明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 29

115.『門』一日一回(7)――『門』目次第14章(ドラフト版)

 

第14章 宗助と御米の過去
明治42年12月30日(木)
(宗助・御米・安井・宗助の父)
1回 宗助と御米は仲の好い夫婦~世間の鞭の先に附着する甘い蜜
2回 宗助と安井~京大での出逢い
3回 眼前に広がる無限の未来~夢のような1年間~帰省旅行
4回 宗助の会社訪問~安井の行方不明(横浜篇)~父との最後の会話
5回 安井の手紙~安井の行方不明(京都篇)
6回 安井は下宿を止して家を構える~御米「影のように静かな女」
7回 「これは僕の妹だ」~玄関先での始めての会話
8回 宗助の記憶~平淡な談話~モノクロームの映像
9回 「京都は好い所ね」~インフルエンザ~須磨明石での静養
10回 突然3人を襲った大風事件

1回
 漱石は男女の愛に理屈を付けようとする。論理で説明しようとする。女の求めるのは理屈でなく行動である。しかし『三四郎』の野々宮宗八も言う通り、理屈なしで決断するのはサイコロを振るに等しい。結局美禰子や一部の読者の不評を買うのは、漱石の男が理屈をひねくり回して、いつまでたっても決断しないからであろう。宗助と御米は例外的に仲の好い夫婦であるが、それにさえ漱石は理屈の突っかい棒が要る。屁の突っ張りにもならないのに、と女は思うが男は思わない。

2回
 安井登場の回。安井の名の数行後に、早くも「横浜」という地名が書かれる。安井の将来が碌でもないものになることが、約束されたかのようである。それはともかく、若い頃の闊達な宗助が、たった一度の恋愛事件で別人格になるという設定は、多くの人が諸手を挙げて賛成出来るものでもない。漱石自身は、人生観が変わるような体験をしたかも知れないが。それはとりあえず『門』の結構とは関係ない。

3回
 夏季休暇の後の年度替わりの小旅行。『行人』の三沢と二郎の場合と同じく、この計画は実行されることがなかった。原因が相手にあることも共通している。その陰に女があることもまた。

4回
 宗助の就活、という散文的なアイテムは、次作『彼岸過迄』にも受け継がれた。職業とは何かという大きな命題は、漱石の全作品を覆う究極のテーマ(のうちの一つ)であるが、地位を求める(就活)という狭い範囲に限っても、『坊っちゃん』『野分』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『心』『明暗』、ほとんどの漱石作品の中で、本流にせよ傍流にせよ取り扱われている。しかしこれについては、また稿を改める必要がありそうである。
 小旅行を約束した安井が音信不通になることもまた、漱石は『行人』で詳細に書き直した。父親の最後の言葉、「ずいぶん気を付けて」というのは漱石作品では空前絶後だが、似たようなシチュエーションは『心』で再現された(他の漱石作品には絶えて無い)。つまり初期三部作の最終作品たる『門』には、中期三部作への「地中の芋」が、(丁寧にも)全て埋めてあったことになる。

5回
 『門』では小六が時々行方不明になるが、安井も主人物として行方不明の先達者であった。宗助もいなくなることがあるが、それは出勤中だからで、そこは他の主人物と扱いが根本的に異なる。

6回
 御米の「初登場」の回。宗助は格子戸の内で浴衣の女の影をちらと見る。女の身元は後日判明する。『彼岸過迄』での印象深い千代子の紹介シーンのリハーサルのようでもあり、これは後にバージョンを変えて『道草』御縫さんのスケッチにも使用された。この技法・趣味の起源については後述したい。
 ところで、末尾の「安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事については一言も口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった」の「東京の事」は、おかしくはないが、ここはやはり「横浜の事」の書き誤りではなかろうか。宗助は東京育ちで一高、安井は福井生まれ横浜育ち、高等学校は宗助とは違うと書かれるから、おそらく三高でもあろうが、いずれにせよ安井が宗助に東京の話をするはずはない。宗助に東京の話をヒアリングしたという意味にとれなくもないが、少し不親切な書き方であろう。もっとも宗助が一高から京大へ進んだ理由さえ書かれないのだから、安井の環境が分からないことだらけで何の問題もないわけであるが。しかし夏季休暇で(たぶん)横浜から御米を連れて来たという筋書きと、安井が一高でなかったという設定は、相容れないようである。

7回
 大学入学後の1年間、親友となった宗助と安井。両親、家族のことは互いに話に出ているはずである。宗助は裕福だが家族には恵まれず、父親と弟が1人だけ、安井も裕福だが前述のように福井、横浜、家族構成はよく分からない。高校は京都か金沢か岡山か。横浜には師範や商業はあっても高校はないから、おそらく横浜で女学校に行っていたと思われる御米との接点が不明である。それはともかく、妹がいるかいないかくらいは、1年経っていきなり本人が目の前に現れて始めて知るというレベルの話ではないはずである。

8回
 初対面の日、宗助は御米の印象を映像として記憶していた。小説に書かれたのは4連発である。漱石はふつう3連発であるが、とくに重要なシーンでは4連発もある。しかし宗助の御米に対する印象は色彩の濃いものではなかった。4回繰り返される理由は分からない。

9回
 高熱と病後の転地保養。安井も御米も宗助同様、家庭的にはともかく、経済的には恵まれていたようだ。そしてこの3人が放蕩者でない以上、事件が起こる予感も予兆も何もない。『それから』の3人における人間関係のような緊張感すら感じさせない。いったい彼らの破綻のきっかけは何であったろうか。転地先での安井は平穏な性格を維持しており、高熱の影響があったとも思えない。宗助や御米は好色の気ぶりさえ見せない。

10回
 しかし事件は起こったのである。具体的な経緯は一切書かれない。小説をテクニカルに吟味すれば、この経緯の省略は『門』の弱点であると、所謂私小説作家なら言うところであろう。私小説作家でなくても、言うかも知れない。御米がなぜ安井を捨てて宗助に走ったか、合理でも非合理でも、そこに何か作者の主張が込められていなければ、この事件は単なるゴシップに過ぎない。
 そして疑問はそこで終わらず、3人の金持ちが社会倫理に反したからといって、いきなり3人とも貧乏になってしまうというストーリィ展開は、やはり無理があるのではないか。漱石の金銭感覚はどこかおかしいのではないか。
 結局漱石の主張が勝つのである。『門』を凌駕する私小説は書かれなかった。『三四郎』『それから』はさらにその上に君臨する。明治大正の小説で漱石を超えるものはない。今後さらに百年たったとしても、この結果が変わるとはとても思えない。

漱石「最後の挨拶」門篇 28

114.『門』一日一回(6)――『門』目次第13章(ドラフト版)


第13章 贖罪
明治42年12月30日(木)
(宗助・御米・坂井夫婦・坂井の子女・織屋・易者)
1回 宗助の不安は御米の回復では解消されない~悲劇はまたいつでも繰り返し得る
2回 甲州の織屋~銘仙を3円で購入「値じゃない」
3回 夫婦の会話~織屋と坂井家~子供さえいれば貧乏な家でも陽気になる
4回 宗助の失言~御米の告白~子供はもう出来ない
5回 御米の1年おきの哀しい回想~広島・福岡・東京
6回 東京・明治41年・5ヶ月前の御米の哀しい失敗・臨月
7回 位牌のある児と位牌の無い児
8回 御米の占い事件~人に対して済まない事をした罪と罰

1回
 晦日、宗助は床屋帰りに坂井の家を訪問する。寄り道自体は慥かに便利で合理的であろうが、家族に無断でそれを実行するのが漱石流である。案内された宗助による坂井夫妻の描写、「主人は長火鉢の向こう側に坐っていた」「細君は長火鉢をやや離れてやはりこちらを向いていた」は、宗助が日記を書いているとしか思えない書きぶりである。あるいは作家が宗助に寄り添って、宗助の視点で叙述をしているのであれば、通常漱石はそのように書き進めるのであるが、『門』の場合、御米や小六単独の内面描写が出来なくなる。では漱石はどのように対処したか。簡単である。そのときは宗助を見捨てて御米なり小六に即(つ)くのである。ふつうこのような書き方では大衆小説と見做されてしまうのであるが(事実生前の漱石はそのような見方をされて文壇の主流にはなり得なかった)、漱石に限って百年の命脈を保つのはいかなる理由によるものか。もちろんそれを解明するのが本稿の目的であるが、分かりやすい結論にはなかなか辿り着けない。

2回
 悲しみは決して絶えることがないだろう。これはすべての芸術作品に共通するモチーフと言える。悲しみや苦悩が(或るハッピィな出来事で)消し去ることが可能なら、誰も小説を読んだりする必要はないわけである。織屋の滑稽譚が宗助にもたらしたものは、反物を安く入手したという「得」である。『門』ではいくつかの小さな「得」が語られる。抱一の屏風・織屋の反物・小六の坂井家書生転出・宗助の増俸。これに対する「損」は佐伯の叔父による財産横領。金銭的にはまるでバランスしないが、大きな悲劇と小さな喜劇、芸術的には釣り合っているのだろう。

3回
 何度目かの宗助の失言、「子供さえあれば、大抵貧乏な家でも陽気になるもの」
 漱石はわざと宗助に失言させているわけではあるまい。心のきれいな漱石は、自分の心にあることをそのまましゃべって抵抗がない。考えて言葉を飾る必要が無い。それでもその言葉によって御米のように傷つくこともある。漱石の偉いところはそれをそのまま書いて芸術にしていることである。宗助は嘘を言っているわけではないが、それが御米を悲しませる。宗助は(御米を安心させるために)嘘を吐くべきだったのか。宗助は(御米を悲しませないように)沈黙すべきだったのか。そうではあるまい。漱石は分かって書いている。

4回
「まだ(子供が)出来ないと決まったわけではない。これから生れるかも知れない」

 後世から見ると、相変わらず止まることを知らぬ宗助の失言とも取れよう。しかし当時は早逝した児も含めて子供が何人もいる家庭が多かった。続けて3人育たなかったからといって、そのあとまた3人作ればいい。宗助は(漱石も)そう思っていたに違いない。それがまた御米の哀れを誘う。

5回
 御米の体験は、明治37年広島(流産)、明治39年福岡(早産)、明治41年東京(死産)。
 3度目の東京での悲劇は、3週間の産褥期を終えて占い師のところへ出かけた頃が「更衣の時節」(13ノ8回)と書かれるから、明治41年6月。予定日が明治41年5月。逆算すると妊娠5ヶ月での井戸べりの尻餅事故は、明治40年12月頃か。懐妊は7月であるから(妊娠判明は10月頃としても)、先の年表に従って出京が明治40年6月として、御米はそのころ大分身体が衰えていたと書かれるが、結果として東京転勤まもなく懐妊したことになる。
 最初の児は5ヶ月で流れてしまった。2番目の児は月足らずで産まれたが、それでも1週間この世の空気を吸った。名前こそ(当時の習慣で)付けられなかったが、ある意味では一番幸せな宗助夫婦の子であったろうか。3番目の児が5ヶ月のときに御米が転んだのは、最初の児が妬んだのだろうか。御米はこの失敗を何ヶ月も宗助に話さなかった。漱石はこういう話を怖がったというが、『夢十夜』を書いている以上、俄かには信じ難い。

6回
 明治43年3月、漱石が『門』の連載を始めたとき、漱石最後の子たる5女ひな子が誕生した。新生児を横目で見ながら(というのはもちろん比喩だが)、漱石は御米の胎内の児たちの悲劇を描いた。その年の夏、修善寺の大患漱石は一度死んだが、もし息を吹き返さなければ、ひな子は漱石が自分の身代わりにこの世に残して行った子と言われたであろう。漱石は立ち直って翌明治44年初夏、鏡子はまた妊娠したらしくあったが、すぐ流れてしまったという。鏡子は最初と最後の子を流産したことになる。そして同じ年、ひな子は突然逝ってしまう。埋葬(葬儀)の月は次作『彼岸過迄』を起筆した月でもあった。
 マーラーは溺愛した長女マリアの可愛い盛りに「亡き児をしのぶ歌」を作ったが、偶然にもほどなくそれは現実のものとなった。漱石に自作の1エピソードと現実を結び付ける趣味はなかったが、後世の読者から見ると、ひな子は『門』とともに生まれ、自らの身を滅ぼして『彼岸過迄』に(文字通り)結実したと言えなくもない。漱石が『雨の降る日』に触れて、好い供養をしたなどと述べたのも、ふだん漱石は自作に対してそのような情緒的な物言いをしない人であるだけに、いっそう感慨深いものがある。漱石は(大勢いる子を差し置いて)その末っ子の5女のことが一番大事だったと書きさえした。そして漱石自身はわずか5年後、落合斎場のひな子のときと同じ炉で荼毘に付されたのであった。

7回
 御米の3番目の児のとき、宗助は小さな位牌を作った。宗助は福岡で亡くなった2番目の児の位牌も持っていたが、その他には父の位牌があるだけであった。父の死で東京の家屋敷を整理したとき、父の位牌だけ持って、あとは寺に放置した。母の位牌はどうしたのだろう。母の死は父のそれの6年前とだけ書かれるが、ふつうに考えると父と同じ寺に埋葬されているはずである。宗助と小六の間に挟まった、2人の弟たちと1人の妹の、位牌はなかったのだろうか。漱石は末っ子だから無関心なのだろうが、宗助は曲がりなりにも長男である。叔父に財産を騙し取られたからといって、まさか墓や位牌まで盗られたわけではあるまい。

8回
 御米の占い師のところへ行ったのは明治41年6月である。出京からちょうど1年。物語の今現在が明治42年12月30日。井戸べり尻餅事件を打ち明けたのが、3ヶ月くらい経ってからと想像されるが、これは予定日を2ヶ月後に控えて大きなお腹ながら、母体が安定したと考えてのことだろう。ところが占い師事件については1年半も経ってから、賢明な御米はなぜ宗助に告白したのだろうか。もちろん表面的には宗助の数重なる「失言」のせいと取るべきであろうが、御米は医者や産婆に宣告されたわけではない。(『それから』の三千代のように)子供をあきらめなければならない特段の理由がない。思うに御米の告白は、何事も腹にしまっておくことの出来ない漱石の性格がもたらしたものであろう。31歳の宗助が、まあ子供を欲しがっているとして、26歳くらいの御米が、自分は子供を産めない身体であると、何か根拠でもない限り主張することは出来ないのではないか。その根拠が占い師に言われたというのであれば、夫は怒るか安心するかのどちらかである。宗助のようにただ憮然とするのでは、誠実性が疑われよう。

漱石「最後の挨拶」門篇 27

113.『門』一日一回(5)――『門』目次第10章~第12章(ドラフト版)

 

第10章 小六の話
明治42年12月上旬~中旬
(宗助・御米・小六)
1回 小六から聞く安之助の事業の話~鰹舟からエレクトロニクス印刷術へ
2回 小六の飲酒疑惑~御米の不安は小六の態度~小六の不安は宗助の態度
3回 安之助の結婚延期~小六の学資の出来ない訳

1回
 漱石の筆が小六に降りてくるにしたがって、宗助の影は限りなく薄っぺらになる。宗助は出掛けているわけではないが、存在感がまるで無い。出掛けていた方がまだましなくらいである。

2回
 小六は宗助の家に引き取られてからも腰が落ち着かない。養家と実家を出たり入ったりした漱石そのままである。小六を漱石の立場から見ると、宗助は(ろくでもない)三兄であり御米はその妻登世である。そして小六にとって養家とは佐伯のことであるから、その子息安之助は、『道草』の言う御縫さんであろう。漱石は御縫さんのような人物は、(『坊っちゃん』のマドンナのように)性格が垣間見られるような逸話や属性を描かない。安之助の人となりが何も語られなかったわけである。

3回
「そうして御米が絣の羽織を受取って、袖口の綻(ほころび)を繕っている間、小六は何もせずにそこへ坐って、御米の手先を見詰めていた」
 本考察の冒頭で名文として掲げた「羽織が帯で高くなったあたりを眺めていた」を彷彿させる、これまた名文である。若き日の漱石は家で(例えば登世の)そのような被服なり仕草なりをじっと見ていたのだろう。
 そして唐突に出現した安之助の結婚延期。安之助(御縫さん)の結婚は皆が祝福するものでなかった。それに関連して小六の学資打切り話の理由が判明する。裕福な家から嫁を貰う。佐伯の叔母にとって小六(健三・金之助)は、余計者以外の何者でもなかったのである。

第11章 御米の病気
明治42年12月21日(火)または22日(水)
(宗助・御米・小六・清・往診の医者)
1回 宗助の不安の源は御米の体調不良
2回 御米の発熱~小六はまた飯時を外して帰って来ないようだ
3回 御米の惑乱~御米の肩を押える宗助~帰宅した小六の驚き
4回 夜間の急診~ひと段落

1回
 この回は少し回想風の記述が先行して、カレンダーは1ヶ月近く遡る。御米の体調について、小六の引越の前から語り始めて、それどころか広島・福岡時代までさかのぼる。それは後段で御米の悲しい過去の伏線にもなる。

2回
 御米は風邪をこじらせたようだ。遠因は小六の同居にともなうストレスであろう。宗助は先ず驚く。しかし驚きに続く感情は湧いて来ない。官吏の増俸問題の方が気にかかる。

3回
 宗助は御米の肩を強く圧す。あるいは揉む。宗助による唯一の介抱である。それは御米のためというよりは自分の気持ちを落ち着かせるためであるようだ。漱石がヒステリーになった鏡子に対して行なった施術もおそらくこの通りであったろう。
 いつも通り晩く帰宅した小六が、座敷にいる宗助に激しく呼び止められたときに、茶の間にいたことは、改めて指摘しておきたい。小六は玄関から廊下を通って、一旦茶の間に入らないと六畳へは行けないことを、再度指摘しておきたい。

4回
 病気の御米は宗助に対して微笑みを浮かべることを忘れない。それは御米の習慣であり、宗助に対する気遣いであった。『明暗』で津田と再会した清子もまた、(現存の)小説の最後で津田に微笑する。津田がその微笑の意味を説明しようとするところで、漱石の小説が終了したのであるが、津田はおそらくそれが清子の癖であり「親切」であることに思い至ったに違いない。余談であるが。

第12章 御米の覚醒
明治42年12月22日(水)または23日(木)
(宗助・御米・小六・清・往診の医者)
1回 宗助始めての早退~眠りの森の御米
2回 少し薬が利き過ぎましたね~用さえなければ起こす必要もない

1回
 御米は昨夜からずっと寝ている。心配症の宗助は御米がこのまま一生起きないかも知れないと思ったに違いない。それはやはり病床の鏡子に対して、漱石が実際に経験したことであろう。もちろんモデルが鏡子でなく、若き日の金之助が看病した2人の兄である可能性もある。
 自分の体験をそのまま書く。それがリアリティを生む。では誰でも自らの体験を書く者はリアリティの勲章を獲得するか。漱石は細部はともかく、自分の体験したことを、自分の主観に忠実に、そのまま書いた。体験を書いたのではなく、主観を書いたとも言える。主観を書いてリアリティを獲得する。体験が貴重なのではなく主観が貴重なのである。だから真似出来ない。

2回
 宗助はもちろん御米の身体を一番心配している。宗助の不安は自分たち夫婦の外側へ向けられる。この場合は小六と医者である。自分たち夫婦がみずから招いた災難であるとは決して考えない。しかし何事か行動に出ようとすることもない。動けばその分エネルギーを消費するし、何よりその行動については自分の責任になってしまう。宗助は考えるだけで結局何もしない。
 いずれにせよ御米の眼がひとりでに醒めて、『門』の前半はめでたく終了する。御米は夜中の0時から晩飯時の18時まで、18時間眠ったことになる。

漱石「最後の挨拶」門篇 26

112.『門』一日一回(4)――『門』目次第7章~第9章(ドラフト版)


第7章 手文庫事件
明治42年11月25日(木)~11月26日(金)
(宗助・御米・清・坂井の下女・仲働・坂井の女の子・坂井)
1回 店子の話~本多という老夫婦~大家の話~ピアノとブランコ
2回 御米の行動~夜中に目覚めて家中を見廻り~物音で再度目覚める~貴方貴方
3回 宗助の行動~御米に起こされ雨戸の外を覗く~御前の夢だろう~朝自ら再調査
4回 投げ出された手文庫~泥棒の証拠~妙な顔をして宗助から手文庫を受け取る清
5回 宗助手文庫を坂井へ届ける~坂井の下女と仲働~坂井の女の子たち
6回 高等遊民坂井との対面~出勤時刻に気を揉む御米

1回
 家のブランコに乗せないのに、屋根瓦や垣根の修理はすぐしてくれる。家主は吝嗇か鷹揚か、矛盾している。宗助はそう考えるが、読者はふつうそうは考えまい。自分の家を修理するのは自分の財産を守る普通の行為だからである。当時の家主と店子の関係は現代のそれとは大きく異なるだろうが、漱石は借家にもかかわらず庭は(ある程度)自分の趣味を活かして手を加えた。必要なら野菜や果物も植えたであろう。「原状回復」という発想のなかった時代である。水道や電気を引くときは、さすがに大家と(経費負担について)相談したのであろうが。

2回
 記憶すべき泥棒事件の発端の回である。漱石はほぼ自分の体験を書いている。それはいいが、始めてこのくだりを読む者は、泥棒は宗助の家に入ったとつい思ってしまう。しかし実際はそうでなかった。では御米は深更なぜ起き出したのか。隣地の崖を何かが滑落した音に気付いたのは、御米が再度の眠りについた後のことである。御米は先ずはじめに、近所(坂井家)に起こりつつある異変を察知したという書き方である。宗助はその間ずっと横で就寝していた(と御米は証言している)。小六は寄宿舎暮らしである。御米には予知能力があったのだろうか。坂井家に侵入した者と御米の間に、何か意識下の交流を想像させるものがあったのだろうか。鏡子の『思い出』には、漱石が女にそのような(呪術的な)能力が備わっていると信じていたらしいことが書いてある。

3回
 宗助は御米の気のせいと呑気に構える。神経がどうかしているとさえ言う。しかしなぜか朝になって、起こされもせぬうちに自分で思い立って、もう一度縁側から外を見てみる。そして御米が夢を見ていたのではないことに気付く。

4回
 泥棒の所謂御馳走は漱石の実体験であるが、漱石の家では他に物品(衣類)を盗まれていた。宗助は抛り出された手文庫だけでは事情が飲み込めない筈であるが、残された御馳走が動かぬ証拠となった。さらに文庫にあった坂井宛の手紙。しかし一般的に考えて泥棒でない可能性もぎりぎり残る。そこで末尾の夫婦の不思議な会話。坂井では他に何か盗られただろうかと言う御米。ことによるとまだ何かやられたねと返す宗助。かくして天から降った手文庫は窃盗事件と定まった。結果として夫婦は正解に到達していたわけだが、それに到る過程は曖昧で、(コナンドイルみたいに)ちょっと手前勝手に過ぎるようである。

5回
 腰は重いが尻は軽い。腰が重いのは塩原の養家で跡取り坊っちゃんとして育てられたせい。尻が軽いのは夏目家の末っ子のせい。漱石は気の毒にも人生の始めから分裂しているのである。放擲された文凾など下女に届けさせてもいいし、もちろん自分で持って行くのもいいかも知れない。宗助の性分がどちらに近いかは、傍からは判断しづらい。しかし漱石がそう書いているからには、宗助は律儀な所があるのであろう。論者はそうでなく、また別な魂胆があってのことと(余計な)推理をしてみたが、だからといって何事かが解決したわけではない。

6回
 この小説で宗助と坂井が対峙する始めての回である。坂井は年齢や家族構成からも、『三四郎』の広田先生に次いで登場した、漱石度合いの高い人物である。もともと大人しい性格の宗助は、坂井の前ではいっそう無口になる。
 漱石は自分の若い頃をモデルに主人公をしつらえることが多いが、自分と同年輩の男を副人物として配することも目立つ。副人物のおやじはたいてい雄弁で、これに対する若い主人公は多くの場合謹聴するのみである。漱石の、人生の長い時間を過ごした教場でのやりとりが、抜け切らないのであろうか。これについては後述したい。

第8章 障子貼替
明治42年12月6日(月)
(御米・小六)
1回 小六は今月から宗助の家に引き移って来た
2回 御米は小六といると気ぶっせいでもある
3回 御米は諸物価値上りが悩みの種~小六は兄の増俸が気になる

1回
 手文庫事件は第7章と第9章に描かれる。間に挟まれたこの第8章は、本来第9章の後に配置されて然るべきである。暦の上からも、第7章-第9章-第8章の順である。なぜこんな入り繰りが生じたのか。漱石は何のためにこの章の順番を変えたのか。手文庫事件に関連して、その途中でどうしても書きたいことが、この第8章の中にあるのだろうか。

2回
 第8章は障子貼替の章にして御米と小六だけの章である。好いか悪いかは別として、『門』ならではの効果が発揮される。子供(や猫)がいないから、障子の損耗は少ないという御米。宗助の失言に涙した御米のセリフとも思えない。宗助に対する漱石の補償であろうか。御米と小六に、両性に由来する何事も想起されることはないと漱石は書くが、子供がいないからという御米の発言は、漱石の記述にふくらみを持たせるような、深みをあたえるような、考えさせられる設定ではある。

3回
 障子を貼り終えた小六は、坂井から届けられた菓子を食う。坂井から菓子折りが届いたのは第9章に入ってすぐ描かれる。その第9章第1回は泥棒事件の後日譚でもある。しかし第9章は全体としては屏風事件の後日譚でもある。泥棒事件と屏風事件は直接関係はない。坂井の菓子を食ったことを、そんなに急いで書く必要があるのだろうか。編集ミスではないか。でなければ読者にあることを訴えようとしているのか。興味のある人は本ブログ門篇16(通し回102.『門』泥棒事件の謎2ーーホームズ登場)をご覧いただきたい。
漱石「最後の挨拶」門篇 16 - 明石吟平の漱石ブログ

第9章 坂井という男
明治42年11月26日(金)~12月5日(日)
(宗助・御米・小六・坂井・道具屋・坂井の下女・坂井の子たち)
1回 坂井からの菓子折~坂井の来訪~金時計が泥棒から送り返されて来た
2回 道具屋は坂井の幼馴染み~坂井はつい最近道具屋から抱一の屏風を買った
3回 同居の始まっていた小六の約1ヶ月ぶりの登場~屏風の話題
4回 御米の不調~小六の尻が落ち着かない~宗助、坂井家を訪問する~雛飾り
5回 宗助、坂井と坂井の子供たちに会う
6回 宗助、坂井に屏風の由来を打ち明ける

1回
 夫婦が東京に住み始めたころ、家主とは殆ど往き来がなかったが、家主は髭のない男という認識であった。2年半経ってひょんな事件から、第7章で、手文庫を届けた宗助が坂井と話す機会が訪れた。坂井には鼻の下にチョビ髭があった。この2年半の間に生やし始めたのかも知れない。それはどうでもいいが、この日の午後、現場検証で刑事と共に宗助の家の裏手にやって来た坂井を見て、御米もまた坂井の髭に気が付いた。ところが夕方役所から帰った宗助に、御米は坂井に髭のあったことを報告したのはどういうことか。
「貴方、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」
 宗助は朝坂井と面談して髭を確認済である。もう少し別の言い方があったのではないか。御米にしては考えにくい記憶違いである。しかしこれはおそらく漱石の失念であろう。

2回
 宗助が坂井と親しくなる経緯の巧みさには何人も感心せざるを得ない。漱石ストーリーテラーでないというのが定評であるが、そうではあるまい。他の作品ではとかくぎこちなさの目立つ「一人二役」(宗助が半分漱石、坂井が半分以上漱石という意味)であるが、もちろんこの場合もほぼ坂井の一方的な講義に終始する関係ではあるが、宗助サイドに抱一のネタがあることも相俟って、ぎくしゃくしない、平穏な交情が描かれる。

3回
「宗助は始めて自分の家に小六のいる事に気が付いた」
 これまた不可思議な記述であるが、これが第8章を先に配置した理由であろうか。これには抱一の売却問題が絡んでいる。それも単に1エピソードにとどまらず、小六の学資問題から佐伯の叔父の財産横領事件、宗助と御米の倫理的事件と、『門』の根幹をなす物語に繋がってゆく。ストーリーテラーたるゆえんである。

4回
 この回で、『門』のサブストーリーたる主役3名の事件(①小六の引越、②御米の病気、③宗助の参禅)のうち、①は既出として、②と③の伏線が出揃う。御米の体調不良は小六の同居も半分原因している。そして交際嫌いのはずの宗助が坂井に接近していく姿、夭折した妹の逸話も印象深い。
 ところでこの妹の逝去は、ちょうど小六の生まれた頃にあたる。年次の特定は困難であるが、小六がこの妹より年下であることは間違いない。すると第4章3回冒頭の、「宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟まっていたが、いずれも早世してしまったので、兄弟とはいいながら、年は十ばかり違っている」という文章の下線部は、正確を期すなら、「二人の男の子と一人の女の子」であろう。いずれにせよ小六は末っ子であった。

5回
 坂井の子たちは漱石の家族を模していようが、女の子はともかく、男の子は躾が行き届いていないようなところが漱石の男の子を彷彿させる。やっと出来た男子だから可愛さのあまり甘やかしたわけではあるまい。漱石に自己愛の念が薄かったのと同様、子供にもむやみに愛情を降り注ぐタイプではなかった。良く言えば子供の自主性に任せた、悪く言えば無関心、まるで自分の著作に対するように接している。公平無私ともとれるし、自分が一番大事ともとれる。漱石自身はこの態度を則天去私と名付けた。

6回
 宗助夫婦が35円で売った抱一を坂井が80円で買った。宗助と坂井は以後親しくなったと漱石は書く。人と人との関係に必ずお金の話が登場する。例外がない。このように書く作家は漱石以外にいない(筈である)。漱石は(絵画の巨匠のように)技巧を発揮して人間関係に金銭譚を附着させているわけではあるまい。強迫観念のように、ついつい金の話になってしまうのだろう。人を書くとき、性格・思想・環境・容姿より、金の話に関心が行く。金銭は漱石にとって一つのスタンダードである。もちろん金が問題なのではない。その多寡は尚更問題でない。金そのものに価値はない。だから平気で金の話ばかり書くのだろう。公平といえばこれほど公平なことはない。

漱石「最後の挨拶」門篇 25

111.『門』一日一回(3)――『門』目次第5章~第6章(ドラフト版)


第5章 歯医者
明治42年11月6日(土)
(宗助・御米・叔母・歯医者)
1回 宗助の出勤中に叔母が来訪~安之助の鰹舟石油発動機
2回 宗助歯医者へ行く
3回 歯科処置室にて
4回 神戸の養老昆布~勉強?もう御休みなさらなくって~論語

1回
 第1章に続いて宗助不在の回。しかし宗助の無神経な言辞がまた炸裂する。叔母は子供をたった一人しか生まないから、いつも若く見える。御米の回想を介してとはいえ、あるいは宗助不在のどさくさに紛れて、本来ありえないセリフが語られる。漱石の勇み足か。御米にしても、鰹舟の動力について全く理屈が判らないという書き方は、少し無理があるのではないか。日露戦争の海戦を持ち出すまでもなく、電車も自動車も巷には溢れているのであるから、女だからといって動力のしくみについて、江戸時代の庶民のような反応を示すのは、やはりヘンである。御米は女学校へ通っていたのではないか。

2回
 漱石の体験そのままが書かれているとして、歯の内部が腐っているから治癒しないとか、結核性でないからいずれ治癒するとか、どのように書かれようが、それは漱石が医者から聞いたそのままである。前述したが、漱石はそんな医者の言葉を自分の小説の展開に流用しようとするほど素人ではない。

3回
 歯医者の椅子に寝かされると、(よくあることだが)何もしないのに宗助の歯の痛みは柔らぐ。御米が付き添いで待合室にいると仮想して、宗助が処置室から顔を出して、(グスタフ・マーラーみたいに)「痛むのはどの歯だったっけ?」と待機中の細君に声をかけるというのは、大いにありうることである(妻アルマの回想録による)。
 診療台・手術台の上では、座禅を組んでも得られない平安に到達する。そして心が落ち着くと、気になるのはもう金のことだけである。歯医者の払いなどはたかが知れているという勿れ。金額の多寡ではない。漱石は悩みなしで生活することが出来ない性分である。何かしら気になるのである。金が気にならないとすれば、細君のこと(仕草)が気になる。根っからの天邪鬼であろう。

4回
 小六の月謝と小遣いはギリギリで月10円であるという。来年から佐伯の援助はあてに出来ないともいう。小六の高等学校卒業まであと6ヶ月。10円✕6=60円。2年前ではあるが、佐伯の叔父から貰った金が同じ額面である。繰り返すが、10円だの60円だのをわざわざ書いたのは漱石本人に他ならない。何のために金額を書き込んだのであろうか。もちろんそれは、小六を引き取れば小六の大学への途が立つと言いたいためであろうが、金勘定を書いて誰が安心するというのだろうか。
 宗助が土曜に行った歯医者は、明日また来いと言った。明治時代の病院は土日もやっていたらしい。『明暗』の津田は日曜日に手術している。働き過ぎであろう。そのせいでもあるまいが、『門』はこのあと1週間くらいインターバルがある。登場人物はその間何をしていたのだろうか。

第6章 屏風事件
明治42年11月後半の1週間
(宗助・御米・道具屋)
1回 御米、御前子供が出来たんじゃないか
2回 小六さんは、まだ私の事を悪んでいらっしゃるでしょうか
3回 貴方、あの屏風を売っちゃ不可なくって
4回 でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ
5回 売るなら売っていいがね。……けれども己はまだ靴は買わないでも済むよ。

1回
 第4章、たまには佐伯へ出掛けてみたら云々、第5章、叔母は子供を一人しか生まないから云々、に続く3回目の無神経。と言うのは宗助に酷か。宗助ははっと思い付いた。結果的にそれが人を傷つけることになるが、思い付いたのは不可抗力であるから、自然には諍えないから、宗助の責任ではない。とくにこの場合の御米の(子供に纏わる)悲しみは、所詮男には理解できない。『明暗』の津田も性病科ではっと思い付いた。結果的に女の悲しみを思慮の外に追い遣った、男にとって身勝手な思いつきであったろう。論者は前著でその津田の「天啓」を論じたが(29.関と堀、台詞のない脇役)、両者とも、言ってしまえば碌でもない思いつきであったことに違いはあるまい。

2回
 小六の冷淡さを、却って夫婦の愛情を深める方向へ利用する。御米の巧まざる怜悧さには感心させられる。夫婦の関心が靴や外套といった消費財に向かうことにより、夫婦関係は安定する。

3回
 そして屏風売却はすべて御米主導で実行される。宗助はただ傍観するだけである。むしろ勇気がないために、おなじみの煮え切らなさを発揮さえする。

4回
「御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻とも付かない織物を纏って外へ出た」
 不思議な記述である。
 似たような描写が『三四郎』にある。三四郎が大学病院の玄関で池の女と再会したとき、「着物の色は何という名か分からない」と漱石は書いた。
 美禰子の着物の色は当然美禰子は分かっている。漱石も分かっている。三四郎だけがその知識がない。漱石三四郎に代わって、三四郎の頭脳に忖度した書き方をした。
 上記『門』の場合はどうか。御米の被った織物は当然御米には分かっている。漱石も知っている。布切れがどのようなものか、知らないのは宗助のみであるが、宗助はこのとき眠っていて御米の行動に関知していない。宗助は御米の格好を見ていない。
 漱石は直接登場していない宗助に成り代わって、宗助の見方で御米の外見を論評した。不在の主人公の眼を通して対象を描写する。理屈としてはあり得ない。しかし妙に納得してしまう書き方である。といって誰も真似出来るものではない。漱石だけが天才なのであろうか。

5回
 道具屋との交渉は全部で4度である。①7円、②15円、③非開示、④35円。売却代金は35円である。金額を書いていない回が1回ある。あとの3回は金額が明記されている。3度の繰り返し、という原則がここでも(強引に)厳守されている。

漱石「最後の挨拶」門篇 24

110.『門』一日一回(2)――『門』目次第4章(ドラフト版)


第4章 宗助の過去
明治42年11月2日(火)~11月4日(木)
(宗助・御米・小六・父・佐伯・叔母・安之助・杉原)
1回 佐伯の叔母からの手紙~安之助は神戸へ行っていた。
2回 この夫婦~兄に弟を養育する義務はあるか。
3回 宗助の過去~京都から広島へ~父の死。
4回 宗助の過去~広島から博多まで。
5回 宗助の過去~福岡での苦闘~旅の終わり。
6回 出京。御米のお披露目。「これがあの……」
7回 ぐずぐずの1年~叔父叔母の会話~叔父の急死~また1年。
8回 小六の房州旅行~学資打切事件~小六の怒り。
9回 財産横領事件。
10回 月島の工場~盗まれた骨董品。
11回 そして抱一の屏風が残った。
12回 小六の不安再び~この夫婦再び。
13回 空から降って来た安之助~この夫婦三たび。
14回 御米の提案~御米は楽天家か占い師か。

1回
 漱石には実業=横浜という約束事がある。横浜の次点は神戸である。『門』では横浜は安井と御米の棲家に使われたので、安之助は神戸へ行って自らの実業生活のスタートとした。『それから』も似たような経緯で横浜と神戸が使われる。『三四郎』は話が実業に至らない。この横浜と神戸のような使用規則は、他の作品群でも概ね変わらない。

2回
 小六の学資問題に対する宗助と御米の(心配を装った)無関心。それに対する小六の(尤もな)不安と焦燥。前の章でもさらりと紹介されたが、第4章でこの「芋」は丁寧に掘り返される。

3回
 宗助は義絶されて広島へ落ちて行った。苦難の始まりであるが、安月給としても世間的には、まあ普通の生活であろう。父の死によって、ある程度のまとまった金は手にしている。つまり宗助夫婦の懐はまだ余裕がある。

4回
 名ばかり有名の福岡での苦闘の2年間。家が売れたというが、その入金がないための窮乏生活らしい。つまりふつうの若い人は家などないのであるから、ここでも宗助夫妻は「ふつうの生活」なのである。子供が育たなかったのは気の毒だが、夫婦2人の生活は、親子4人の生活より金銭的には楽であろう。都会人漱石にとっては、化外の地での最下層の生活に思えたかも知れないが。しかし当の漱石は熊本にも長年棲み暮らしたのである。福岡は熊本より都会であろう。しかるにこの書き方を見ると、思うに漱石はどこに住まいしても、とくに土地に対する感興は湧いて来ないのではないか。自分と住居地を相対化して観察することがない。(幼児期を除いて)懐かしむということがない。常に圧倒的に今の自分にのみ関心がある、と言えば誤解する向きもあろうが、要するにそういうことである。これを人は潔癖といい、また自分勝手という。

5回
 広島2年、福岡2年で、宗助は東京へ戻ることになる。まさか官僚を気取ったわけでもあるまいが、腰弁とは思えない処遇である。つまり栄転である。夫婦が旅費や引越費用に苦しんだ形跡もない。新居の敷金を払った後(借家に入居した後)、佐伯から60円貰ったことになっている。宗助と御米は60円で何を買ったのであろうか。小説を読む限りでは何も買っていないと断言できるが、生活費としてなし崩しに遣ったとも思われない。たぶん漱石の書き忘れであろう。4千円(4千5百円)に気を取られて、60円などはどこかへ飛んでしまったのだろう。

6回
 新橋で久しぶりに会った小六は、一高入学直前にもかかわらず、信じ難いことだがちゃんと挨拶出来なかった。同じ章の3回には、子供時代の小六の麦藁帽踏み潰し事件が書かれ、玄関靴脱ぎっ放し事件(2章ノ3回)と併せて、小六の再教育(坂井の書生)への伏線となっている。

7回
 小六の学年書き誤りの回である。叔父が急死したことを書いたがための動揺ではあるまい。宗助は御米に、ちっとは佐伯の家に出掛けてみたら、と言っているが、御米の気持ちを理解しない無神経な謂いであろう。宗助は小六に対してはともかく、御米にこれほど無神経なことを言うのは考えにくい。御米は安井を捨てて宗助に走った女である。宗助は本来こんな無神経な男ではない。言わせた漱石も苦しがって、つい小六の学年を勘違いしたのであろう。

8回
 房州旅行の後、小六は学資のことで嫌な目に遭う。漱石が房州旅行から帰ったとき、家では優しい嫂登世が迎えてくれた。嫂との生活は僅か3年である。房州旅行はその真ん中辺の思い出であるが、漱石は小六には苦い記憶を与えた。込み入った話だが、登世の死を、小六に追体験させたかったのだろうか。

9回
 財産横領事件。始まりは明治38年、家の売却である。その金で建てた神田の家が焼けて、宗助の資産が失われたのが明治39年。明治38年~明治39年の頃、漱石神経症の危機を『猫』で乗り切った。しかし『猫』だけでは漱石の精神は再生されなかったのだろう。叔父による財産横領事件を創り出さざるを得なかった。前著でこの問題は結局兄弟の問題であると述べたが、漱石は自分が世襲財産を獲り損なったことを、忘れることができなかった、とは言える。

10回
 叔母の言い訳。そもそも神田の家が焼けたというのが虚偽だとすれば、安之助の資本金(5千円)の出所は理屈に叶う。骨董品がすべて搾取されたというのも、それが安之助の学資になったとすれば、辻褄が合う。佐伯の叔父は山師である。残された叔母と安之助が、中流家庭の様な生活が送れるはずがない。というのは言い掛かりであろうか。

11回
 宗助の父は岸岱の虎の画の汚れを気にしていた。画ではないが、野上弥生子の回想に似たような逸話が語られる。漱石もまた、(当り前だが)大事なものを汚すことを大変気にして、それを隠そうとしなかった。気取らず、正直なのである。

12回
 第2回に続き、小六の不安と宗助夫婦の無関心が描かれる。無関心なのではない。ただどうしようもないのだ、と宗助は言うであろう。しかし夫婦は縁日で花の鉢植えを買って、1つずつ提げて帰る。漱石は庭造りは嫌いでない。宗助もその片鱗はある。漱石がどう書こうが、宗助は余裕の人である。御米も宗助に倣っている。小六はやり切れまい。

13回
 小六の不満が安之助を介して3たび語られる。しかし夫婦は上の空である。床を並べて寝る二人の夢の上に、高い銀河が涼しく懸った。小六が気の毒になるというよりは、読者はなぜか却って清々しい気持ちになる。暗いはずの話が少しも暗くない。自然に滲み出るユーモアのせいだろうか。そういう文章になるのは漱石の人柄だろうか。

14回
 すべては御米の言うなりに事は運ぶ。「女の言う事は決して聞かない」(『猫』)ように見えて、漱石の男は何一つ自分では決められない。結局は女の言う通りになるのである。それは三四郎から『明暗』の津田まで一貫している。野々宮宗八が美禰子と結婚しなかったのは、美禰子がプロポーズしなかったからである。その理由は(倫理上)当時そんなことをする習慣がなかったからで、『虞美人草』の藤尾は唯一の例外であるが、不自然にも漱石によって抹消されてしまった。御米の指導を受ける宗助は、藤尾に支配される小野さんや千代子に論破される市蔵にも似ているが、何より夫婦であるからには、お延の言いなりになる津田と瓜二つである。
 いずれにせよ、この回で長い「前書き」が終り、物語は発端へ帰る。

漱石「最後の挨拶」門篇 23

109.『門』一日一回(1)――『門』目次第1章~第3章(ドラフト版)


 漱石は胃の不調もあったが、『門』をほぼ一日一回のペースで執筆した。その意味で『門』は『明暗』の魁となる小説である。『門』と『明暗』は似ている。この2作は、『彼岸過迄』『行人』『心』の短編形式中期三部作や、自伝的要素の強い『道草』等と、明らかに一線を劃すつがい・・・の作品である。主人公夫婦二人を描いた物語であることも共通しているし、小説の「主格」が、(1人称にせよ3人称にせよ)ふつうは一人であるべきところ、(規模はまったく異なるが)二人に亘ることも、また共通している。
 それで1日に1回ずつ書いた漱石に敬意を表して、論者も1回ずつ目次に加えて簡単なコメントを書き添えることにする。論考とは無関係の単なる感想・メモ・蛇足になるだろうが、門篇はこれでおしまいにするつもりであるから、補足説明の意味合いもある。

第1章 宗助手紙を書く
明治42年10月31日(日)
(宗助・御米・小六)
1回 宗助は海老のように身体を折り曲げて縁側で日向ぼっこをしている。
2回 茶の間につづく座敷の外には崖が迫って、朝のうちは日も射さない。
3回 宗助が散歩に出掛けた留守に小六がやって来る。(宗助不在の回)

1回
 身体を海老のように丸めて寝るのは、胃腸の弱い人に特有の習慣である。漱石と並ぶ国民作家長谷川町子も、アイデアを出すためにスルメを齧る癖があり、そのせいで終始胃痛に悩まされた(胃痛とスルメに因果関係はないと思うが長谷川町子はそう信じていた)。2人は似ているのである。

2回
 宗助の家が崖の下にあって日当たりが悪いことは、日本のすべての読者が同情的に納得するが、果たしてそうだろうか。野中家の東側が崖(地層面)でなく、2階建の屋敷だと書かれていれば、当然ながら小説の雰囲気は随分変わってくる。しかし高層マンションが立っているわけじゃあるまいし、日照については、(朝のうちに限っても)それほど違いはないのではないか。隣りが崖であれ家屋であれ、夜が明ければそれなりに明るくなるのではないか。そしていったん昇った太陽は(雲さえなければ)、平屋の貧しい家にも公平に射すのである。

3回
 そして『三四郎』『それから』と読んできて、ここで始めて読者は主人公が表舞台から消え去るシーンを目撃する。(『明暗』では第45回で読者は同じ体験をする。)宗助は漱石作品で始めて罪を犯した男として登場するが、思うに漱石は倫理的罪を犯した宗助と一心同体であることに我慢出来なかったのであろう。時々(息抜きのように)宗助を離れたかったのであろう。

第2章 宗助散歩をする
明治42年10月31日(日)
(宗助・御米・小六・風船ダルマの男・清)
1回 宗助は日曜なのにいつもの電車に乗って、また違う風景を楽しむ。
2回 宗助は駿河台下で電車を降りて、色々な店のウインドウを覗き込む。
3回 宗助は江戸川橋の終点に帰り着く。「誰?兄さん?」

1回
 漱石が電車通勤した経験がなかったことは、この回の書きぶりでも分かる。勤めが休みのときに同じ電車に乗ってみようという発想は珍しい。漱石は嘘は書かない。散歩がてらなり用事なりでいつも乗る電車の路線が、宗助の通勤の路線と重なっただけである。

2回
 達磨の形をしたゴム風船を売る男は「黒い山高帽を被った三十位の男」と書かれる。宗助も三十くらいである。自分(宗助)と同年配の男と、漱石はなぜ書かなかったのだろう。それは漱石がこのとき四十くらいだったからに他ならないが、この風変わりな大道芸人は『明暗』にも登場する。

3回
 前述したが、「誰? 兄さん?」という御米の言葉は何遍読んでも不思議である。それでいて他の言葉に置き換えられない。このとき漱石は、宗助・御米・小六の3人全員に平等に降臨していたのではないか。帰宅した宗助と座敷から出て来た小六は玄関で顔を合わせた。そこへ台所にいる御米が物音を聞いて上記の声掛けをしたのであるが、漱石はこの3人の存在を一手に引き受けて、3人共が納得するセリフを御米に吐かせた。真似したくても出来ないのが漱石の文章作法である。

第3章 宗助晩酌をする
明治42年10月31日(日)
(宗助・小六・御米・清)
1回 銭湯から帰る宗助と小六。猪口付きの夕食。
2回 伊藤公暗殺~満洲は物騒な所~御米は妙な顔をして宗助の顔を見る。
3回 小六は宗助が佐伯に学資の交渉をしてくれないのが気掛かりだが、宗助は神経衰弱らしい。

1回
 昔から酒豪の作家を驚倒せしめた漱石の晩酌シーンは、漱石ファンには微笑ましく映るが、一方漱石とは正反対に「いくらでも飲む」代助もまた、それがゆえに親近感を抱かせる。飲めても飲めなくても人気がある。それもまた漱石の徳であろう。小説の発想や組み立てが、酒にも他の物にも依存することがないのである。

2回
 伊藤博文に限らず漱石は明治の元勲に興味はない。といって徳川にも何の恩顧も感じない。漱石もまた、自分の主人は自分一人なのである。そして「満洲」に対する御米たちの反応。芋を埋めてあるのは『明暗』に限ったことではない。『門』もまた、それらを掘り起こしつつ進行するのである。

3回
「姉さん、さようなら」こういう何でもない挨拶をちゃんと書く。前述したが、小六が来たときの「やあ、来ていたのか」。ちゃんと書いて陳腐にならず、くどくもならず。繰り返すが、真似して出来るワザではない。試しにこのくだりを削除して本文を読み直してみると分かる。漱石は必要だから書いたのである。それもごく平易に。