明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 25

399.『道草』番外編(5)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(3)


(前項より続き)

長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(つづき)

 江戸っ子の所作
 話は外れたが、夏目君とそうして相対しているうち、私はふと君の顔の表情や身体のこなしに、強く現れている特徴を観察することが出来て、何んだか擽ぐったくなった。夫れは全く私達の家庭の生活の夫れであった。私達の江戸趣味の家庭は、私自身の書生生活とは全然趣味の異ったものであった。私は此の意味でも二重生活をして来たものである。ところが夏目君と斯う二人きりで相対していると、私の平生の書生生活から、昔の家庭生活に飛び退(しさ)ってしまったような気がするのだ。そう思わせたものは、全く夏目式の表情とこなし、、、とであった。
 何か云ってから顔面の筋肉を動かす調子を見ると、先ず口の一方をキュッと締めて同時に夫れと反対の側の目尻の筋肉を収縮させる。つまり顔の筋肉を対角線的に運動させる。これは江戸ッ児でなければ滅多に見られない筋肉の収縮法であった。だから江戸ッ児を模倣しようとするものは、先ず此の顔面の筋肉の収縮法を模するのである
 此の対角線的の運動は顔面の筋肉のみに限らない、身のこなしにも出て来る。が夏目君は此時洋服を着て居たので、私は其の時は未だ十分に夏目君のこなしを観たとはいえなかった。後に屡和服姿で坐った君を見てから君の身体のこなしに江戸的特徴のあることを十分に認めた。
 夫れは、坐った格形が、腰を下ろして背を後にやって、膝の上の面積を広くして、一方の肩を落して、其肱を軽く膝に突き立てるという形である。そうして斯う坐った形が、話の調子で運動する時には、矢張対角線的に、一方の肩が動くと反対の側の肱や膝が動くのである。これは元より特徴で、何時も常に斯ういう格形で坐って斯う動いたのではないが、君が最もくつろいだ時に最も能く此の特徴に落ちる。
 君の此の特徴の余り顕著に現れた時に、私は何時も高座の上の落語家を思い出した。今の落語家は余り知らないが、一時代前の円朝から円喬に至る時代の落語家の優秀なものの態度や口調が、往々夏目君の会話や講演に現れていた。殊に君の講演は術として精錬されたものであった。高級の思想上の発表に、夫れを妨げない限り、夫れを毀けない限り芸術としての落語術を応用したものであった。勿論言語に於ても、態度に於てでもある。が其スタイルには、何等落語術としての聯絡を想到せしむるような露骨はなかった

 本段落の江戸っ子の所作は、これもその通りだとは思うが、顔の表情や肩の動き等、(論者が江戸っ子でないこともあって)なかなか真似するのは難しい。また真似て出来る仕草でもないだろう。江戸っ子、江戸の武士という連想から、やくざ、やくざ者の例の肩を揺らす歩き方も、そのルーツは同じ所にあるのかも知れない。
  前項の引用文Ⅴ 明石の講演旅行の末尾――「蛸ッていうと思った」と例の通り顔の筋肉だけ動かして笑った――という書き方も、そのような仕草をする時代劇俳優でもいれば分かりやすいだろうが、格別映画ファンでもない論者にとってはすぐに思いつく人もいない。往年の銀幕スターで謂えば、大友柳太朗のニッと笑う顔などはどうだろうか。大友柳太朗は(漱石の)松山中学の出身で、その後身の松山東高校を出た伊丹十三も、笑うとすれば捻ったような表情で笑うクチだろう。(大友柳太朗は自身の墜落死の直前に伊丹十三監督の第2作目の映画に出演していた。)――論旨がずれるが松山・高松・岡山といった地方は、距離的に近い京大阪よりは、人の気質としては東京に近いものがある。広島もそうだが、言葉遣いに乱暴なところがあり、(つまり情緒に訴えるのではなく理屈が勝る喋り方をする、)江戸の洒落や粋を感覚的に受け容れやすい人種ではなかろうか。
 とりとめのない話ついでにもう1人、萩本欽一というコメディアンがいる。漱石同様彼も純粋な下町っ子とは言えないが、あの(チャプリンのような)左右非対称になるような笑い方を、下町風と謂うのではないか。――共に国民的な人気を獲たことは別として、漱石との共通点は「キンちゃん」だけであろうが。

 余談はともかく、噺家の坐った姿勢に江戸っ子の粋の1典型を見るとすれば、漱石の中にそれを感じるということは大いにあり得るだろう。一方落語家ならぬ講談師・講釈師の「正しい」立ち姿というものもまた、弱年時から漱石が広く親しんだものの1つであった。漱石もまた教壇では姿勢正しく立っていたのであろう。姿勢(立ち姿)が好いということで、声が好くなる、講義・講演が上手いということにも自然につながる。
 考えようによっては、江戸っ子の一面と称する所作のアンバランスは、姿勢と声をわざと悪くしている、と言えなくもない。優男の風邪ひき声、という言葉があるかどうか知らないが、(風邪をひいて声が悪くなっているという)マイナス面も同時に見せる。好いところも悪いところも常に同時に見せる。それが洒落になっていると思い込んでいるフシがある。正装をしているのに寸法が合わない。チャプリンの笑いの王道の中にも、「江戸の粋」はちょっとだけ含まれているのかも知れない。

Ⅸ オートストロップ
 そういう事( 前段落Ⅷ 江戸っ子の所作は私は後に至って知ったのであったが、其の特徴は始めて見た洋服姿の君に於て既に隠されてはいなかった。そうして君の江戸的生帳面な其の風采のことを思い付いた私は、自然話を其方に持って行った。
 君の顔には薄イモがあって髯は可なり濃いようであったが、奇麗に剃られていたので、それを剃る剃刀のことを尋ねた。すると君はオートストラップを使用していると答えた。私は能く其のオートストラップなるものを米国雑誌の画で見ていたが、実物を知らなかったから説明を聴いた。君は其の簡便なることや安全であることなどを話して、砥皮が日本では時候によって黴が生えるが、満洲では黴びない。今持っているのは黴びたのを拭って満洲へ行って向うで使っている間は少しも黴びなかったが、下関に上ったらモウ黴びたといって「日本は黴の多いとこだ」と皮肉をいった。
 で私は其後間もなく其のオートストラップを十一円五十銭を投じて丸善から求めた。侃堂(丸山幹治)が「君の顔には高過ぎる」といったが、八年後の今日でも砥皮を一度代えて、代刃を一回求めたのみで、能く働いているから高いものではなかった。君が例の講演後の病気再発で幸いに事なきを得て東京へ帰ってから長与博士の病院に入った時に、私が訪ねたら、又話が何かの拍子から其のオートストラップに飛んだ。其時君は、不思議なことを話すようにして話した
 夫れは君の隣室の病人が、毎朝君の室で一定の時刻一種音響がするのをきく。始めは何か治療の機械でも動かしているのかと思ったが、看護婦や医者に尋ねてもそんな音のする機械はない。体操具にしては、君の病質から合点が出来ない。深呼吸にしては強過ぎて短過ぎる。というので其の人は定めしあらゆる似た音のするものを考えたことであろう。とうとう何うしても判断が付かない。となると愈夫れが神経を昂奮させる。堪らなくなって、君の室に其の音響の原因を質問に寄こした。夫れは即ち件のオートストラップを毎朝君が規則立って使った後で砥ぐ音であったのだ。君が其事を私に話す時に君は隣室の人が其の音響について疑念を抱いていた間の心理上の経過に余裕の趣味を持っていたらしく見えた。其後の君の小説には、そういう種類の心理的描写が屡々あったようだ。

 この段落は天下茶屋でのオートストロップの話に、『変な音』の楽屋落ちのような話が入り混じっている構成になっている。
 オートストロップが満洲では黴びなかったのが、下関に上陸したとたんもう黴びた。日本は湿気が多い。だが髯は綺麗に剃れる。如是閑もかねて知っていた舶来の自動革砥を早速購入に及んだ。それが「八年後の今日」まで無事であるというのはいいとして、その「八年後」とはどういう計算から出て来た数字であろうか。
 如是閑の回想文の冒頭を再度引用すると、

 変な事には、私は何時初て夏目君に逢ったか判然と覚えていない。今から八年ほど前のことだ。私が大阪に来て間もなく、天下茶屋の下宿を引払って、其近辺に家を借りて・・・其頃のことで、社に出ていると、其婆やから夏目さんが見えたという電話だか電報だか使いだか通知を受けて、昼頃に其家に帰ったことを覚えている。潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた。(長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』冒頭再掲)

如是閑年表
明治41(1908)年春 大阪朝日入社
明治41(1908)年夏 天下茶屋の高等下宿(遠藤)
明治42(1909)年春 近所の2階建て借家(婆や)
明治42(1909)年10月 漱石天下茶屋訪問~浜寺での会食~オートストロップの話
明治44(1911)年8月 漱石大阪講演旅行
大正5(1916)年12月 『初めて逢った漱石君』執筆の今現在

 如是閑が天下茶屋の借家に家を構えたのが正しく今から8年前である。漱石満洲帰りに立ち寄ったのが7年と2ヶ月前。如是閑がオートストロップを購入した時期は、漱石天下茶屋を去った後であろうから、どう考えても今から7年前であって、8年前にはなり得ない。如是閑はつい前の文言に引きずられて「8年後の今日」と書いてしまったのか。それとも漱石との天下茶屋の諸々を丸ごと「8年前」にまとめてしまったのか。まあ7、8年前と書けば何の問題もないところではあるが、漱石と如是閑、ヘンなところに共通点があると言わざるを得ない。

 そのオートストロップについて、漱石は長与胃腸病院への最初の入院(明治43年6月~7月)、修善寺の大患(同年8月~10月)、長与病院再入院・『思い出す事など』(同年10月~明治44年2月)のあと、半年後の7月に『変な音』という小品を書いている。
 続く明治44年8月には明石旅行で如是閑に再会して、蛸を食って大阪の湯川病院に入院したのであるが、入院ということでいえば(痔の手術を受けた佐藤病院を除いて)、もう漱石はどこの病院にも入院しないまま終わった。
『変な音』は『病院の春』と同じく、『思い出す事など』の外伝という位置付けであろうか。

①1回目の長与病院入院時。隣室から大根卸しを擦るような音が聞こえて気になって仕方がない。しかし黙って退院した。
②(大患後)2回目の入院時に当該異音の隣室の看護婦に当たった。
③その看護婦は漱石を覚えていたが、思いがけず「前回のとき毎朝きまって変な音がしたが、あれは何をしていたのか」と「逆襲」された。
④驚いた漱石はオートスロップの音である旨応えるが、ではそっちの部屋で音をさせたものの正体を問うと、熱冷ましのため大根ならぬ胡瓜を擦っていたというのが看護婦の返答。
⑤その隣室の患者は、漱石の部屋から聞こえる(革砥の)異音を気にしたまま亡くなったという。

「異音」をモチフにして若い看護婦との交渉を綴った掌篇小説ともいえるもので、二転三転の落ちまでついている。また病と死という通奏低音に目を留めれば、渋い随筆とも評されよう。ユーモア、諦念、悲哀、女に対する吟味、探偵趣味、――あらゆる漱石の要素に加え、他人の出す騒音を気に病みながら、自ら発する音響にはまったく無関心という、(苦沙弥先生さながらの)いかにも漱石らしい建付けになっているところも、ファンにとってはたまらなく贅沢に感じる一品であろう。
 その『変な音』に対して、如是閑の方の文章では、同じ素材を扱っておりながら上記①~⑤のいずれにも当てはまらない書き方になっていることが分かる。

⑥隣室の患者が、漱石の(オートストロップの発する)異音を怪しんで種々悩み、ついには看護婦をしてその原因を聞きに来させた。

 両者は似て非なるもので、大根卸しの話がないのはいいとして、如是閑の記事の方は、隣人の疑問だけの話に集約され、完結している。漱石の異音によって生起した隣人の悩みは、漱石(と看護婦)の回答によって解消・解決した。本当に漱石はそのように話したのだろうか。漱石が自己の体験通りに『変な音』を書いたのだとすれば、漱石はかなり脚色(省略)して如是閑に話したことになる。つまり漱石は異音のエピソードを、人に話すときは他人(隣室の患者)の心情に即して、自分の作品( essay )に書くときは自己に即して語っている。小説( novel )の場合はその統合であろうが、それを小説家でもあった如是閑は、主人公が相手の心理状態の流れ(経過・変化)に逐一対応するという、漱石作品の特質をちゃんと指摘しながら、この話を紹介している(引用部分末尾)。

 ところで如是閑が漱石から入院病棟でオートストロップの「音響事件」について話を聞かされたのはいつのことか。如是閑の記憶には一部混同があるようだ。

オートストロップ年表
明治42年10月 天下茶屋訪問~オートストロップを使っているという話
明治43年6月~7月 長与胃腸病院入院~異音の話
明治43年8月~10月 修善寺の大患
明治43年10月~翌年2月 長与胃腸病院再入院~異音の話の続き(オートストロップの落ち)
明治43年10月~翌年2月 『思い出す事など』
明治44年7月 『変な音』
明治44年8月 明石和歌山堺大阪旅行
明治44年8月~9月 湯川胃腸病院入院(最後の胃病治療入院)
大正5年12月 『初めて逢った漱石君』執筆の今現在

 引用文Ⅸ オートストロップ下線部の「君が例の講演後の病気再発で幸いに事なきを得て東京へ帰ってから長与博士の病院に入った時に、私が訪ねたら」について、この「講演」というのは明石大阪の講演のことであろうから、前述のように帰京した後の漱石はもう入院はしておらず、これは湯川病院で聞いた話を如是閑が勘違いしたものか。しかし如是閑は(「湯川病院」でなく)「長与博士の病院」とはっきり書いており、漱石の日記書簡に記載がないからといって如是閑が上京の折に漱石を見舞っていないとは断言出来ない。実際に長与病院で聞いたとすれば、「講演後の病気再発」という語句が難解なものになるが、まさかこの講演が明治41年如是閑が大阪朝日に入社した頃の東京朝日主催の講演『創作家の態度』を指すのではないだろう。
 大阪へ行ったのちの如是閑が漱石と確実に対面しているのは、上記オートスロップ年表の下線部付き3箇所だけである。如是閑が「音響事件」を聞いたのは長与病院でなければ湯川病院だけということになる。漱石の小品『変な音』は如是閑の回想と微妙な点で全てずれているから、如是閑の方のオリジナリティは疑いようがない。では如是閑の書いた方が漱石の実体験で、『変な音』が漱石の創作かというと、その場合もまた如是閑がその話をどこで聞いたかという問題は残ったままである。藪の中とはこのことか。

Ⅹ おあとがよろしいようで
 私達二人の話が、腸のことに移って更らに下の方へと移って行く頃、夏目君の大阪を起つ時間が迫って、私達は浜寺を去らなければならなかった。二人は話が偶然にも因襲的の結末に帰着したのを笑いながら立ち上った。そうして君は夜の汽車で東京へ帰った
 東京へ着いた後の君の身体の模様などを尋ねようと思って果さないうち、君から手紙と小包と貰った。開けて見たら味付海苔の罐詰であった。そういう生帳面の点で江戸趣味を継承していない私は、君の生帳面にたじろいだ。(長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』全文引用畢)

 浜寺を出たあと、漱石はいったん大阪の朝日社屋近くのホテルに戻り、その夜改めて如是閑や高原操ら朝日の連中に見送られて、梅田から(東京へ直行するのでなく)京都へ向かった。漱石は京都の汚い宿で1泊し、次の日の夜行急行で東京へ帰ったのである。
 如是閑の書く「そうして君は夜の汽車で東京へ帰った」というのは、間違いではないにせよ、何かと混同しているような感じも受ける。2年後の明石の蛸のときは、梅田駅発寝台急行に鏡子夫人も同伴しているから、そのときの記憶と取り違えているとも思えないが。
 いずれにせよ如是閑自身も、Ⅲ 立小便する漱石で「私の記憶はモヤモヤになって」と書いているくらいだから、新聞に出た記事だからといって、正確性を求めても仕方がないのである。
 それで如是閑の記憶力の補完として、漱石の日記を再録してみよう。

〇日記/明治42年10月15日(金)
 昨夜九時三十分広島発寝台にて寐る。夜明方神戸着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顔を洗い食堂に下る。ホテルの寝室の設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を駆りて朝日社を訪う。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鉄砲打に出で、社長は御影の別荘なり。天下茶屋迄車を飛ばして遊園地の長谷川如是閑を訪う。遊園地の閑静にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意。如是閑遠藤という高等下宿を去って近所に家を構う。去って尋ぬるに不在待つ少らくにして帰る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢う。如是閑浜寺へ行こうという。行く。大きな松の浜があって、一力の支店という馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食う。マヅイ者を食わせる。其代り色々出して三円何某という安い勘定なり。電車で帰る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに入るともう六時であった。六時四十四分の汽車にのる。如是閑と高原と金崎とがやって来た
 此汽車の悪さ加減と来たら格別のもので普通鉄道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の賃銀を取るんだから呆れたものなり。乗っていると何所かでぎしぎし云う。金が鳴る様な音がする。暴風雨で戸ががたがたいうのと同じ声がする。夫で無暗に動揺して無暗に遅い。
 三条小橋の万屋へ行く。小さな汚ない部屋へ入れる。湯に入る。流しも来ず御茶代を加減しようと思う。(最中を三つ盆に入れて出す抔は滑稽也。しかも夫をすぐ引き込めて仕舞う。)此宿屋は可成人に金を使わせまいと工夫して出来上がったる宿屋也。金のあるときは宿るべからざる所也。(定本漱石全集第20巻日記断片下)(再掲)

 一別後漱石から手紙と小包が届いたが、その手紙はもちろん残っている。

〇書簡/明治42年10月30日(土)長谷川如是閑
 拝啓。浜寺では御馳走になりました。あの時向坐敷の小僧が欄に倚って反吐をはく処は実に面白かった。ここに御礼として浅草海苔二鑵を小包にて呈上すどうぞ御受取被下。小供がいたずらをして一つの箱の貼紙を剝がして仕舞いました。以上。(定本漱石全集第23巻書簡中)

 どうでもいいことだが、浜寺の座敷の欄干から反吐を吐く小僧が、文芸上この世に始めて出現したのが、この書簡である。2度目が大正2年の『行人』、3度目が本項、大正5年の如是閑の回想文ということになる。浜寺の小僧は足掛け8年に亘って日本近代文学に(ほんのちょっぴり)貢献した。

 最後にもう1つ、如是閑の引用文の最後、話題が胃腸の話から下腹部に移って、つまり下ネタになったのだろう、如是閑は「因襲的の結末に帰着した」という書き方をしている。このとき漱石43歳、伸六が前年生れているから2男4女の妻子持ち、8歳年下の如是閑35歳、独身である。漱石は猥談は好きではないが、受け付けないというわけでもない。狩野享吉みたいに生涯独身を通した如是閑と、どのような話で盛り上がったのだろうか。

(この項終わり)


漱石「最後の挨拶」道草篇 24

398.『道草』番外編(4)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(2)


(前項より続き)

長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(つづき)

Ⅴ 明石の講演旅行(2年後のイベントを挿入)
 其年だったか翌年だったか君は明石に講演に来た時も、海岸の料理屋で、平気で何でも食べて、とうとう飯蛸まで食べようとしたから、私は猛烈に攻撃した。でもとうとう食ってしまったようだったが、講演を終わって東京へ帰らぬうちに、前の病気が再発して、大阪の湯川病院へ入れられた。
 其時ほど私を狼狽させたことはない。病気は、医師が必ずしも恢復を保証しない位重大なものであった。兎に角も夫人に電報で下阪を求めて、私は社の販売部長の小西氏と二人で特に此の急場の危険に対し出来るだけの尽力を求めるべく湯川博士に会おうとすると相憎の留守で、医員に会って病状を聴いている時の、ヤキモキした不安は、何時思い出しても慄っとすると、小西氏は今だに云っている。
 私は、身体に微動も与えることを禁じられている俯向になったままの君を病室に見た時に、堪らなく焦ら立たしいほど、飯蛸を食った君に反感を持たぬ訳に行かなかった。で私は君を見るなり「だって蛸なんかを食うんだもの」と云った。君は夫れでも医師から命じられた通り頭も動かさずに、「蛸ッていうと思った」と例の通り顔の筋肉だけ動かして笑った

 この段落については変則的にも、本体の明治42年を回想した文章に、明治44年の大阪朝日の講演会のときのエピソードが追加挿入されている。漱石の大阪朝日の講演会は、「其年」でも「翌年」でもなく、正確には「翌々年」の夏である。このときの4回(明石・和歌山・堺・大阪)の講演に如是閑がすべて付き合ったかどうかは別として、如是閑は明らかに明石の蛸の年次を失念している。前項で述べた通り、自身の天下茶屋転居については正しく8年前と認識しているが、漱石の明石行きがその何年後だったか、まあそちらの方は業務・職務の位置付けであろうから記憶が曖昧なのは無理ならぬところ。
 この関西講演旅行については後にまた触れることになると思うが、「蛸ッていうと思った」は、漱石という人の魅力をよく伝えている。断片とはいえ漱石の小説を読んだだけでは味わえない本人の魅力。家族、弟子や友人の書き残したものにも、これほどのものは滅多に見当たらない。例えば鏡花の「夏目さん、金之助さん、失礼だが、金さん。何うしても岡惚れをさせるじゃありませんか」(泉鏡花『夏目さん』大正6年1月「新小説」)などは、むしろ文人鏡花の魅力を際立たせるものであろう。如是閑の方は漱石自身のセリフを使って、漱石という人物を一語で穿っている。真のジャーナリストと言うべきか。

Ⅵ 浜寺の小僧
 夫れ( 前段落Ⅴ 明石の講演旅行は後日の話だが浜寺の粗末な食事をタカジヤスターゼと一伴(しょ)に食べる君を、私は不安な心持で見ていたことは事実だ。其うちに向うの広間の二階の廊下に、若い商家の小僧のような身装の男が出て来て、手摺につかまって二三度身体を前にのめらしたと思うと猛烈に嘔吐を始めた。すると同じような装をした少し年上らしい若者がよろめきながら出て来て、吐いている男の背を撫でてやる。夏目君は此方の座敷からそれを見て、「見給え、アレで介抱しているつもりなんだぜ」といって、頻りに「面白いナア」「面白いナア」と繰返した。

 この段落が『行人/友達』そのものであることは言うまでもない。前項の引用箇所、Ⅳ 浜寺の大門の「トンネル」と、このⅥ 浜寺の小僧の「酔態」は、本体『行人』ではこう書かれる。

〇『行人』
 三人は浜寺で降りた。此地方の様子を知らない自分は、大な松と砂の間を歩いて流石に好い所だと思った。然し岡田は此処では「何うです」を繰返さなかった。お兼さんも洋傘を開いた儘さっさと行った。
「もう来ているだろうか」
「そうね。ことに因ると最う来て待って入らっしゃるかも知れないわ」
 自分は二人の後に跟いて、斯んな会話を聴きながら、すばらしく大きな料理屋の玄関の前に立った。自分は何よりもまず其大きいのに驚かされたが、上って案内をされた時、更にその道中の長いのに吃驚した。三人は段々を下りて細い廊下を通った。
隧道(トンネル)ですよ
 お兼さんが斯ういって自分に教えて呉れたとき、自分はそれが冗談で、本当に地面の下ではないのだと思った。それで只笑って薄暗い処を通り抜けた。
 座敷では佐野が一人敷居際に洋服の片膝を立てて、煙草を吹かしながら海の方を見ていた。自分達の足音を聞いた彼はすぐ此方を向いた。其時彼の額の下に、金縁の眼鏡が光った。部屋へ這入るとき第一に彼と顔を見合せたのは実に自分だったのである。(『行人/友達』第8回末尾)

 四人(よつたり)のいる座敷の向うには、同じ家のだけれども棟の違う高い二階が見えた。障子を取り払った其広間の中を見上げると、角帯を締めた若い人達が大勢いて、其内の一人が手拭を肩へ掛けて踊かなにか躍っていた。「御店ものの懇親会という所だろう」と評し合っているうちに、十六七の小僧が手摺の所へ出て来て、汚ないものを容赦なく廂の上へ吐いた。すると同じ位な年輩の小僧が又一人煙草を吹かしながら出て来て、こら確かりしろ、己が付いているから、何にも怖がるには及ばない、という意味を純粋の大阪弁で遣り出した。今迄苦々しい顔をして手摺の方を見ていた四人はとうとう吹き出して仕舞った。
「何方も酔ってるんだよ。小僧の癖に」と岡田が云った。
「貴方みたいね」とお兼さんが評した。
「何方がです」と佐野が聞いた。
「両方ともよ。吐いたり管を捲いたり」とお兼さんが答えた。
 岡田は寧ろ愉快な顔をしていた。自分は黙っていた。佐野は独り高笑をした。
 四人はまだ日の高い四時頃に其処を出て帰路についた。途中で分れるとき佐野は「何れ其内又」と帽を取って挨拶した。三人はプラットフォームから外へ出た。(『行人/友達』第9回)

すばらしく大きな料理屋」が、前項で引用した日記には、
一力の支店という馬鹿に大きな家」と書かれていた。
 漱石といえど、ただ精確を旨として頭に浮かんだことをそのまま書き綴っているわけではないことが(当然であるが)伺えよう。
 それはともかく、如是閑は熱心な漱石読者ではないと自ら言っているから、『行人』は読んでいないかも知れない。しかし『行人』引用文(佐野が1人で片膝を立てて待っている)と、前項天下茶屋での邂逅の、「潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた」という漱石が1人で腰を掛けて待っているシーンは、まるで同一人の筆にかかるかのようである。
 如是閑の丁寧さは、Ⅵ 浜寺の小僧の嘔吐シーンの記述でも明らかである。「手摺につかまって二三度身体を前にのめらした」の方が、『行人』の「手摺の所へ出て来て」だけより迫力がある。加えてⅣ 浜寺の大門のくだりの、「トンネル」に続いて、料亭では2階の座敷に通されたと明記されているところも、やはり実見したままを報告している如是閑の筆の方に勢いがある。これに比して『行人』のもう1ヶ所の引用部分は、主人公たちのいる座敷が1階にあるようにも読める。思うに二郎と漱石は岡田夫妻の家の「2階」に寝泊まりしていることを繰り返し強調しており、佐野を呼んだ昼食会場まで2階と書くのはくどいと感じたのだろう。処女作から絶筆まで、場面の高低差に常にこだわる(※)漱石にしては、珍しく曖昧な書き方になっている。もっとも前項でも述べたように、漱石は日記の段階から、なぜか「2階」の語を封印している。『行人』執筆時の思いつきではないということか。如是閑の方はそんなことを構う謂われはないから、2階の座敷で飯を食ったとそのまま書いている。

Ⅶ 江戸っ子の面目
 私達は、満洲の話や、文学の話や、政治の話や、夫れから夫れへと止め度なく話し合った。虞美人草』の話も出て私は其れに対する不満の数々を列べた。君は別に反対もせず賛成もせず、政府委員のような態度でいろいろのことを説明してくれた。主人公の自殺について話し合っていた時、私の云う事を聴いて君は、「······だッてえのかい」といってグッと口を結んだ。夫れが如何にも気六かしい人が如何にも気に入らないことを云われた時の表情としか私には思われなかった。後で知ったことだが、君は反対のことを人に云われると、其のまま其人のいうことを繰返して、其の語尾に「てえのかい」と付けて、夫れ切り何の説明をも与えないことがある。何うかすると君自身が面白いと感ずる言葉に対しても夫れをやるが、先ず反対の場合か又は条件を付ける必要のある場合に夫れをやることが多い。私が始めて君の此の調子に接した時に、気六かしい人だと聴いていたことが立証されたように感じた。けれども此の気六かしさは、私には馴染の多い気六かしさで、本場の江戸っ児に共通のものであった。つまり江戸っ児には、理智的立場の相違を直ぐに趣味的立場の相違と断じてしまって、ムッとするような気になる癖がある。夫れは殊に趣味性が発達しているので、人が理智から来た判断を以てやって来ても、直(じき)に夫れを劣位の趣味性から来た判断と思って、済度すべからずと諦めてしまうのだ。夏目君にも夫れがある。が君は中々諦めない。そうケナしつけて置いてから夫れを理智の方面から屈服させようとする。そう云う事から牽いて、君は感情又は感覚の問題を、論理の問題にすることが珍しくなかった。蟹堂(高原操)も話していたように、下読みをして来ない生徒に「先生でさえ下読みをして来るのに生徒の分際で」と小言を云ったというが、これは下読みをして来ない生徒に対する先生の腹立ちを表現するのに、外の先生にするように其まま「不埒」とか「横着」とか結論だけで叱り付けないで、三段論法に作って見せたのである。即ち
・出来ない者ほど下読みの必要がある。
・生徒は先生より出来ない。
・(故に)生徒は先生より下読みの必要がある。
 夏目君の会話や演説には始終斯ういう論理的構造をもったものが挿(さしはさま)まれた。夫れは、若し君に機智と滑稽味とがなかったら、余程困ったものになったに相違ないが、君は其の論理の機関(からくり)を機智と滑稽味とで運転していたから夫れを喰わされたものも毫も停滞の感じを起こさないで、寧ろ一種の快感を覚える。此点も江戸趣味の特徴が現れたものといえる。江戸ッ児は、憤怒や悲哀の発見にも、往々機智を交えたり滑稽味を加えたりする。夫れが為めに、江戸ッ児の憤怒や悲哀は、地方の人には間々不真面目に見られる。此点に於て江戸ッ児は愛蘭人にそっくりなところがある。これは江戸ッ児の町人が、封建的階級制度に対する反抗から来たもののように思われる。武士階級に対する腕力の反抗が不可能だから、智的屈辱を之に与えて自ら慰めるのである。夏目君の行動にも往々明瞭に夫れと同じ経路のものがある。大学教授を嫌ったり、博士号を馬鹿にしたりするのは、君ほど偉大なる力を持った人には何の必要もない反抗であるのに、君は自分で何等の力のない人のするのと同じ反抗方法を取って居たのである。純江戸趣味を受継いだ人間は、君のような大きい力を持たない人ほど尚、皆君と同じような反抗心をもって、君と同じような態度に出ているのである。君はそんな小さい反抗心や小さい反抗方法を取る必要のないほど偉大な力を持ちながら、それほどの力のない人の持っている通りの反抗心を発揮したから、其江戸的遺伝性を諒解しない人は、君の態度を殊更らしいと評するのである。が君は其殊更らしさが、君の皮肉の刺激を一層強くすれば更らに結構なのである。多くの人が成金的の権威を有りがたがるのに対して君は其の成金的権威に紳士としての待遇を与えまいとするのである。そんな権威と交際は真っ平だというのである。若し今の社会が全く此の成金的権威によって維持されているならば、寧ろ自分は非社会的に生きようというのである。「懐手をして世間を狭く活らしたい」という君の我儘は、私達の心の底に沈んでいる政治上芸術上の反抗心と共通の血液の凝結から出来ているのである。であるから、其の反抗心を「小さい」というのは、月並の常識に従った言草なのだ。メレディスの機智や、ショーの皮肉も、此の反抗心を十分に表現するには足りないほど大きいものだと私は思っている。夏目君だって無論十分だったとはいえない。

 如是閑は『額の男』の批評を漱石に書いてもらったにもかかわらず、漱石の忠実な読者ではなかった。大阪朝日に入ったとき、その前年に入社第1作として鳴り物入りで出た『虞美人草』だけは読んでいたが、おそらくその(作品構成上の)通俗性についての不満を、遠慮なくぶちまけたのだろう。『金色夜叉』と変わらない。何のために紅葉没後を俟つように登場したのか。(とは言わなかったと思うが、21世紀の現代から遡って斟酌すればそんなニュアンスのことを述べたのだろう。)
 文章上の(衒学的な)修辞についての批評であれば、漱石も苦笑いを以って聞き流したであろうが、――事実漱石は『虞美人草』で頂点に達したかに見えた、誰も使わない古代の漢語をこれ見よがしに配置した華美な文体をその後は封印した。――作中人物の言動についての「不自然」を謂うのであれば、漱石も肯うわけにはいかない。ましてやその「通俗(紋切)」を云々されたのでは漱石も反論せざるを得なかったのだろう。

 話は飛ぶが後年にも漱石は、『明暗』連載中に、第45回で突然描写の主格が津田からお延に替わったとき、それを指摘した地方の新聞社勤めの読者(富山の大石泰蔵)に対し、自分は主格を変更したつもりはない・普通の小説と同じく普通に(津田とお延を)叙述しているだけであると、平然と言い放っている。
 漱石の3人称小説には2種類(厳密には3種類)あって、多くは『三四郎』『それから』『門』『道草』のように、特定主人公の視点からすべてを描くものである。(ただ『門』では宗助のいない留守に御米と小六だけが登場するシーンが存在するが、基本は『三四郎』や『それから』と同じ書き方と見ていいだろう。)
『明暗』も運筆としてはそれらと変わらないが、途中から主人公が津田とお延の交代制になっているので、『明暗』だけは別物と考えるべきか。
 残る1つが『虞美人草』とそのトライアル『野分』である。『野分』は白井道也と高柳周作のオムニバス形式のようになっていて、2人が共に登場するときには、何とも正直なことに、一方が急に目立たなくなってしまう。その意味で『野分』は『明暗』ほど徹底していないにせよ、2人主人公交代制の魁と見ていいかも知れない。

(『明暗』を通俗小説と見做すことをしなければ、)『虞美人草』だけが漱石にあって例外的な所謂通俗小説である。小野さんと藤尾の恋愛物語。小夜子と井上孤堂の父娘愛。甲野さんと宗近君の友愛。(『二百十日』はその外伝であろう。圭さんと碌さんの友情は、『野分』高柳周作と中野輝一を経て、甲野欽吾と宗近一の友愛レベルにいったん到達した。「同級生」はその後も漱石作品で進展を見せるが、だんだんその間柄は込み入って来るようである。友愛の名残は『彼岸過迄』敬太郎と市蔵にかろうじて見られるものの、『行人』二郎と三沢には互いに通い合うものがあるとは書かれない。『心』は語るまでもなく危機の頂点を迎え、『明暗』での津田と小林は、『それから』の代助・平岡と比べるとすぐ気がつくように、明らかに最初からの仇敵である。)
虞美人草』の人間関係はさらに入り組み、甲野さんと藤尾、宗近君と糸子の「兄妹愛」は当時は広く書かれたもの。(今ははやらないが、その過去を総括するように登場して国民的な人気者となったのが「寅さん映画」であろう。)
 謎の女と藤尾は母娘愛とでも言うべきか、愛がないと言いいたいのか。物語としてのヒーローとヒロインは小野清三と甲野藤尾であるが、この1組のヒーロー・ヒロインの書かれ方は漱石の他のどんな作品とも異なる。漱石は小野さんとことさら一体化していないし、藤尾は始めから殺すつもりで造型している。
 しかし問題はこんな所(ステレオタイプな登場人物の性格と配置)にあるのではない。如是閑の言に関係なく、驚くべきことに漱石はどの小説も同じ書き方をしていると信じていた節がある。「私」と書く代りに「健三」と書いているだけ。健三と御住も、津田とお延も、代助と三千代と同じ書き方である。それどころかロシアの文豪の小説も皆、同じアプローチであると信じて疑わなかった。津田であれお延であれ、アンナであれイワンであれ、皆同じ書き方で書かれている――。

 如是閑の言う『虞美人草』の疑問点については、ここで想像しても始まらないが、如是閑もまた藤尾服毒説の1人であった。慥かに物語の始めからクレオパトラ清姫とくればが、誰もがそういったことを連想する。だが漱石はそんな月並を許す作家だろうか。漱石は藤尾の死因の特定には関心がなかった。読者がどのように取るかは読者の自由である。漱石が書いたのは、小野さんの決断に(半分は覚悟もしていたが)ショックを受けた藤尾の身体が、突然どうと倒れて別の世へ行ってしまったということだけである。そもそもクレオパトラ清姫にしても、その死は自殺とか他殺というありきたりの言葉で表現しきれるものではなかろう。
 如是閑は『虞美人草』の主人公の書き方や死に至る結末が定型的であると評した(と思う)。漱石はもともとそんな意図はない。自分が書くものが通俗小説であるとは一瞬たりとも思ったことはなかった(はずである)。

虞美人草』の話は置いておくとして、この段落における漱石と江戸っ子文学についての論評はその通りであろう。江戸っ子としての漱石の特質をよく言い表して、ごもっともと言うしかない。「だッてえのかい」という切り返しは漱石の江戸っ子ぶりの第3弾か。前の段落の漱石ぶり「蛸ッていうと思った」は、仮にこの段落の言い方「蛸のせいだッてえのかい」と、一見正反対に見えて、その底には似たようなメンタリティが漂っているということだろう。それを敷衍した「江戸っ子アイルランド人説」は、また別の驚きである。英国の中ではアイルランドユダヤの血が濃い方であろうが、ユダヤの風習は日本にすら残っている。
 ところで如是閑の言いたかったのは民族的な血統の話ではなく、前項でも述べた権力者への反抗心ということであろう。それこそが如是閑が真のジャーナリストであった証左である。多くの変人が自分は変人でないと信じているように、真のジャーナリストは自分がジャーナリストであるという自覚がない。ジャーナリストは特別な存在ではない。如是閑のような人は(漱石でもいいが)、人は誰しも(権力者当人以外は)反権力であると信じている。ことによると「権力者」自身でさえ、(他のよく分からない)より大きな「権力」に対して、自分こそ反権力であると思っているかも知れない。だからことさら反権力を言わない。翻って自分のことをジャーナリストであると主張しない所以である。
 漱石は反権力を標榜しない。引用文の最後で如是閑も言うように、「私達の心の底に沈んでいる政治上芸術上の反抗心」つまりもともと人間の出来が反権力に仕上がっているのであるから、言う必要がないのである。しかし漱石がそんなラディカルな江戸っ子の中に交わって居心地が好いかどうかは、また別の問題であろう。アイルランドに住むアイルランド人が皆幸福を感じるわけでもない。

※注)場面の高低差に常にこだわる
 漱石の作品には小説小品を問わず、見上げる女・見下ろす男という場景が頻出する(男と女が逆になることもたまにある)。男女を離れても、見上げる見下ろす・昇り降り・上下落下・高い低いといった動作・光景・シチュエーションに充ち溢れている。というのは大袈裟だが、この「高低差」(海抜の)が何に由来するものかは、考えて分かるものでもないだろう。例えば見上げているのが専ら女であることを思うと、女性のうなじ・顎から喉へかけてのライン、当然それは上体の(正しい)姿勢も含まれるのであるが、そういうものへの嗜好・憧れがあるのだろうか。それとも単に見る者に美しい映像や躍動感を提供したいだけなのか。
 こうした艶っぽい感覚と一見無縁に思える『猫』にしても、寒月の吾妻橋飛び降り事件、ヴァイオリン試奏山登り事件、窓の「下」に身を隠して東風たちの朗読会を盗み聞きする女学生、苦沙弥の眼前で上下する迷亭の喉仏と蕎麦、庭に落下して来る落雲館中学の野球ボール、池の中をぶくぶく歩きながら沈んで行く理野陶然、女の行水を見下ろす烏、その烏に馬鹿にされて跳び上がり、着地に失敗して垣根から転落する吾輩、その吾輩も最後は金田富子と婚約した多々良三平の土産のビールを舐めて水甕に落ちる。そもそも吾輩は登場したときから、くるくる放物線を描いて空を跳んでいたのである――。
彼岸過迄』鎌倉から独り帰宅した市蔵は、「1階」での食卓で作に、結婚したくないかと不躾な質問をして赤面させる。何か感じるところがあったかも知れない作の心が打ち砕かれるのは、翌日「2階」に上がって、市蔵と千代子のよく馴染んだ様子を目にしたときであった。作はどんな気持ちで梯子段を降りたのか――。
 枚挙に暇がないので例証については項を改めたいが、唯一の例外が『それから』の代助が三千代に告白するシーンであろうか。両者は終始洋間の椅子に腰掛けたまま額を寄せるよう向き合っている。しかしこれが漱石作品唯一の「告白」であるとするならば、このとき漱石がなぜ両者の位置(立ち位置)に高低差を設けなかったのかという理由も、何となく解かろうというもの。
 漱石の男主人公がなべて背が高い設定になっているのも、漱石自身の劣等感の補償などという卑近な動機ではなく、頭の位置の違いを読者の脳にイメジとして残すのが主目的なのであろう。男は高く女は低い。(あくまで外見の話であるが)男は強く女は弱い。男が上で女は下。そしてその高さの違いは、プロポーズシーンでもない限り、小説の中ではどこまでも保たれるのである。

(この項続く)

漱石「最後の挨拶」道草篇 23

397.『道草』番外編(3)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』


 田岡嶺雲と共にもう1人、少し年下だが漱石の同時代人として長谷川如是閑を取り上げたい。
 長谷川如是閑は明治大正、そして昭和の戦前戦後に亘って、「ジャーナリスト」であり続けた珍しい人物である。ジャーナリストは権力とその腐敗した部位を人々の前に明らかにして、個人としてそれと闘うことが職務である。といってことさらジャーナリストは自称するものでもないだろう。自称・吹聴する前に本人が常態として世俗(権力)と対峙していなければならない。愛のために世俗と対峙する人のことを仮に小説家と呼ぶとすれば、言論でそれを行なう人のことを、周りがジャーナリストと呼ぶのであろう。正義のために闘う人がジャーナリストである。漱石はたまたま愛と正義を同じものと見ていたが、如是閑もまたそのように感じる性向の人であったか。
 如是閑は漱石の倍近く生きたが、病気がちなところは漱石と同じで、言論に殉じるため(かどうかは別として)一生涯妻子を持たなかった。酒も煙草もやらず金があれば洋書を買い込む。官学とは無縁だったが、子規と入れ替わるように『日本』『日本及日本人』等を経て、朝日で10年記者を貫いた。倫敦遊学のキャリアを有し、意外にもスポーツ好き。昼に弁当を食う同僚を尻目にパンを焼いてチョコレートを沸かす(※)。漱石の弟のようなエキセントリックな一面を見せるが、相違点(寿命・妻子・煙草)はともかく、何といっても両者の一番似通ったところは「下町育ち」であろうか。
※注)パンとココアのくだりは元朝日社員佐柄木俊郎氏の『「大阪朝日」時代の長谷川如是閑〈序説〉』による。

 如是閑山本萬次郎は明治8年深川生れ。兄は東京朝日の山本笑月。長谷川は曾祖母の姓で、如是閑もまた漱石と同じ(苗字を許された町屋の)養子組である。漱石は早稲田で育ったようなイメジがあるが、実際には長く浅草で幼少期を送っている。(浅草から深川にかけての)下町はもともと漱石のホームグランドだったのであり、心情的にも2人は近いものがある。

 要するに敬太郎はもう少し調子外れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日の彼は少くとも想像の上に於て平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿っぽい空気が未だに漂よっている黒い蔵造の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍宛蠣殼町の水天宮様と深川の不動様へ御参りをして、護摩でも上げたかった。(現に須永は母の御供をして斯ういう旧弊な真似を当り前の如く遣っている。)夫から鉄無地の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世に崩して往来へ流した匂のする町内を恍惚と歩きたかった。そうして習慣に縛られた、且習慣を飛び超えた艶めかしい葛藤でも其所に見出したかった。(『彼岸過迄/停留所』5回)

 本ブログ彼岸過迄篇でも述べたことがあるが、ここでの漱石は、(憧憬なんぞではなく)エセイにも書かなかった下町っ子としての自分の姿を、珍しくもさらけ出している。『坊っちゃん』だけが(あるいは『道草』『硝子戸の中』だけが)漱石幼年時代ではないのである。
 とはいうものの朝日入社までの漱石と如是閑を結びつけるものは何もない(はずである)。2人の最初の接点は不明だが、明治42年秋、漱石は所謂「満韓ところどころ」の旅の帰途、下関に上陸したあと大阪朝日に立ち寄り、その足で天下茶屋の如是閑の家を(1人で)訪れている。その時のことについては如是閑が書いたものが存在する。漱石が亡くなってすぐに大阪朝日に出た『初めて逢った漱石君』である。ジャーナリスト如是閑は漱石についてはほとんど記事を残していないが、小説を書くだけあって、その回想文の中には妙にリアルな漱石像が窺える。やや長文に亘るが、それを(何回かに分けて)全文紹介してみたい。
 引用の底本は漱石全集別巻「漱石言行録」に収録されているものを新仮名遣いに直して使用する。解かりやすくするためいくつかに章分けして、リファレンス用にその章見出しを(勝手に)附す。
 如是閑は漱石の8歳年下であるが漱石君・夏目君と書いている。「君」というのは古文(韻文)は別として、当時は尊称でもあったのだろう。芥川も9歳上の志賀直哉に対して「志賀直哉君」と書くことがあった。

長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(初出大正5年12月18日大阪朝日新聞

Ⅰ 天下茶屋での邂逅
 変な事には、私は何時初て夏目君に逢ったか判然と覚えていない。今から八年ほど前のことだ。私が大阪に来て間もなく、天下茶屋の下宿を引払って、其近辺に家を借りて、女郎を娘に持っていると始終自慢していた遣手婆のような婆やを置いて、誰れかが他炊生活と評した生活を営んで、······営むは少し仰々しいが、其頃のことで、社に出ていると、其婆やから夏目さんが見えたという電話だか電報だか使いだか通知を受けて、昼頃に其家に帰ったことを覚えている。潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた。私は此時始めて夏目君を見たように覚えているが、其前に東京で逢ったようにも思われる。兎に角此時に、夏目君と私とが決して所謂初対面の挨拶なるものを交換しなかったことは確かだ。夫れだから、私は何うも其の前に二人は東京で逢っていたのではないかと疑うのだ。併し私が其時初対面の挨拶なるものを申出すのを忘れたのかも知れない。そうして夏目君も夫れを不必要と考えて、私にこういう挨拶をさせる手段を取らなかったのかも知れない。

Ⅱ 「カイ」に感泣
 其時夏目君と私とが初対面の挨拶をしなかったと覚えている訳は、玄関にいた夏目君と私とが最初に取交した言葉は確(しか)とは覚えないが、其時の夏目君の言葉尻に「……カイ」という東京言葉の特徴の殊に顕著に現れたアクセントを使ったことを覚えている。其頃私はまだ大阪に来て年が経たないので、四囲の大阪言葉に対して反感、というよりは、寧ろ遣る瀬ないような味気なさを感じて、斯ういう言葉の中に生活したら、男子に必要な精神作用は、表現の途を失って、宝の持腐れ的に腐れてしまいはしないかと不安に堪えなかった頃だから、此の夏目君の東京的の「カイ」という強いうちに懐かしみを持ったアクセントを聴いて、紛れたお父さんに出逢った子供のように、泣きたい位嬉しいと思った。夫れだから、私の記憶には、此時初めて夏目君に出会して突然「カイ」という言葉を浴びせられたように印象されている。そうしてソレは無論初対面のような形式的なものでなかったことは、少くとも私の印象の上では疑われない事実だ。此の事件の御蔭かと思うが、私は其の後夏目君に逢う度に、君の「カイ」という語尾のアクセントに、何時も惹きつけられるような懐かしみを覚えてならなかった。考えて見れば、夫れは私が東京で、生れてから毎日聞き倦きている極めて平凡なアクセントなのだから、少しも特殊の印象を私に与える性質のものではない訳だが、其の時に、私の沈滞し切った精神が、其のアクセントを聴いて、死んだ蛙の足に電流を通じたような工合に活気づけられたことが原因となっているのだ。

 東京の人如是閑は漱石に後れること1年、明治41年春に大阪朝日に入社して始めて阪地を踏んだ。しばらくして郊外の天下茶屋の下宿へ移ったあと、翌年には近所の借家に引越している。上記引用文の「今から8年前」というのは、今は(漱石の亡くなった)大正5年12月であるから、如是閑が天下茶屋の借家に居を構えた明治42年春のことを指す。如是閑の大阪移住は9年前。漱石満洲の帰りに天下茶屋を訪れたのは明治42年10月だから、8年前というよりは7年前になる。如是閑の記憶の中の暦は一応正確と思われる。
 ところが如是閑は記事のタイトルにもかかわらず(あるいは記事のタイトル通り)、漱石との初対面がいつだったか覚えていないと言っている。少なくともそのような挨拶をしなかったと繰り返し述べている。だが求めて知己を作らないタイプの漱石が、わざわざ初見の如是閑の家を訪問するだろうか。(末っ子の漱石は尻の軽いところはあるにせよ。)

 如是閑と漱石の初対面はいつか。明治42年10月15日(金)、天下茶屋での会見の前に2人が遭遇したかも知れないイベントは、もちろんすべて朝日がらみであるとして、次の4件が挙げられる。

・明治41年春、如是閑の大阪朝日入社
・明治41年2月15日、東京朝日講演『創作家の態度』
・明治41年2月17日、小石川の狩野享吉宛紹介状「大阪朝日社員長谷川満次郎氏を紹介する」
・明治42年9月5日、大阪朝日掲載『「額の男」を読む』(漱石の執筆は8月後半)

 一般的な長谷川如是閑の年譜によると、如是閑の大阪朝日入社は明治41年「4月」とされるが、2月の漱石の手紙(狩野享吉宛紹介状)が残っているからには、この頃すでに如是閑の入社は決まっていて、朝日の誰かによって先輩漱石に引き合わされていたと考えるのが普通であろう。
 ちなみに天下茶屋以後の両人の接点は、文芸欄開設や朝日の小説頁に関する業務上のやりとり(書簡)を別とすれば、2年後の明治44年盛夏の、(明石和歌山を含む)大阪講演旅行だけである。よく識られるように、(朝日入社時の『京に着ける夕』に続く)これら2度の関西旅行は、翌年以降の『彼岸過迄』と『行人』に多く結実した。
 その「天下茶屋」は、二郎が5泊した岡田とお兼さん夫婦の2階のある家として、「遣手婆のような婆や」は、同じく三沢のあの女の、親戚のような置屋の女将のような下女のような保護者として、『行人/友達』の重要な背景に使われている。

 段落Ⅱ「カイ」に感泣については、「~かい」という語尾に託して、全体として漱石の人柄(下町っ子としての血脈)がしみじみ偲ばれる記述になっている。極めてローカルな話ではあるが、巷に溢れる漱石ガイドブックが束になっても敵わないオリジナリティを感じさせる文章になっている。
 この2ヶ月前に『それから』を脱稿した漱石は、胃痛に耐えつつも、多分に義理掛け的ではあるが(鳥居素川に依頼されていた)、如是閑の『額の男』の評を書いている。その「『額の男』を読む」で漱石は、如是閑という人が文芸的・思想的にどういう人か知らないと言っている。会ったことがないとも取れるが、天下茶屋での如是閑の方は、「~かい」という言い回しは(いくら先輩の江戸っ子でも)初対面ではなかなか出て来ないだろうと思ってもいるようだ。
 これについては如是閑の気遅れという可能性も大いにあり得る。如是閑としてはまず批評の御礼もしくは反論から入るべきところ、照れ臭くて(気まずくて)漱石の顔前では『額の男』によう触れなかったとも考えられる。漱石もむろん如是閑が言わない以上自分から話頭に上らせることはない。互いにそれがひっかかって初対面の挨拶をしそびれたのであろうか。
 それとも最初から同じ朝日の社員・文筆業同士という意識から、他人行儀な振舞いを不要としたものか。如是閑は「江戸っ子」に話の方向を持って行っているが、何かわだかまりがあったとしても不思議はない。社員同士だから名刺交換しないという単純な理由なら、始めから気にしないはずである。

Ⅲ 立小便する漱石
 夏目君は背広を着て洒落た変りチョッキ見せていた。其日は天気が好く気候も好かったように覚えている。私の狭い家に夏目君が上ったか何うか、夫れも記憶がない。君は其時、君の所謂「是公」に勧められて満洲へ行った帰り途であったことなどを説明して、間もなく二人で何処か見物に歩くことになって外に出た。外へ出ると夏目君は突然往来の反対の側に立って小便した
 其側には家並はなくて崖になっていて、崖の下は植木畑で、其の向うに田圃を見晴らしている。君は小便をしながら何とか其の風景のことをいっていた。そうして振り返ると、私の長屋の高い塀を見上げて、何とか評した。私は上の方に窓を持った其の高い塀に反感を持っていたから、用心堅固だというような意味一向刺激のないような冷笑的の評を其の塀に加えた。すると君は、此塀は外の泥棒を防ぐよりは、中に泥棒を入れて外を安全にする塀だというようなことをいった。勿論其の意味をモット煎じ詰めたような刺激の強い言葉で云ったのだが忘れた。が夫れから硝子の片を植え込んだ塀や剣付鉄砲を並べたような塀のことを話しながら歩き出した。
 二人は夫れからつい近所の素川(鳥居赫雄)君の留守宅を訪ねた。其家は庭が広くて池や低い築山などがあって、縁先に高塀を立ててある私の家から此処に行った夏目君は頻りに感服して鳥居夫人と応対して居る頃から私の記憶はモヤモヤになって、私たち二人は浜寺に来た。

Ⅳ 浜寺の大門
 夏目君は無論浜寺は始めてだが、案内のつもりの私も始めてだ。二人とも朝飯を食った切りなのだから、好い加減腹が減って、始めての浜寺も碌々歩き廻ることはしないで、行き当たりばったりに大きな門を入って、大きい玄関を上って、トンネルのような廊下を通って宿屋の一間のような二階座敷に通された。君は廊下に出て、何だか変な所を通って来たと思ったらトンネルになっているのだと、余程嬉しい所でも通って来たような風だった
 其時の食物は、何でも甚だ粗末だった。当時君は修善寺で始めて今の病気を起して、辛うじて危険から脱れて間もないことだったから、私は君が食うものに箸をつけるたびに、何かしら言って干渉した。君は極めて無頓着で、出るものは必ず食べた。私は不安でならないから、干渉が段々猛烈になると、君は少しも夫れに抵抗しないが、黙ってクスクス笑いながら決して箸を休めない。そうして甘煮の栗を食べた時に、始めてポケットからタカジヤスターゼの錠剤を出して口に入れた。其癖君は、自分の健康を無理に楽観しているような事は云わなかった。自分の身体のことを話すのに人を心配させるような口調を用いた。君は私をして義理にも、君の箸の運動に干渉せざるを得ないように、自分の健康のことを話しながら、別の人のことを話しているような恰好で、平気であらゆるものに箸を持って行った。

『心』の先生もまた、私と郊外を散歩したときに立小便する(『心/先生と私』第30回)。漱石作品で立小便のシーンが書かれたのはこの1回ぎりであるが、『道草』で幼時の健三が高い縁側から転落して「(1週間程)腰を抜かした」(『坊っちゃん』第1章)というエピソードは、『心』の記述を受けて書かれたものであろう。漱石は何事であれ、突然(いきなり)書くということをしない人である。「芋が埋めてある」のは1つの作品に限らない。畑の芋は漱石の場合は全作品に亘っていると言えるだろう。それが例の「3部作理論」につながる。
 浜寺のトンネルもまた『行人/友達』の印象的なシーンとして蘇った。如是閑の書き方をそのまま受け取ると、「トンネル」と言ったのは漱石である。漱石は小説では(二郎でなく)お兼さんのセリフとして「トンネル」の語を発している。如是閑は自分でなく相手が「トンネル」と言ったと、妙に『行人』にフェーズを合わせた書き方をしている。

 タカジヤスターゼを飲んだというのは本当だろうか。タカジヤスターゼは『猫』(第1篇)で後代の人にも有名になったが、実際は第2篇で早くも放擲されている。
タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ。」(『猫』第2篇)
 明治38年にダメだと言ったものを明治42年にもまだ服用するだろうか。別の胃薬を如是閑が間違えたのか。鏡子の『思い出』を読んでも、漱石が同じ薬を飲み続けたような記述は見当たらない。
 それはまあどうでもいいが、引用文のラストの「自分のことを他人のように話す」というのは、「~かい」に続く、漱石の「江戸っ子ぶり」の第2弾である。江戸の粋のバリエーションであろう。

 ところで天下茶屋・浜寺での邂逅については漱石サイドの証言もある。ありがたいことに漱石は『満韓ところどころ』の旅に合わせて1ヶ月半ほど、簡単な日録を付けていた。邂逅の日の日記は長い方である。

〇日記/明治42年10月15日(金)
 昨夜九時三十分広島発寝台にて寐る。夜明方神戸着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顔を洗い食堂に下る。ホテルの寝室の設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を駆りて朝日社を訪う。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鉄砲打に出で、社長は御影の別荘なり。天下茶屋迄車を飛ばして遊園地の長谷川如是閑を訪う。遊園地の閑静にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意。如是閑遠藤という高等下宿を去って近所に家を構う。去って尋ぬるに不在、待つ。少らくにして帰る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢う。如是閑浜寺へ行こうという。行く。大きな松の浜があって、一力の支店という馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食う。マヅイ者を食わせる。其代り色々出して三円何某という安い勘定なり。電車で帰る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに入るともう六時であった。六時四十四分の汽車にのる。如是閑と高原と金崎とがやって来た。
 此汽車の悪さ加減と来たら格別のもので普通鉄道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の賃銀を取るんだから呆れたものなり。乗っていると何所かでぎしぎし云う。金が鳴る様な音がする。暴風雨で戸ががたがたいうのと同じ声がする。夫で無暗に動揺して無暗に遅い。
 三条小橋の万屋へ行く。小さな汚ない部屋へ入れる。湯に入る。流しも来ず御茶代を加減しようと思う。(最中を三つ盆に入れて出す抔は滑稽也。しかも夫をすぐ引き込めて仕舞う。)此宿屋は可成人に金を使わせまいと工夫して出来上がったる宿屋也。金のあるときは宿るべからざる所也。(定本漱石全集第20巻日記断片下

 如是閑は漱石が座敷へ上がったか覚えていないというが、漱石の日記が如是閑の記憶を補完する。しかしこの日記の書きぶりでは、漱石はその年如是閑が高等下宿を引払って借家に移ったことを知らなかったようにも読める。漱石が一方的に天下茶屋を訪ねたのだろうか。考えられないことである。漱石はただ如是閑が家を替ったことを記しただけなのか。弟子でもないのに、そんなことを気にするだろうか。
 漱石は(二郎がしたように)「二階」まで上がり込んで如是閑と対談している。漱石は2階なら2階と書く。幸いにも天下茶屋の2階は快適だった。ところが浜寺でトンネルの奥に通された、如是閑がはっきり書く料亭の「二階」の座敷の方は、漱石はまるで(階数に)関心を示さないようだ。少なくとも日記には「二階」と書かれない。何か理由があるのだろうか。まさかバランスを取っているわけでもあるまい。

(この項続く)


漱石「最後の挨拶」道草篇 22

396.『道草』番外編(2)――田岡嶺雲


 論者は先の項(本ブログ道草篇3~5)で漱石の年表を作成したが、その中に田岡嶺雲の名を何箇所か書き込んだ。漱石が『猫』で世に出てすぐに、田岡嶺雲が『作家ならざる二小説家』という短文を書いた事実を、ことさらに言いたいがためである。ここで改めてその前後の漱石著作年表を掲げてみよう。ただし議論の性格上、作品は(執筆月でなく)発表月に変えてある。

《明治38年――雑誌発表ベースでの著作年表》
1月 『猫』(ホトトギス)・『倫敦塔』(帝国文学)
2月 『猫(2)』(ホトトギス)・『カーライル博物館』(学燈)
4月 『猫(3)』(ホトトギス)・『幻影の盾』(ホトトギス
5月 田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』(天鼓)
6月 『猫(4)』(ホトトギス)・『琴の空音』(七人)
7月 『猫(5)』(ホトトギス
9月 『一夜』(中央公論
10月 『猫(6)』(ホトトギス
11月 『薤露行』(中央公論

 これより先の明治30年3月、既に漱石は評論『トリストラムシャンデー』を田岡嶺雲らが創刊した「江湖文学」に発表している。(嶺雲はその前年6月に津山へ行っているから、原稿依頼は笹川臨風か誰かによってなされたのであろうか。)原作者(スターン)も評者(漱石)も、変人度合いでは互いに負けていないが、漱石の感想文がこの奇書の紹介の、本邦における皮切りであった事実は記憶されてよい。
 Laurence Sterne " The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman " は『猫』との共通点を云々されることがあるが、漱石は最初山会のために名前のない猫を主人公とした写生文を書いたときには、スターンのことはこれっぽっちも思い出さなかったであろう。ところが回を重ねるにつれてだんだん収拾がつかなくなって行き、最終回の寒月のヴァイオリン事件など、(「トリストラムシャンディ」みたいになって構わないと言わんばかりに)半ば開き直っているようにさえ見える。

 田岡嶺雲は明治3年生れ、土佐の人。坂本龍馬中岡慎太郎亡き後の板垣退助中江兆民を親とし、幸徳秋水を兄弟として、とはいえあくまで自主独立を通して土佐っぽうらしい反骨の生涯を送った。漱石と同じく漢文にも欧文にも堪能で、またこれも漱石同様、生涯病気と縁の切れない人でもあった。江湖での言論活動では一葉と鏡花を早くから評価して文芸への造詣も伺わせるが、本質は思想家ジャーナリストであろう。その後津山中学へ赴任するところは、まるで漱石を思わせる。『坊っちゃん』か『野分』の白井道也と言ってもいい。道也先生は「江湖雑誌」の編輯をして糊口を凌いでいると書かれるが、田岡嶺雲らの「江湖文学」を念頭に置いたものか、それとも一般的な用語としての命名なのか。女性問題で津山中学を去った後は新聞記者・編輯者として東京・水戸・支那を巡り、岡山にもしばらくいたことがある。そのとき知事の不正を糾弾した廉により獄に繋がれた経験を有つ(公務員侮辱罪)。漱石が晩い文壇デビュゥを果たしたときは、幸いにも東京で堂々たる「天鼓」を主宰していた。
 雄大で峻烈な言論は現代から見ても充分過激であるが、惜しむらくは明治大帝御大葬の頃に亡くなってしまった(大正元年9月43歳にて病没)。まさに明治とともに生きた士と言えよう。没後追悼のため、あるいは遺子のために上梓された文集に、漱石も『夢十夜』を提供している。漱石との縁は深いものではないが、幸徳秋水が拘引された時の湯河原の天野屋旅館に、田岡嶺雲がたまたま同宿していた偶然には驚かされる。もちろん天野屋は漱石終焉の地ではないが、絶筆『明暗』において津田が踏んだ最終地には違いない。津田と清子の遭遇した旅館に墓碑銘を篆刻する書家が同宿していたのは何の象徴であろうか。
 つむじ風のように漱石の視界から消え去った田岡嶺雲は、まるで漱石が松山中学で(坊っちゃんみたいに)暴力事件を起こしてその後の官途を棒に振ったような、斎藤緑雨がもう10歳生き延びたような、あるいは『野分』の白井道也がさらに高柳周作の病身を背負い込んだような、どの局面を切り取っても漱石読者の心を熱くさせるような重い人生であったと言える。

 文芸評論は嶺雲の本業ではないが、ここに全文引用する『作家ならざる二小説家』だけ見ても、漱石の才能を過たずに穿つ、その並々ならぬ洞察力が偲ばれよう。

田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』

 今日の作家概ね皆其想枯れ、其筆荒びて、文壇寂寞を極むるの時に際り、二個の客星の突如として天の一方に現れ、煌々として異彩を放つ者あり、此二人者共に小説家を以て自ら任ずるものに非ず、又小説家を以て其職業とするものに非ずして、而して其作る所、則ち意深く語永く、光焔あり活趣あり、他の群小説家を推倒して、今の浅俗浮靡なる所謂写実小説以外に一新生面を拓けり、二人者共に其作物未だ多からずと雖ども、想うに共に當さに来るべき文壇の新傾向を指導する先達たらん歟、此二人者を誰とかなす、曰く夏目漱石氏、曰く木下尚江氏。
 夏目漱石氏は英文科出身の文学士にして、一たび英国に遊学し、帰来教鞭を大学に執る、①氏未だ彼の世俗の誇たるべき博士の栄号を戴かずと雖ども、氏が英文学に精通せること、既に定評あり、但氏が作家としての文名は、其のホトトギスに『吾輩は猫である』の一文を掲げしより頓(とみ)に揚がり、次で帝国文学に掲げられたる『倫敦塔』、ホトトギスに掲げられたる『幻影の盾』によりて氏が作家としての実力は愈々世の認むる所となれり、但氏が此才あるを以てして、②今に至る迄顕わるるなかりしは寧ろ怪しむべしと雖ども、是れ畢竟するに氏が此を以て他の如く名利を釣らず、又虚名を売ることを敢てせざりしが為めにして、氏が人物の仰ぐべき所亦此に存する也、氏の筆致は一種俳文的の寯味(しゅんみ)を有し、之に加うるに欧文的精緻を以てして、而して氏が為人(ひととなり)を表現せる一種沈鬱なる想を遣れる者、吾人は其文によって氏が三様の才を見る、一は俳人としての氏也、一は英文学者としての氏也、③一は多病多恨の人としての氏也、而して其の④吾輩は猫である』は満腔の抑鬱を冷峭(れいしょう)なる風刺に寓(よ)せたるものにして、最も其俳的軽寯(けいしゅん) 簡錬の筆致を発揮せし者也、『倫敦塔』は処々に奇警なる俳的筆致を交えて而して最も其欧文的の精緻周密を以て優り、『幻影の盾』は固より其文の精緻を具うれども、寧ろ其沈痛幽渺の想に於て優れるものたり、今の小説家其写実の精細を以て誇るものは其行文多く冗漫に流れ、其神韻を尚ぶものは其落筆多く粗鬆に失するを免れざるに、⑤氏の文は則ち精緻にして而かも含蓄あり、幽渺にして而かも周匝(しゅうそう) なる所、蓋し氏が独壇の長処なり、殊に其幽渺窈冥の景象を描く処鏡花に似て、而して鏡花の妙は其着筆軼宕(てつとう)飄逸なるを以て勝れど、氏は其森厳深刻なるを以て勝る也。⑥唯氏に少(か)くる所ありとせば其較々(やや)雄渾博大の気魄に乏しきに有りと雖ども、其能く東西の文学を咀嚼し醇化して、一家の体を為せる、亦多しとせざる可らず。

 夏目氏の職業的小説家たらざるも猶文科出身として、俳人として、文学に因縁深きあるに似ず、木下尚江氏に至っては全く文学の門外漢なり、唯氏が新聞記者として操觚(そうこ)の事に従うという一事を除かば、全く文学の門外漢たり、氏は弁護士出身にして、今新聞記者たりというも、そは単に政治記者たりというに止り、其文学的経歴は実に『火の柱』を以て破天荒なりとなすべし、而して『火の柱』に次いで『良人の告白』の著あり、『火の柱』は其筆猶生硬を脱せず、其主張を説くこと露骨に過ぎたるものありて、小説としては穉気を帯びたるの観ありしも、『良人の告白』に至りては、其着想漸く円融の域に達し、其筆致亦渾熟し来り、其結構及人物の描写の上に多少の至らざる所あるを除いては、単に小説として見るも、亦上乗の作たるを失わず、氏の筆は明快なり、奔放なり、雄渾なり、熱烈なり、丈夫的也、跳騰淘湧也、従って夏目氏の穏健と、精鑿と、窈冥と、洒脱と、絲理秩然と無く、往々其筆の之く所に任せて一気呵成、整栗を欠くものありと雖ども、而かも全篇を通じて一道の霊火灼々として人を撲つものあり、譬えば夏目氏の文は深淵の如く其深きを以て勝り、木下氏の文は飛瀑の如く其勢いを以て勝る、夏目氏に於ては其学を見、木下氏に於ては其才を見る、⑦夏目氏の文は嘔心鏤膓(るちょう) 一字一句を忽(ゆるがせ)にせず、其細なるに巧を見る。木下氏の文は汗漫縦横細瑾を嫌わず、其放(ほしいまま)なる所に妙を見る。⑧夏目氏の文を読めば、悽(せい)、人の情に切に、木下氏の文を読めば、峻、人の魄を奪う、此くの如く二人者の長ずる所各同じからずと雖ども、然れども其脂粉の気を帯びず、浮華の調を帯びず、真摯人を動かすものあるは則ち一なり、今の如き余りに理想なく余りに素養なく、あまりに熱誠なき小説界に、篤学にして誠愨(せいかく)なること夏目氏の如く、多才にして峻峭(しゅんしょう)なること木下氏の如きを得たるは、我文壇の為めに之を祝せざる可らず。(明治38年5月「天鼓」)
(※語注:寯味=味わいがある 周匝=行き届いている 軼宕=優れて大きい 窈冥=奥が深い 絲理=口をついて出る論理 誠愨­=質実)

 明治38年5月、『猫』が「ホトトギス」の誌面に現れて僅かに数ヶ月、いくら評判になっていたとはいえ、『猫』は続篇まで発表されたに過ぎず(第1篇と第2篇)、短篇も『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』の3作のみであった。嶺雲は(当然ながら)それだけの材料で漱石の桁外れの資質と価値を過たずに穿ったのである。しかも嶺雲は当時食うや食わずの状況下にあり、決して余裕を持ってこの「遅れて来た中年」を迎えたわけではなかった。むしろ時代の閉塞感と闘いながら新しい潮流を模索していたのである。だからこその「発見」であったとも言えるが。
 そもそも笹川臨風や佐々醒雪たち嶺雲の仲間は皆緑雨の信奉者でもあり、同時に漱石の文学を正当に評価していたことでも共通している。漱石は読者や弟子たちによって持ち上げられてビッグネームになったような印象もあるが、その前に、ある言論層の同時代人・同業者によっても深く理解されていたのである。

 漱石がそのキャリアのスタートから、博士でなかったことが広く知られていた(①)のはご愛敬だが、紅葉や緑雨などの同期生が死に絶えたあとに小説を書き始めたことは、長く学堂の人であったというより、名を求めることをしなかったため(②)という指摘は、いきなり漱石を勇気づけたのではなかろうか。唯一の欠点が大風呂敷を広げないことだというのも(⑥)、充分漱石を喜ばせる物言いに違いない。悪評には耳を貸さないで通したように思われている漱石であるが、このような好意的な見方もされていたがゆえの「自信」だったのではないか。
 嶺雲はまた『猫』の始めの部分だけで早くも漱石の「多病」を見抜いている(③)。そして『猫』がその裏面に鬱屈したもの、苦しみ・悲しみを隠し持っていることを指摘する(④)。『猫』の描写が「精緻」「含蓄」「幽渺」「周匝」行き届いていると言っている(⑤)。「森厳」「深刻」「穏健」「精鑿」「窈冥」「洒脱」「絲理秩然」であると言う。いったい『猫』の第1篇と第2篇を読んだだけで、漱石が文章に細心の注意を払い、彫心鏤骨、一字一句をゆるがせにしないなどということが分かるものだろうか(⑦)。まさに嶺雲は漱石の最初期の文章のみから、それを感じ取っている。「悽」いたましいという感情を、読み手に正しく伝えることに成功しているとも言う(⑧)。漱石文学が誠実で倫理的であることにいち早く気付いているのである。普通の人ならせいぜい自由奔放なユーモア・江戸落語的飄逸くらいが頭に浮かぶ程度であろう。そしてこの嶺雲の評はその後の漱石の全業績に対しても、信じられないことであるが、そのまま通用するのである。偉いのは嶺雲か、はてまた漱石か。


漱石「最後の挨拶」道草篇 21

395.『道草』番外編(1)――『明暗』続篇


 前々項(道草篇19)で『明暗』続篇を取り上げたついでに、前著(『明暗』に向かって)の中にそれについて述べた章(最終章にあたる)があるので、それを紹介したい。(本ブログの書式・流れに合わせて一部改訂増補して引用する。)

『明暗』の結末に向かって

 津田が東京を発って1日経過した。その日(11月10日水曜)の午後、津田が不動滝へ行く山道を上り下りすることはすでに想定済みである。滝へ行くのに橋を2つ渡ることも、滝の入り口に関所のように構えている茶店のかみさんが葭町の元芸者であったことも、亭主が太鼓持ちらしいことも、この夫婦の滑稽な逸話の1つ2つさえ既に分かっている(漱石の日記・創作ノートによる)。
 津田が1人で(他の連中はもう何度も見ているのだから)、滝がもっとよく見えるように坂の階段を登って、もう一段高い場所から滝を見るであろうことも、現地を実際に見れば想像はつく。
 そのとき津田は患部に軽い違和感を覚えるのではないか。それでも安穏を感ずる津田はそのやや高い場所から清子を見下ろす。浜の夫婦はやや離れたところに佇んでいる。このとき清子が津田を「見上げる」かどうかは漱石でないと分からないが、おそらく清子は津田の姿を追ったりすることはしないのではないか。
 では津田は清子に所期の目的たる肝心の質問をどこでするのか。
 思うに津田は滝への往復の路で、清子に座敷で向き合っていては言えそうにないことを2つ3つ問いかけるのではないだろうか。(浜の夫婦の前では尚更言えない。浜の夫婦は実際の夫婦でない可能性が残る以上、彼らの前で男女の話は出来ないし彼らもしない。)
 当然ながら清子はその場では答えようもない。
 津田は宿に戻ったあと女中Cに右記の(茶店のかみさんの)噂話等を聞く。女中の前では太平楽を装う津田は、夕食前散歩仲間との鉢合わせを避けて下の方の温泉へ行く。事故はそこで起きる。成分の強い温泉へ浸かったため(と漱石は信じている)、手術跡が開いてしまうのだ。
 白い湯の花を紅く染める大量の血。しまったと思う暇もなく津田を襲う激しい痛み。津田を部屋へ担ぎ込むのは手代(番頭)か勝さんか。
 そして清子は(自分からは何もアクションを起こさないので)、東京から呼び戻されるまでは平然と(でもなかろうが)、動けない津田の傍に寄り添っているはずである。津田はお延に電話をかけたいところだが、動けないのでそれが出来ない。宿の者にかけさせるか、すぐ来いという電報を打つことは可能だが、漱石はなかなか腰が重いのでそんなことをしそうにない。それにお延が駆け付けたところで何の打開にもならないばかりでなく、清子がいてはどのような言い訳も通らないだろう。
 ありそうなのは清子に頼んで吉川夫人に電話してもらうことである。清子の報告を聞いた夫人はいよいよ自分の出番だと奮い立つ。夫人なりの策略に仕上げの時が近づいたということだ。

 清子は女として現実にのみ生きている。亡霊のように出現した津田には驚倒したが、実物の津田と会って事情が分かってみるともう津田と対面することは何でもない。津田の背後にいるお延を見ようとはしない。清子はお延に関心が無い。(漱石は清子をお延と対決させるつもりがない。)
 清子と病臥する津田との最後の会話は目に見えるようである。津田が求婚していたら、もちろん受けていたかも知れないが、実際にはしなかったのだからそれは言っても始まらない話である。清子は求婚した関に嫁しただけである。
 では今はどうか。清子は津田次第である。津田は今も何もしない。しないのは出血で動けないからか。では出血しなければ動いたのか。それは津田にもわからない。津田(漱石)には出血は恰好の言い訳になる。
 津田は痛みに耐えながら蒲団に寝て、清子と共にいることに不思議な安らぎを覚える。(この安らぎは次作の隠れたテーマとなるかも知れない。)ただお延が清子と顔を合わせることだけが心配である。
 小説の(叙述の)主体はこのあと津田からお延に最後の交代をするが、津田が平静にお延(と小林)を待つためには、清子の問題が片付いていなければならない。関からの電報が届くというのはいかにも便宜的に過ぎ、週の半ばでは関が迎えに来る可能性も低い。ここはやはり吉川夫人の役目であろう。つまり清子から津田が倒れたことを聞いた吉川夫人は、すぐにお延を津田の許へ発たせると約し、同時に清子に宿を引き揚げるよう指示するのではないか。
『明暗』湯河原の場はめでたく(もないが)幕を閉じ、津田も安心して退場できるというわけである。

 津田の(湯河原での)再登場はあるのだろうか。東京と湯河原、場所がかけ離れていることもあり、1週間前の「魔の水曜日」のようにまた津田の回とお延の回が錯綜するというのは考えにくい(漱石は一度で凝りている筈である)。物語の最後で温泉宿に到着したお延と津田が対面するシーンは大いに期待したいところではあるが、そうすると描写の主体が最後の最後でまた津田に帰ってしまう。『明暗』は「津田からお延へ」という流れが忠実に繰り返されているので、あくまでもこの夫婦は同じことをするのである。津田が湯河原で遭遇するトラブルとお延が東京で巻き込まれる最後のトラブルは「対になっている」はずである。
 つまりお延のトラブルとは、当然津田が倒れたことへの世間的な(吉川夫人にコントロールされるかも知れない)緊急対応であるから、そのお延が湯河原へ向かうとしても、小説の主体がまた臥せっているままの津田の方へ戻っていくことは考えにくい。『明暗』は津田に始まり津田に終わる物語ではない。何度も繰り返すが『明暗』は津田とお延の物語である。したがってこれが最後の主人公交代であると思いたい。

 ここまで、つまり津田の主人公の最後の回まで、中断から15回と想定する。15回というのは津田が宿で女中に清子の存在を確認してから中断までの分量である。滝の場景は前述の通りだが、その夕さり温泉場で倒れてからの津田の様子は、(6年前の)修善寺での漱石の体験が使われる。
 勿論症状は大きく異なる。津田は痛みと出血はあるものの漱石のように生死の淵をさまようわけではない。しかし精神的なショックはある意味では当時の漱石以上か。漱石の当時も持っていた諦念というものは若い津田にはまだない。
 吉川夫人の決裁は清子を通して津田と読者に伝えられる。清子は自分からは動かないが、人に命じられれば案外(漱石のように)尻は軽いのである。清子もまた湯河原を引き揚げるまでは津田と対照的な働きを見せるだろう。清子は旅館を去るとき、津田に滝で問いかけられたことに対する返答を与える。それは決して津田の腑には落ちないが、清子の言い方はきっぱりしている筈である。自然、津田は漱石のような(代助のような三四郎のような)グズ振りを際立たせる。それが却って自己の安心につながるというのが漱石的である。とまれ津田は見た目よりは平穏に、読者に対し「最後の挨拶」をするのである。

 大事なことを忘れていた。現行最後の『明暗』の設問、津田が一人で考えようとした清子の「微笑の意味」であるが、女の気持ちの分からない津田に明解な説明が出来る筈もなく、そこはまた漱石の出番である。
 津田はまず
①清子の謎かけと思うであろうか。
 迎えが来ないうちに要件を言ってしまえ、行動してしまえという謎と取るだろうか。少し危険なようでもある。憶病な津田にはとてもうけがうことの出来ない答えである。では
②清子の冷笑と思うであろうか。
 清子は津田の胆力のなさにはとっくに気付いてそして見離しているのであるから、もうこの時は半分馬鹿にしているのかも知れない。家から呼び出しが来ようが来まいがそんなことを気にする肝っ玉がお前にあるのか、ということであろう。反対に
③清子は津田に同情しているのか。
 内実はほとんど②に近いのであるが、清子はむしろ(姉さん的にあるいは吉川夫人みたいに)津田を護ろうとしているのかも知れない。それとも単に
④にこりともせずに返事をしたのでは角が立つから清子は所謂大人の対応をしただけなのか。

「貴女は何時頃迄お出です」
「予定なんか丸でないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
 津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
そりゃ何とも云えないわ
 清子は斯う云って微笑した。津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。(『明暗』188回小説末尾)

 関から電報が来ればすぐにでも帰らなければいけないと、(現状を正しく)喋っただけの清子に対し、半ば驚いた津田は諒解したと言う代わりに、あるいは黙って感心する代わりに、そんなものが来るのか、と別な問いを問い返した。(吉川夫人のいう)津田の悪い癖であるが、キャッチボールの返球が(意図しないのに)変化球になるのは漱石の癖でもある。返球しなくてもいいところを律儀に返球するところも漱石の癖である。
 それに対する清子の、何でもないような、それでいてよく考えられた正確な回答、「そりゃ何とも云えないわ」という応えは、むろん直接には(電報が)来るか来ないかは将来のことであるから、来てみないと分からないということを正直に述べたに過ぎないが、微笑の意味が、
①「謎かけ」
 
であれば、清子のこの言葉の真意は、自分の口からは言えないから察してほしい、あるいはもう一度別な言い方で問い直せ、と解されるだろう。
②「冷笑」
 
であれば、清子はこれ以上この件に関しては答えたくないのである。
③「同情」
 
であれば清子の津田に対する愛情は僅かにせよ維持されているかも知れない。清子はこの後も母親のような態度で津田に接するだろうか。
④「愛想笑い」
 
であれば、もう津田と清子は赤の他人である。過去のいきさつに対するこだわりさえ無い。

 漱石の読者はここで同じようなセリフを返したもう1人のヒロインを思い出す。

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいに何処へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか丁度親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としている丈です。立枯になる迄凝としているより外に仕方がないんですもの」
 自分は気の毒そうに見える此訴えの裏面に、測るべからざる女性(にょしょう)の強さを電気のように感じた。そうして此強さが兄に対して何う働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。
「兄さんは只機嫌が悪い丈なんでしょうね。外に何処も変った所はありませんか」
「左右ね。(そり)ゃ何とも云えないわ。人間だから何時何んな病気に罹らないとも限らないから」
 彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺めた。室が静かなので其蓋を締める音が意外に強く耳に鳴った。恰も穏かな皮膚の面に鋭い針の先が触れたようであった。
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろう斯んな厭な話を聞かせて。妾今迄誰にもした事はないのよ、斯んな事。今日自分の宅へ行ってさえ黙ってる位ですもの」
 上り口に待っていた車夫の提灯には彼女の里方の定紋が付いていた。(『行人/塵労』第4回末尾)

 この「そりゃ何とも云えないわ」というお直の返答自体は、お直の(漱石の)律儀さ・誠実さの表出に過ぎないだろうが、もしかしたら清子の微笑もまた、その顕現であると漱石は言いたかったのかも知れない。つまり漱石の正解は、
⑤「誠実」
 
ということだったのか。

 津田は(実直な二郎同様)清子の微笑の意味は解らない。心配性の津田は一応自分は馬鹿にされたのではないかと疑ってはみるであろう。それくらいの世間知はある。そしてその中に吉川夫人の策謀の影さえ感じ取るかも知れない。それは結果として津田の回の終わるまで引き摺られることになるだろう。津田は平穏に退場するが、清子(と吉川夫人)に笑われたのではないかという思いはひとすじ残るのである。

 * * *

『明暗』完結篇の津田の回(全15回、四百字詰原稿紙1回6枚として90枚を想定)は、ある程度は誰でも書ける内容かも知れない。地元の医師と看護婦も胃腸病院や修善寺のときの日記を使えばよい。墓碑銘を書く老書家も山だけ眺めて暮す男も、軽便の客同様一度紹介されただけで、津田の眼を通してはもう語られることのないキャラクタなのかも知れない。下女の特定が欠かせないとも書いたが、それもまあ枝葉の話であろう。
 しかし続く(東京での)お延の回は難物である。お延への交代はどのように書かれるであろうか。
 これまでのように「自然」で目立たぬように行われるのであろうか。それともはっきり(開き直ったように)別な話として書き始められるのであろうか。
 お延はどのように再登場するか。ずいぶん久しぶりの登場である。津田の入院中に延々と続いた小林、お秀、津田とのやりとり。おかげでお延は苦しみ泣きもしたが立命も得た。勁くもなった。お延の不安は、いったんその役割を終えてしまったかのようである。
 おまけに津田が東京を発ってすでに1日経過している。『明暗』ではこれまでカレンダを遡る書き方はなされていないので(遡ってもせいぜい数時間である)、お延の回になったからといって、津田を送り出した当日とその翌日津田が倒れた日のお延の姿は、リアルタイムには書かれないだろう。津田と別れたお延は(得心もして)、さしあたっては自分から行動を起こす必要が無い。お延が動き出すのは、さらにその次の日(11月11日木曜)、吉川夫人の手によって起動ボタンが押されてからである(と想像する)。

 それはお延を主人公とした最後の物語として、ある程度まとまった一つの短編として、再びそれまでとは断層のある書き方をされるのではないか。というのは前に述べたように『明暗』は津田の道行きでそれまでの物語と大きく断絶しているからである。
 お延の回になってまた元に戻るのではなく、新しいお延が、一皮むけたような、あるいは病み上がりの人のような描き方をされて、あたかも新しい舞台に上るような形で登場するのではないか。思い切った省略がなされるのではないか。
 ずばりお延の再登場シーンは内幸町の吉川邸へ向かう俥の上であると推測する。お延を呼び出す手紙が車夫によって届けられたのである。
 その日、吉川邸でお延と吉川夫人の最後の対決がなされる。お延は相変わらず吉川夫人の掌で踊らされているようにも見えるが、またある程度の得心を持って津田を救う喜びを味わうはずである。(それはちょうど美禰子が三四郎の面倒を見るときの満足感に似ている。)
 吉川夫人は清子についてはことさらには語らない。呼び戻す手筈が付いている以上、そしてお延の半分疑っている状態がちょうどよいと思っている以上、お秀にはしゃべってもお延に余計なことを言う必要がない。夫人はむしろお延がどこまで知っているかの探求の方に力を注ぐであろう。そして夫人が清子のことをどの程度お延に仄めかすかは漱石の最後の技巧の見せ場であろう。残念ながら余人にその力はたぶんない。
 小林たちが同行することは夫人には好都合だろう。本来なら温泉行きを企画した夫人サイドで面倒を見てもおかしくないからである。吉川夫人は妻の愛情が夫の痔疾に何の役にも立たないという興醒めの事実を殊更にお延に吹き込むことにより、お延を少しずつ普通の主婦に近づけようとたくらむ。お延はもうそんな手には乗らないのであるが、夫人は気付きようもない。ただ覚心しかたのように温泉地に向かおうとするお延を見て、自分のやり方は間違っていなかったと夫人らしい自讃をする。

 小林はどこで津田のことを知るか。地中の芋を信じれば、小林は原の絵を売り込みに吉川へ行ってそこでお延と出くわすということもあるかも知れない。小林が岡本へ行くという可能性も、本人がそう言っている以上否定は出来ない。しかしより自然な流れとしては、お延から藤井への連絡であろう。津田の勤務先である吉川からもたらされた情報であれば、次に行くのは津田の実家たる藤井であるのが自然である。京都の本当の津田の実家は、当然吉川と通じているのであるから、お秀同様この続編では触れなくてよい。
 藤井で津田の急を聞いた小林はその日の午後お延の家を訪れる。お延が小林(と原)の同伴を依頼するシーンが次のハイライトである。おそらくそれは小林からの申し出という形で描かれるのではないか。漱石は寝台に括り付けられて帰京したが、津田は両脇を抱えられての帰還兵というところだろう。
 湯河原の回が終わっている以上、そのシーンは直接書かれることはないが、想像を逞しくすることは出来る。誰かの口から間接的に語られる、あるいはスケッチ画に描かれる(描くとしたら原以外にいないが)、そして「手紙」が登場する可能性も、(またかと言う勿れ)大いにありうるのである。
 津田はもしかしたら戸板に載せられて自室を出るかも知れない。その際の担ぎ手は小林・原・手代(番頭)・勝さんの四人であろう。黙って見送るのは同宿の二人の男客だろうか。浜の夫婦は清子と前後して引き揚げている。書家の書いた故人の顕彰文が戸板と対照をなす。何もしない方の男も、寝たままで何も出来ない津田に比べるとまだ活きた人間に見えるという皮肉。
 先に津田が女中から聞くという形で読者に披露された相客の様子が、最後にお延の眼を通して書かれる。エピローグとしてお延が(吉川夫人に宛てて)手紙を書くとすれば、津田の真の退場シーンが明らかになるかも知れない。お延は(吉川夫人の手前)ことさらに津田が動けないことを強調するだろう。(漱石はここで、『虞美人草』や『心』のような破局を期待していた読者に対しても、一定の満足感を与えることになる。)

 いずれにしても津田は漱石と違ってしがないサラリーマンであるから、お延と二人でもう一週間湯治というわけにはいかないのであるから、そしてお延の肩に摑まって歩ける程度の傷でないことは漱石は経験上知っているのであるから、この団体旅行はいくら散文的でも仕方がない。むしろお延は前述した新しい喜びに襲われて小林への嫌悪感を棚上げするのではないか。これがお延の予言した「蛮勇」であろうか。愛情ではない。一種の征服感のようなものがお延を支配して、お延を小林と(津田とも)対等な立場に置かしめるのではないか。お延はどちらかといえば堂々と出発するはずである。
 金の工面はどうしたか。吉川夫人を再度わずらわせるのはお延の本意でない。小林は津田の餞別があると言うだろう。しかしお延はもう誰の情けも受けない。お時に言って指輪を質入れして小林と原の1泊2日の湯河原往復費用に充てることにする。津田にさらに貸を作るのであるが、もう妻としてそんな意識はない。吉川夫人の目論見は結果として少しだけ達成されたのである。

 そして翌る日11月12日金曜、お延は津田と同じ道のりで湯河原を目指す。どこでこの物語が閉じられるかは何とも言えないが、最後にお延の一行と上京する清子がすれ違うところで終るような気がする。
 とすればその場所は東京と湯河原から同じ時間を消費する地点、軽便の鉄路でなく東海道線の上でもなく、それは乗換駅たる国府津の駅頭か小田原(早川口)ででもあろうか。面と向かってすれ違うわけにはいかない。小林と清子は顔を見知っているからである。
 そして叙述はあくまでお延の眼を通してのみなされる。多くいない乗換の人の中に、遠く庇に結った自分と同じような(当時の)山の手の若い婦人を見たお延は、何事かを思いそして小林に何か話しかける。お延の脳裏に清子という名前が一瞬でも浮かぶか否は、遡るが吉川夫人のリークの仕方に係わってくるのでそれ次第である。お延はもう清子のことは卒業したとも思われるが、或る書き方を漱石に期待するのであれば、読者としてはお延と清子は細い糸で最後まで繋がっていてほしいという気もする。
 清子の姿を認めた小林はお延の仕草を確認したのち黙ってそれをやり過ごす。お延には金持ちを皮肉るような言葉を返すだけである。一人でこんな時間にこんな所で、うらやましい身分といえるのか、どこかやましいことがあるのか。小林は一瞬勝ち誇ったような錯覚に襲われるが、またお延の(清子から自由になっている)態度からそうでないと思い直しもする、かも知れない。
 小林の叙述は半分お延の立場(視線)でなされるから、このくだりはなかなか読ませるところであろう。清子はもとより気付かないまま退場する。清子の髪は津田に会う朝庇に結ったのであるが、それは津田のためでなく、お延の目にとまるためであった、と漱石は言いたかったようである。
 最後に、お延の描写から一瞬脱け出したように清子の方へ叙述が移る、例の幽体離脱(油蝉)の「超絶技巧」がここでも見ることが出来るだろうか。

 ここまで、お延の最後の回を35回と想定する。四百字詰原稿紙1回6枚として210枚。『坊っちゃん』と同じくらいの長さである。前述のようにこれは先生の遺書とも同じである。
 ちなみに現存して上梓もされている『坊っちゃん』の原稿は松屋製(24字×24行)149枚で、先生の遺書は「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読み易いように平たくした」(『心/両親と私』17回)とあるから、まず『心』の「私」は先生の遺書なる分厚い原稿を二つ折りに伸ばし直し、それを着物の袂に突っ込んで家を飛び出したのであろう。『明暗』完結篇のお延の回も、書かれれば(その風袋は)こんな感じになるに違いない。

(『明暗』の結末に向かって 引用畢)

漱石「最後の挨拶」道草篇 20

394.『道草』先行作品(9)――『硝子戸の中


・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 前作『思い出す事など』から丸4年。作物のなかった「死の明治44年」から4年経過した大正4年、漱石4冊目の随想集はまた、最後の随想集ともなった。毎年繰り返す大病とカムバックに、何か思うところがあったのだろうか。『満韓ところどころ』『思い出す事など』は書いた目的が限定的ではっきりしていた。『硝子戸の中』は何のために書かれたか。何が残された時間の少ない漱石に、こんな「閑文字」を書かせたのか。同じ年に『道草』が書かれたことだけは動かしようのない事実であるが。

1回「硝子戸の内」 多事の世の中に敢て閑文字を並べる覚悟~夏に書く小説の前に春(正月)に何か書いてみる
2回「笑う男」 御約束では御座いますが少しどうか笑って頂けますまいか~人前で笑いたくもないのにしばしば笑ってみせた経験~その讐い
3回「ヘクトー1」 宝生新から貰った仔犬~1週間名前を付けなかったので子供が名を呼べない~ギリシア神話の勇将の名前を付ける
4回「ヘクトー2」 乱暴者で弱虫のヘクトー~自分が大病(『心』脱稿後の病臥)をした間にヘクトーは家族にも自分にも馴れなくなったようだ
5回「ヘクトー3」 やがてヘクトーも病気になった~猫の墓の隣に建てた墓標「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」
6回「吉永秀1」 未知の読者の身の上話~白粉を付けない女の頬がほてって赤くなった
7回「吉永秀2」 悲痛を極める女の身の上話~そんなら死なずに生きて居らっしゃい
8回「吉永秀3」 死は生より楽なもの~死は生よりも尊い~だからこそ生へ執着し生を苦しむ
9回「太田達人1」 万事に鷹揚な彼は一度も激したことがない~風もないのに落ちる葉を見て突然悟りを闢く
10回「太田達人2」 「いやに澄ましているな」「うん」~「人間も樺太迄行けば、もう行く先はなかろうな」~「あの栗饅頭を取って来たのか」「そうかも知れない」~「なにチャブドーだ」
11回「女の人の原稿」 これは社交ではありません~小説を書くとは思い切って正直になること~指導する方も正直に自分をさらけ出す~怒ってはいけない
12回「岩崎某1」 茶の缶~富士登山の画
13回「岩崎某2」 拝啓失敬申し候へども~短冊の要求と嫌がらせの手紙
14回「幕末の盗賊」 兄が最近鏡子に語った異母姉佐和の思い出話~紙入の50両を軍用金に盗られる~此家(うち)は大変締りの好い宅(うち)
15回「薄謝」 学習院の講演の謝礼に10円貰った~学生から金を受領したくない~この金は報酬かそれとも感謝の表意か
16回「床屋の亭主1」 高田は2週間前に死んだ~求友亭の横町の2階のある家から肴町行願寺の寺内へ引っ越した~家の真向いにたった1軒あった東屋という芸者置屋
17回「床屋の亭主2」 芸者咲松「またトランプをしましょう」「僕は銭がないから嫌だ」「好いわ私が持ってるから」~御作は23歳のときウラジオストクで死んだ
18回「片付かない女」 頭の中がきちんと片付かない~でも心の中心には確固たる不変のものあるはず~その2つの折合いがつかない~変わるもの即ち変わらないものである~頭と心は1つのものである
19回「馬場下の旧宅1」 堀部安兵衛の桝酒~小倉屋の御北さんの長唄~やっちゃ場の仙太郎さん~西閑寺の寂しい鉦の音
20回「馬場下の旧宅2」 近所に1軒あった小さな寄席~母から小遣いを貰って南麟を聞きに行く~矢来の坂を上って寺町へ出る昼でも薄暗い1本道
21回「馬場下の旧宅3」 姉たちの芝居見物~馬場下から浅草まで1日がかりの大旅行~玄関様
22回「病気と死」 死ぬまでは誰もが生きている~人が死ぬのは当り前だが自分が死ぬとは考えられない~弱い自分が生き残っている不思議
23回「早稲田田圃 喜久井町と夏目坂~早く崩れてしまえばいいと願った生家もいつしか取り壊された
24回「年始の客」 置屋にいた友人の話~約束を交わした女が旦那2人の見受け話の中で自死してしまった
25回「大塚楠緒さん」 雨中のすれ違い~夫婦喧嘩をしているとき訪ねて来たことがある~胃腸病院にいる頃訃報に接した
26回「益さん」 郵便脚夫の益さんと兄たち~ペロリの奥さんの「貴方よろしい有難う」~野中の一本杉
27回「芸術論争」 元旦の酔客~芝居嫌いは騙されて泣くのが癪に障るから~芸術は平等観から出立するのではない
28回「3代目の黒猫」 夏目家の猫は3代とも薄幸~病気と平癒を繰り返す自分と猫~おや癒るのかしら
29回「里子と養子」 父からは苛酷に取扱われた~しかしなぜか浅草から牛込へ移されたときは嬉しくてはしゃぎまわった~真実を耳打ちしてくれた下女の「親切」
30回「継続中」 「どうかこうか生きている」を「病気は継続中」に改めた~無知ゆえの「継続」なら、すべての人は何事も継続中のまま死を迎えるのであろう
31回「喜いちゃん1」 喜いちゃんは漢学好きの小学校時代の友達~自筆本『南畝莠言』を25銭で買う
32回「喜いちゃん2」 稀覯本25銭の責任は売り主にあるか買い主にあるか~本を返して25銭は受け取らない
33回「直覚」 悪人も善人もいる世間の中で自分が正しく生きる途はあるか~自分が正しい応対をしていることが分かったなら、神の前にひざまづいてもよい
34回「講演」 蔵前工業の講演(大正3年1月)が分からないと言われた~それで同じ年の学習院での講演では、疑問点があるときは私宅へ来てくれと言った
35回「伊勢本」 子供のころ通った日本橋伊勢本(寄席)の思い出~田辺南龍「すととこ、のんのん、ずいずい」~先年新富座の美音会で当時前座だった琴凌(4代目宝井馬琴)を見て、昔とまったく変わらない顔と芸に驚いた
36回「長兄大助」 開成学校時代上級生から貰った艶書~終始堅苦しく構えていたがそのうち柔らかくなった~役者の声色と藤八拳~「兄さんは死ぬ迄奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
37回「母千枝1」 「母は私の十三、四の時に死んだのだけれども」~大きな老眼鏡を掛けた御婆さん~「母はそれを掛けた儘、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが」~母の里は四谷大番町の質屋で永く御殿奉公していた
38回「母千枝2」 「御っ母さんは何も云わないけれども、何処かに怖いところがある」~「母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりは賢こそうに誰の目にも見えた」~白日夢「心配しないで好いよ。御っ母さんがいくらでも御金を出して上げるから」
39回「硝子戸の外」 今日は日曜で子供がいる~「そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ」「いやあだ」~私の書いたものは懺悔ではない~私の罪は私を超えて、天上から微笑しているようである~雲の上から愚かな私を見下ろして微笑んでいるようである

 * * *

 物語は硝子戸の内の文机で始まり(苦沙弥先生のように)、硝子戸の外の陽当りの良い縁側で終わる(宗助のように)。エセイ集らしく最近の出来事も述べられているが、心情は(『猫』から『門』に至る)文豪漱石の前半の作家人生に寄り添っているかのようである。すでに漱石の心は『道草』にあったのか。

Ⅰ 依怙贔屓
硝子戸の中』が『道草』と異なる最大の点は、家族について好い思い出のみを書いていることだろうか。母・長兄・長姉。この3人組が『道草』に登場することはない。『道草』に書かれるのは別の3人である(父・三兄・次姉)。
硝子戸の中』は好い事のみを思い出しているわけではないが、この調子で嫂登世が書かれたならと誰しも思う。しかし嫂は漱石の家族ではない。『道草』で僅かに触れられた1、2行を除いて、登世のことが漱石作品に露出することは遂になかった。話は逸れるが、『行人』で自分の妻が気に入らない一郎と、そのお直に惹かれる(ようにも見える)二郎を登場させたとき、漱石は三兄直矩に(あるいは読者に)、登世と自分のことを連想させるとは露ほども思わなかったに違いない。なぜなら登世のことを書いたのは子規への手紙1回こっきりであり、そのことは漱石も忘れていたであろうし、覚えていたとしても、まさかその自分の手紙が後世に公になるとは、(子規が手紙を捨てずに保存していたとは、)想像すらしていなかっただろう。
 好い思い出ということでは、芸者咲松・太田達人・大塚楠緒子もまた、『硝子戸の中』の好感トリオである。この調子で米山保三郎を、井上眼科の女をと思わざるを得ないが、天然居士については(談話を除けば)『猫』で曖昧に紹介されたに過ぎず、眼科の少女もまた、それが書かれているのは(登世と同じく)子規への書簡だけである。

Ⅱ 小さな謎
硝子戸の中』最大の謎は、何度も書くようにやはり、「母は私の十三四の時に死んだのだけれども」という第37回の記述であろうか。母千枝は漱石15の春に亡くなっている漱石がサバを読んだとはとても考えられないが、「母が死んで6年目の4月に中学を卒業した」という『坊っちゃん』の記述を信じれば、坊っちゃんもまた(『硝子戸の中』の「私」同様)14歳の春に母を亡くしている。――6年目、20歳の春に中学を卒業した。20歳で高等学校へ入学して23歳で卒業、帝大入学。これは漱石のすべての主人公に共通する履歴である。
 年齢といえば、4歳から「物心のつく」8~9歳まで浅草の養家にいたというが(第29回)、それでは漱石は(三つ子の魂百までといわれる)3歳の時まで牛込の自分の家にいたのか。赤ん坊は生れて満1年でよちよち歩きを始める。満2年は可愛い盛りである。漱石はこのとき既に塩原夫婦に「溺愛」されていたのではないか。だがこれは乳母等の第三者の証言がない限り、論じても栓のないことであろう。しかし3歳(満2歳)ならば、ぎりぎり本人の記憶には残っているのではないか。自分の原初の記憶が生家にあったか塩原にあったか、少なくとも若い頃の漱石は覚えていたのではないか。
 その喜久井町の旧宅について、2階の古瓦が少し見えたという記述があるが(第23回)、これは蔵の瓦屋根のことだろうか。漱石が生家で2階に住まわったような形跡はないが、これもまたはっきりした証言が残っているわけではない。
 もう1つ、有名な「喜いちゃん」(第31・32回)は、『永日小品/柿』の女の子の喜いちゃんではない。『永日小品』の喜いちゃんは、引きこもりがちでお琴の稽古をする銀行勤めの家の女の子である。いたずらっ子の与吉に柿を投げた喜いちゃんは漱石の友達ではない。漱石の友達は蜀山人の写本を持ち出した漢学好きの、(『硝子戸の中』の)喜いちゃんの方である。

Ⅲ 死は生き通せない(承前)
 漱石の作品が常に心に沁みるのは、その底流に生と死に対する根源的な洞察が潜んでいるからであろう。前項までの『思い出す事など』は言わずもがな、『硝子戸の中』においても、それは随所に伺われる。

 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうして其死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
死は生よりも尊とい
 斯ういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 然し現在の私はいままのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然として此生に執着しているのである。(『硝子戸の中』8回)

 死は人間の到達しうる最上至高の状態である。そしてその(死という)状態は、生よりは楽なものである。しかしながら私は解脱することが出来ないので、この生に執着するばかりである。――
 これは弱年時から漱石につきまとっていた「父母未生以前の面目」という「提唱」に対する漱石なりの解答であろう。死が生より楽なものならば、生き物は皆歓んで死ねばいいわけである。しかるに生に執着するというのは、解脱が出来ないということの証左である、と漱石は言う。では解脱とは何か。解脱を死と解すれば話は無限ループに陥る。解脱は死ではない。「死とは何か」を考えることである。これを考究することが唯一残された解脱への途であろう。

 或人が私に告げて、「他(ひと)の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事丈は到底(とても)考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分丈は死なないと思っていられますか」と聞いたら、其人は「居られますね。大方死ぬ迄は死なないと思ってるんでしょう」と答えた。(同22回)

「自分だけは死なない」「人間死ぬまでは生きている」
 これは一見寄席落語的軽口に似て(苦沙弥先生は「僕は死なない事に決心している」「いえ決して死なない誓って死なない」と宣言している――保険会社のセールスマンに対してだが)その実、生と死の狭間に横たわる深淵を言い当てているようにも見える。「人は死を経験しない」「我々の生はふちを欠いている」「今を生きる者は永遠に生きる」という香気の高いヴィトゲンシュタインの言葉に近いものがある。生と死。最も身近で大切な友にして、永遠に交わらぬ友。

 客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、――凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思うだろう。彼等の記憶は其時最早彼等に向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔と又其昔の間に何等の因果を認める事の出来ない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。唯どんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。(同30回)

 我々の生はただ「継続中」であるに過ぎない。生が継続中であるというだけの状態。それ以外は誰にも判らない。死は経験出来ない。死が何物であるかは誰にも判らない。自分にとって死がどういうもの(状態)であるか、それは所詮考えて判る話ではない。

Ⅳ 一番大切な事
 人を信じるべきか疑うべきか。その人は善人か悪人か。(『心』の先生が断じたように、)世の中には鋳型に入れたような悪人がいるわけではないのは慥かであろうが、多くの人にとってその見極めは悩みの種ではある。しかし善であれ悪であれ、所詮相手のことである。騙されるのは悔しいが、相手が悪かったと思うしかない。(金銭的な)実害でもない限り、それほど自分を責める話でもないだろう。ところが何でも自己に即して考えたがる漱石のような人にとっては、その判断の「誤まり」は直接自身の評価に結び付く。相手の正邪を判定し損なうことが自分の正邪に直結するので、(相手の前に)自分が許せない。

 もし世の中に全知全能の神があるならば、私は其神の前に跪ずいて、私に毫髪の疑を挟む余地もない程明らかな直覚を与えて、私を此苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、此不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私と其人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、此両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。(同33回)

 これではまるで『人間失格』の大庭葉蔵ではないか。いったいどんな大事件が出来(しゅったい)したのかと読者は驚くが、漱石が書いているのは世間に行われる普通の交際の話である。一般論である。これでは胃に孔があくのも仕方がない。
 漱石はあらゆる人の倫理観(正邪善悪)を見抜くべく、すべての小説を書いている。それが自分の小説は倫理的であるという自負につながる。あらゆる人の正邪善悪が見抜けないとすれば、漱石の「倫理」は音を立てて崩壊するというのである。

Ⅴ 『道草』への途
 後書きのような最終回で、漱石は珍しくこれまでの連載を総括するような筆致を見せる。

 私の冥想は何時迄坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、彼(あれ)にしようか、是にしようかと迷い出すと、もう何を書いても詰らないのだという呑気な考も起ってきた。しばらく其所で佇ずんでいるうちに、今度は今迄書いた事が全く無意味のように思われ出した。何故あんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神経は静まっていた。此嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下して笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺籃の中で眠る小供に過ぎない
 私は今迄他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、成る可く相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、却って比較的自由な空気の中に呼吸する事が出来た。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺く程の衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずに仕舞った。・・・私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――頗る明るい側からばかり写されていただろう。其所にある人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今其不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰もそれが他人であったかの感を抱きつつ、矢張り微笑しているのである。(同39回)

 漱石はみずから描いた自画像を、(作品の出来栄えだけからの評価にせよ)佳しとしている。これはそれまでの漱石には見られなかったことである。いったいどうしたと言うのか。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君は斯う云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(『道草』102回小説末尾)

 次作『道草』を読み終わった読者は、この『硝子戸の中』の最終回を思い出して、漱石が『道草』を結んだときの心情を忖度する。健三のセリフは(わざわざ)「苦々し」いとは書かれるものの、意外にも健三と赤い頬の赤ん坊には、作者の分け隔てない同情が注がれていたのである。試しに引用下線部が書かれなかったと仮定して読み直してみると、健三が(『硝子戸の中』の漱石のように)「微笑してい」てちっともおかしくないことが解かる。

漱石「最後の挨拶」道草篇 19

393.『道草』先行作品(8)――修善寺の大患


・第3集『思い出す事など』 (つづき)

Ⅰ 大吐血はなぜ起こったか
 直接の原因が漱石胃潰瘍にあることは言うまでもない。問題はなぜそれが暴発に至ったかである。

①塩原昌之助
 前述したように明治41年12月の伸六誕生が、翌る明治42年3月~11月の塩原昌之助百円縁切事件(所謂「道草」事件)につながり、明治43年夏漱石は昏倒する。もし漱石がそのまま帰って来なければ、その年の桃の節句に生れた雛子は、漱石の「忘れ形見」となるところであった。漱石はしぶとく生還し、生れて始めて病院で越年したが、その明治44年の末には雛子が身代わりのように亡くなってしまった。結果として伸六は(漱石と同じく)末子の男子になった。
 同じ年(明治44年)に起こった博士号問題・朝日退職問題・文芸欄問題などの鬱陶しい揉め事も、養父との絶縁の罰が当たったとは言わないが、その厄落しのためにも、『道草』はいつかは書かれなければならなかったのであろう。育てられた恩義に報いなかったのは誤りではない。漱石サイドにはそう主張する正しい(と自分が信じた)理由が存在した。『道草』はその申し開きのために書かれた小説とも言える。

②薬害もしくは医療過誤
 明治時代にはそういう発想はなかったかも知れないが、すでに足尾鉱毒事件も起きて久しい。漱石が人事不省に陥ったのは東京から医師団が到着した後の出来事である。
 薬が効きすぎるということがある。種痘から疱瘡を発症したのもその一例であろうか。漱石は酒が飲めない。酒を飲んでも苦しいだけで楽しくならないので、酒が薬にならない。例えば初恋の頓挫といった、誰にでもありそうな経験が、漱石のようなタイプの人にとっては、一生(妻以外の)女に近寄れないという「症状」を引き起こすことがある。自分では癇性・変人・潔癖と言い訳するかも知れないが、自然に順っているのではないことに薄々気付いている。
 空腹に耐えられる人とそうでない人がいる。漱石の大食いは有名だが、1日くらい絶食して割りと平気な人もいれば、(胃酸が強いのであろうか)非常に苦しむ人もある。シャロックホウムズは考え事に夢中になると食事することを忘れるようなイメジがあるが、実際には規則正しい英国紳士らしく、1食抜いただけで大騒ぎするようなところも見受けられる。読者は昼飯を食いそびれたホウムズがそのまま事件調査にかかって、夜遅く帰宅して(まるでこれ以上血糖値が下がると命が危ないと言わんばかりに)冷め切った皿のパイだかに突撃するシーンを思い出す。眠狂四郎は(少なくとも読者の前では)食事というものをまったくしない。まさか日本酒だけで生きているわけでもなかろうが、この稀有の武闘家は食うことにまるで関心がないかのようである。たった一撃で敵を斬り斃す膂力や、あの強靭な瞬発力・跳躍力を生む筋肉はどこから来るのだろう。戦中戦後の食糧難時代を過ごした作者の反語(皮肉・怒り)であろうか。

Ⅱ 『明暗』への道
 漱石のすべてのエセイが、自伝的作品たる『道草』を指し示しているように見えるのは理の当然としても、その中で彼岸の手前でとどまったことを書いた『思い出す事など』と、実際に行ってしまった漱石最後の作品たる『明暗』の間に、互いに結びつくものがあることもまた容易に想像されるであろう。すべての道は『明暗』に通じるとは言わないが、どちらも漱石がある究極を描いていると思われるからである。

③釣台に乗って旅館を出る
『明暗』続篇の話になるが、書かれなかった部分の設定としては、津田もまた漱石みたいに釣台に乗ったまま、旅館の我が部屋を出ることになるのではないか。温泉毒に当たって大出血した津田は、もう自分の力で歩く自由を持たない。下手に歩くとまた傷口が破裂する。階段の多い入り組んだ造りの旅館の廊下では、戸板に担がれる方が勝手である。
 そのための担ぎ手が勝さんと手代、加えて東京からわざわざそのためにやって来る小林と原であろう。お延ももちろん一緒である。鏡子が何度旅先で寝込んだ漱石の許へ駆け付けたか。
 皆で大騒ぎして津田を表玄関の庭へ出す。以下漱石の経験は少しアレンジされ、戸板の釣台は地べたから馬車に渡されて、津田は周りを支えられながら馬車の座席に半ば寝そべるように乗り移る。宿の人々と別れて湯河原の駅へ。馬車を降りたらそこから先は小林と原の肩を借りるしかない。軽便、小田原鉄道の電車、東海道線と乗り継ぐ「懺悔の鉄路」。一部の読者はここで小林が医師と同姓であったことに得心がいく。

 勿論これらのくどくどしい道行のさまがそのまま叙述されることはないだろう。漱石は主人公の旅を書くとき、往復とも描写するということはしない。「裁かれたる復路」は実際には「省かれたる復路」となって、小心な津田の「不安」としてのみ語られよう。
 その大団円たる哀れな旅路を読者に想像させながら、『明暗』の最後の物語は進行する。
 小説の流れとしては、温泉宿で動きの取れなくなった津田の回が終わったあと、お延が吉川夫人、小林とそれぞれ対決し、物語は津田の許へ向かうお延ら3人の変則的な道中で幕を閉じる。
 漱石はここでも最後まで書き切るということをしない。お延(と小林)が天野屋で津田と久しぶりに顔を合わせるシーンとそれから先の道のりは、現実の物語としては語らないのが江戸の粋であり、江戸っ子漱石の流儀である。

《『明暗』続篇概要》
・昼食後、連れ立って不動滝を見に行く。滝の前に佇む清子と浜の夫婦。滝がよりよく見える高台への坂道を独り上る津田。
茶店のかみさんは葭町の元芸者。太鼓持ちの亭主との滑稽な会話。津田と清子の会話も同じように嚙み合わない。対照の妙。
・夕刻、下の階の(効き目の強い)湯に浸かった津田は傷口が開いて悶絶する。
・倒れた津田に対し、清子は吉川夫人に援けを求める。(津田の回の終わり)
・お延は突然やって来た吉川夫人から津田のアクシデントを聞かされる。(お延の回の始まり)
・吉川夫人は(清子の名を出すわけにはいかないので)宿の番頭からの話としてお延に伝える。
・吉川夫人の帰ったあと一人悩むお延。温泉逗留をいつまでも続けるわけには行かない。
・しかし動けない津田を女の手だけで東京へ連れ戻せるものだろうか。
・津田には一刻も早く再手術を受けさせたい。お延は津田を迎えに行く決断をする。
・お延はそれを告げに吉川夫人の許を訪れるが、そこには小林と原が(画の商談に)来ていた。
・お延は吉川夫人と相談の上、小林たちに同行を依頼する。資金の手当てのことはすべて現行の『明暗』の中に書き込み済である。流石に3人分の1泊旅行には足りないので、お延は指輪を質入れする。これが吉川夫人の謂う「奥さんらしい奥さん」のことであろう。
・湯河原へ向かうお延・小林・原の凸凹トリオ。途中の乗換駅のどこか(早川口か国府津)で、上京する清子と遠くすれ違う。

 漱石作品の常套では、津田の湯河原行きの叙景が既になされている以上、お延たちの旅の様子は一切書かれないのが通則であるが、『明暗』ではお延は津田と同じことをする。それがまた『明暗』の長大化につながるのであるが、津田の許へ向かうお延の心情は、現行の『明暗』に書かれた車中の津田に匹敵する丁寧さで描かれよう。

④「嬉しい所なんか始めからないんですから」
 漱石修善寺で一度死んだ。貴重な体験ではある。そして図らずも回復して、大勢の人の世話になりながら蒲団に横たわる自分を見出した。ありがたいという感謝の念は当然ある。しかし心を揺さぶられるような思いは湧いて来なかった。三途の川の向こう岸も手前の景色も、垣間見ることすらなかった。臨死体験漱石には何の感慨も大悟も齎(もたら)さなかった。
 前述した「神」の話はひとまず措くとしても、諦念は漱石に始めから備わった特質であろう。生に執着がない。自分自身(の思想・行動・正邪・倫理観)に対する執着はとてつもなく強いが、それが却って自身の生に対する無頓着につながる。

「嬉しい所なんか始めからないんですから、仕方がありません」(『明暗』10回)

 津田はお延との新婚生活について、吉川夫人にこう釈明したが、これは自分の人生全般に対する漱石の述懐でもある。
 津田(漱石)は結婚しても、おそらく子供が生まれても、世間一般の男がするようには感動しない。単純に喜ばない。そのときだけ(例えば)神を祝福したりしない。クールという言い方があるが、自分自身のこと(自身の生き方・生きる上での問題)に関心が集中するので、他のことにかまっていられないのである。漱石は暖かい性格の持ち主であるとも言われるが、その話はまた別であろう。

Ⅲ 死は生き通せない
 何度も書くように、『思い出す事など』は彼岸からの帰還について綴った記録であるが、その中で漱石は、珍しく生と死について自分の意見を「哲学的に」開陳する。
 漱石の経験した「生と死」には狭間(境界)が無かった。生から死へは、移行しなかった。それはあたかもアキレスと亀の譬えのごとく、生はどこまでも果てしなく続いて、何物かに置き換わるということをしなかった。生は死によって、あるいは何かによって、断絶しなかった。

 強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。其間には一本の髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。程経て妻から、左様じゃありません、あの時三十分許は死んで入らしったのですと聞いた折は全く驚いた。・・・余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残――凡て人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽して漸く髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけ様とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈である。其間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とは夫程果敢ないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも急劇で且没交渉なのに深く感じた。何う考えても此懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得出来なかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、其二つの世界が如何なる関係を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。
 生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束に使用される言葉である。よし輓近の心理学者の唱うる如く、此二つのものも亦普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにした所で、斯く掌を翻えすと一般に、唐突なる掛け離れた二象面が前後して我を擒にするならば、我は此掛け離れた二象面を、如何して同性質のものとして、其関係を迹付ける事が出来よう。(『思い出す事など』15回)

 大いなるものは小さいものを含んで、其小さいものに気が付いているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己等の寄り集って拵らえている全部に対しては風馬牛の如く無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、又結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識も亦より大いなる意識の中に含まれながら、しかも其存在を自覚せずに、孤立する如くに考えているのだろうとは、彼が此類推より下し来るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、又時にとって研究上必要の活力でもある。然しただ仮定だけでは、如何に臆病の結果幽霊を見ようとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずる事が出来ない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ立方体に一千万を三乗した数が這入ると断言した。・・・想像を恣まにする権利を有する吾々も此一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみ尤もと首肯く丈である。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云う迄もない。よし物理学者の分子に対する如き明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにした所で、余の心は遂に余の心である。自分に経験の出来ない限り、如何な綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。果して時間と空間を超越した然し其超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事丈が明白な許りである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合出来よう。臆病にして且つ迷信強き余は、ただ此不可思議を他人に待つばかりである。(同17回)

 これはヴィトゲンシュタインの世界観を思わせるものである。本ブログ(道草篇9)でも『三四郎』広田先生の夢のシーンで、「世界の意味(が世界の外にあること)」について述べたことがあるが、(本ブログ坊っちゃん篇・野分篇でもさんざん引用してきた)『論理哲学論考』の一部を再度紹介することをお許しいただきたい。

6- 4311 私の死は、私の人生の1イベントではない。私は、私の死を経験しない。私の死は、私の経験するものの範囲を超えた、何物かである。(人は死を経験することが出来ない。)
 永遠を、終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、今の瞬間を生きる「私」はまた、(瞬間という時間は認識し得ないのだから、)永遠の中に生きると言えるだろう。
 我々の視野に境界線がないように、我々の生もまた、奇妙なことに縁(ふち)を欠いている。

6-4312 人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の外にある。(以上ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』より論者訳)

 漱石は死を経験したと言う。ヴィトゲンシュタインは人は死を経験できないと言う。両者は一見正反対のことを述べているようで、その意味するところは同じではなかろうか。生還した漱石は、結局死は経験できるようなシロモノではないと言っているに等しい。漱石が謎と考えたものとヴィトゲンシュタインの唱える謎は、2人が一致して結論を下したように、時間と空間の外でしか解けないのである。

Ⅳ 作風の変化
 もし漱石作品を前期と後期に分けることが許されるなら、その分岐点は『門』と『彼岸過迄』の間に位置する修善寺の大患であろう。こじつけるわけではないが、大患前の『門』までの諸作と『彼岸過迄』以降の作品の間には、いくつかの違いが感じられる。
 その最たるものは主人公に対する作者の「感情(同情)」であろうか。『猫』『坊っちゃん』『草枕』から『三四郎』『それから』『門』にかけて、漱石は時には冷笑を装いつつも、おおむね暖かい眼差しで主人公(たち)を見ている。漱石は常に、彼らにある感情を注いでいる。登場人物は年齢性別を問わず、あたかも漱石学校の生徒であるかのように描かれる。生徒であるから当然漱石は彼らのことをよく識っている。大事にもする。同時に評価(採点)もしなければいけない。
 それが『彼岸過迄』からは、人物は少しずつ(身内でない)外部の人間になっていくかのようである。冷たくなったと言ってもいい。漱石は人物に対して自分の感情を決める前に(同情する前に)、彼らに勝手に行動させる。主人公たちの行動が正しいか否か。それは問うことさえなされないまま、1つ1つの物語はどんどん進んで行く。漱石はもうかつてのようには彼ら1人1人にかかずらうことをしなくなった。主人公たちもまた、より露骨に自分の意思で行動し始める。漱石はこれを後から振り返って、「則天去私」と名付けた。
 この変化に原因があるとすれば、それはやはり修善寺臨死体験に行き着くのだろう。漱石は朝日に入社して、辞めたくて仕方なかった教師は辞めることが出来た。けれども人間が変わったわけでは無論ない。漱石はある意味では教師のように小説を書いてきたと言えるだろう。修善寺漱石は一度死んだ。このとき死んだのは教師としての漱石ではなかったか。
 死は尊いものであるが生はランダムな運命のいたずらに過ぎない。自分の垣間見た尊い、巨大なものに引き比べ、現実の人間の生の、いかにちっぽけで取るに足らないものであることか。漱石もそれに気付いて、主人公たちの「生」から徐々に手を引いていった。生きる価値を認めなくなったというのではない。そうではなく(教師のように)評価することを、やめたということである。
 先生のいなくなった生徒はいよいよ我が物顔に振舞い始める。『心』の「先生」の「振舞い(自裁)」はその極北であり、『道草』は自伝という看板につい見過ごされてしまうが、健三と御住の身勝手さは洗練を極め、その「身勝手さ」は『明暗』の津田とお延によって一旦完成を見る――筈であった。