腹の中では母の所謂話なるものの内容を朧気ながら髣髴した。(同44回)

 厭なシーンである。読みたくもなく書きたくもないシーンであろう。でも仕方がない。二郎は兄だけでなく母にも宿題を背負わされている。これもまた、『帰ってから』で確認しなければならない大きな(厭な)仕事である。

漱石「最後の挨拶」行人篇 22

189.『兄』1日1回(5)――ブルートレインの謎


 前項の二郎とお直の和歌山宿泊事件で、二郎の免責について三四郎の例を挙げて述べたが、ここでまた前著(『明暗』に向かって)から、その『三四郎』の該当部分を含む項を引用したい。もうひとつ、復路の寝台列車で、神経質でふつうならまず寝られないはずの一郎が、なぜ死んだように眠ったままで朝もなかなか起きて来なかったのかという謎についても、一応そこで初期の考察をしている。いきなり出て来るヴィトゲンシュタインについては後ほど補足する。

57.先生さよなら

 ヴィトゲンシュタインが出てくるようではもう本論考も長くはないが、ついでだから漱石の死生観についてもう少し見てみよう。漱石の死ぬ間際の「ああ苦しい今死んじゃ困る」という言葉は、(江口渙によると)小宮豊隆によって隠蔽されたというが、この筆頭弟子にして漱石の人となりを知ることがなかったことに索然とする。漱石は兄を二人看取ったこともあり自身の寿命については達観していた。(修善寺で一度死んでいる、とそれほど驚きもせず書いている。)漱石は自分の死よりも、自分が正しいことをしているかどうかの方に関心があった。漱石にとっては自分が間違っていることの方が死よりも懼ろしいことであった。
 『枯野抄』(芥川龍之介)の「元来彼は死と云うと、病的に驚悸する種類の人間で、昔からよく自分の死ぬ事を考えると、風流の行脚をしている時でも、総身に汗の流れるような不気味な恐しさを経験した」というのは芭蕉でなく芭蕉の弟子何某にかこつけた話(あるいは芥川自身が文壇に出る前に克服しようとした弱年時の恐怖心)であるが、芥川は宇野浩二に『枯野抄』は漱石山房のことだと打ち明けている。芥川は漱石の末期の言葉の真の意味をよう理解しなかった小宮たちを皮肉ったわけである。菊池寛でさえ「我在るとき死来らず死来るとき我在らず、我と死ついに相会わず我何ぞ死を怖れんや」と(やけくそみたいだが)言っている。漱石の場合は恐怖心の克服といった次元の話ではなく、自分を買い過ぎる(他人に関心が薄い)というまた別種の性向によって、つまり比較対照の観点から、(自分に関することがなべて物事の上位に位置するのであるから、)死もまた尊しという境地になっていたのだろうか。(とはいえ生物である以上死を恐れるという本能から逃れることは出来ないと思うが。)

 自分に圧倒的に関心があって他人(世間)にほとんど関心がない、という性向はまだ理解されやすい。しかし加えるにその自分の中で、とくに自己の正邪にのみ関心があるというのは、そうでない人にとってなかなか分かりにくい価値観である。それを平明に解き明かすことが出来るかどうかは難しいが、最後にこの問題に就いて具体的に考察してみたい。最も分かりよいところから『三四郎』冒頭の汽車の女との「同衾事件」を見てみよう。

①女は「気味が悪いから宿屋へ案内してくれ」という。
②ある宿屋の前に立つ。「どうです」と聞くと女は「結構だ」と答える。
三四郎は宿屋の人間の語勢に押されて、つい二人連れでないと言いそびれる。
三四郎と女は同じ部屋に通される。三四郎は下女に言われて風呂へ行く。
⑤すると女が戸をあけて「ちいと流しましょうか」と言う。
⑥「いえたくさんです」と言ったが女は却って入ってきて帯を解き出す。
三四郎は風呂を飛び出して座敷へ帰ってひとりで驚いている。
⑧下女が宿帳を持って来たので三四郎は自分の住所氏名を書く。
⑨女は風呂に入っているので三四郎が女の分も「同花、同年」と書いてしまう。
⑩女は風呂から出てくる。「どうも失礼いたしました」「いいや」
⑪女は「ちょいと出てまいります」と外出する。(懐紙でも買いに行ったのか。)
⑫その留守に下女が蒲団を敷きに来る。
三四郎は「床は二つ敷かなければいけない」と言うが下女は蚊帳いっぱいに蒲団を一つ敷いて帰ってしまう。
⑭そのうち女が「どうも遅くなりまして」と帰って来る。
⑮寝るときになると女は「お先へ」と言って蒲団に入る。
三四郎は「はあ」と答えてこのまま夜を明かそうかとも考えたが、蚊がひどい。
⑰それで三四郎は「失礼ですが私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから,少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」と言って女の隣に寝る。
⑱あくる朝「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」「ええ、ありがとう、おかげさまで」
⑲別れ際に女は「いろいろごやっかいになりまして、ではごきげんよう」「さよなら」
⑳そして有名な最後の一句

 蒲団を一つしか敷かなかったことが常に問題視されるようだが、蚊帳一杯に敷いたのであれば一つも二つもない。一つの部屋に蚊帳は二つ吊れない。今風にいえばシングルを二枚敷くかダブルを一枚敷くかの違いであろう。(勿論これでも充分問題だが。)
 とはいうものの、三四郎に瑕疵のありそうなところは、

⑨虚偽の宿帳記入
⑬不適切な蒲団の敷き方

 の二箇所であろう。しかしこの二つながらに漱石三四郎の無実を主張する。

⑨女が風呂に入っていたからである。三四郎は女の身上は聞かされていなかった。女のせいである。自分の責任ではない。
⑬女が外出していたからである。女が命ずれば下女は蒲団を敷き直したかも知れない。女のせいである。自分の責任ではない。

 かくて三四郎は最初の難事件をやり過ごした。(ように読める。)三四郎責任能力はないとさえ漱石は言いたげである。もしかすると本当に三四郎は口の中だけで、あるいは心の中だけで、ぼそぼそつぶやいていたのかも知れない。妙に一方的な「蚤よけの工夫」も意味がよく分からない。(蚤は敷布を畳み込んだ位の高さは簡単に飛び越えるのではないか。)対するに女はすべてに過不足なくはっきりしゃべっている。間然するところがない。女には珍しく余計な口をきかない。朝女が三四郎に「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と皮肉っぽく言うのも、三四郎の発した言葉の中で唯一他者に伝わったのは蚤よけという一語だけであったからである。女はまるで国語の教師か教誨師のようである。
 してみると女は三四郎にとって始めて遭遇する異性というよりは、その反対に三四郎を異性から守る庇護者として登場したのではないか。だとすると女が最後に落ちついた調子で言う「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」というのは、まだ色気を去らない女の、半分人をなじった(あるいはからかった)捨て台詞でなく、三四郎に対する年長者の忠告・激励と解すべきであろう。郷里の母親なら「おまえは昔から度胸のない男だから」(これは手紙で実際にそう言っている)、広田先生なら「度胸がすわらないというのは若者の特権だろう。あまり若いうちから腹が坐って動けないというのも困る」とでも言うところであろう。(したがって⑪で女が外出したのは、懐紙のようなものを買いに出たのではなく、三四郎に対する教育者として、母親なら父親と相談しに、教師なら下調べをしに、わざわざ席を外したのである。)
 ちなみにこの汽車の女が三四郎のセリフに直接返答したのは、弁当の蓋が当たったかもしれないのでソリィと言った三四郎に対し、ノンと答えた一箇所だけである。すれ違った通行人とほとんど変わらない。宿の前でイエスと答えたのも、黙って振り返った三四郎に、了解の意思表示をしたともとれるので、三四郎の発した言葉に何か対応したわけではないようだ。であれば女は母親とすれば理解はしているが会話の少ない、教師とすれば忠実だが一方的に教えるだけの、どちらにしても漱石らしさのよく出ている話になっている。

 漱石らしいといえば、例え相手が妻や子供であっても、人と一緒の布団に寝るのを嫌がるのが漱石の癇性であるが、「坊っちゃん」も癇性で布団が変わると寝られないので、子供の頃から友達の家へ泊ったことが無いと言っている。三四郎もその後の主人公たちも、たぶんその血は受け継いでいるのだろうが、それが最も濃く出た『行人』の一郎が、関西旅行の復路に乗った寝台列車(の上段)で、何のこだわりもなく熟睡しているのを、不思議に思う読者もいるかも知れない。
 規則正しいことの好きな漱石は、時刻表通り運行される列車のようなものを愛する傾向にある、と前に述べたことがあるが、一郎が寝台が苦にならないのは、それが列車に付属した設備であるからか。たしかに漱石は規則に縛られた生活をむしろ好み、毎朝決まった時間に起床する(だろう)。教師時代たまの日曜日に寝坊しても、普通は誰も気にするものではないが、漱石のような人は実はそれが気になって仕方がない。苦沙弥先生が夜具にくるまってなかなか起きないのは、滑稽な描写につい騙されるが、漱石は本当はいつもと同じ時刻に起きないのを気にしているのである。そうでないと自分の小説にあれほど日曜日曜と書くわけがない。漱石は珍しく言い訳しているのである。
 ところで余計な事を言うようだが、三四郎はシーツでなく敷布団を女の方へ折り込んで、自分が畳の上にタオルを敷いて寝ればよかったのではないか。椅子に座って蚊に喰われながら夜を明かそうと思ったくらいであるから、蚊帳の中で横になれるだけでも上等だろう。シーツの壁よりも布団の壁の方が、癇性の人間にも蚤にも効果があるのではないか。

 それはともかく、こうして三四郎は二重にも三重にも免責されるが、おかげでその後の漱石の男はほぼ全員、女から身勝手・責任を取りたがらないという非難を浴びせられ続けることになる。その張本人たる漱石は、周囲の弟子からはおおむね摯実な紳士と見られていた。漱石が真面目で誠実なのはその通りであろう。(家族がどう思っていたかは別として。)漱石は(どちらかといえば)自分に甘いが、自作の主人公にも甘いのである。その中で一人だけ妙な責任の取り方をした作中人物がいる。代助や宗助ではない。言うまでもなくそれは『心』の先生である。先生はなぜ自殺したのであろうか。

〈 先生さよなら 引用畢 〉